第9話 いざ、剣道部へ

そして、いよいよ部活動体験当日。

今日は胸がすくような快晴だった。というわけではなく、生憎空は曇り模様。

俺の気分が若干沈んでいるのは、きっと曇った空のせいではないだろう。

「みんな、おはよう!」

朝、教室の隅でひななたちと話していると、天気の影響などまるで受けていないような馬鹿でかい声と共に歩み寄ってくるやつが一人。

机でふて寝している紅野を除いたクラス中の視線を集め、それでも恥ずかしがることなく堂々とした様子でそいつはやってくる。

「おはよう、真ちゃん」

「おっす、相変わらず朝から元気ね」

ひななが笑顔で挨拶を返すと、水原が呆れた様子で息を吐く。

「……おはよう」

俺も続いて言葉を返すが。

若干眉根が歪んでしまったのは不可抗力だ。

「来人、今日の放課後は楽しみにしてるよ」

「俺は全然楽しみじゃねえけどな」

心の底から嬉しそうにいう真司に対し、俺は真反対な冷めた表情で言葉を返す。

「つーか、言っとくけど本当に少し見るだけだからな」

「わかってるわかってるって」

本当にわかってんのか。と疑いたくなるような調子で真司は頷く。

ちなみに俺も真司も互いを名前で呼び合うようになっているが、これは別に仲がよくなったというわけではなくて。

向こうがいつの間にか俺を名前で呼ぶもんだから、自然と俺も名前で呼ぶようになっただけだ。

まあ、気兼ねなく話せる相手というのは間違いないのだが。

と、いうのもこの男。やたら肝が太いというか、スライムみたいなメンタルの持ち主のようで。

どれだけ歯に衣着せぬ物言いをしようとも、「あっはっは」と笑って受け流してしまうのだ。

例えば。

「はあ、俺はお前の顔見るたびに憂鬱になるよ」

と言ってみても。

「はは、それは残念だ。僕は君と剣道の話がしたいとウズウズするけどね」

こんな感じで飄々としている。

表面では落ち込んだ素振りを見せても、数秒後にはそれを忘れてしまったかのように振る舞うのだ。

それは一昨日の朝、紅野にキレられたときも同じで、俺が気まずい思いをしている横で、彼は「はは、ごめんごめん。ちょっとうるさかったかな」などとのたまっていた。

それが紅野の逆鱗を刺激しまくったわけだが、ひななが間に入ってくれたおかげでなんとかなった。

その時、教室中の空気は、ああ。またか。って感じだったから、これまでにもきっと似たようなことが何度かあったんだろう。

もしかしたら、紅野がクラスで腫れ物のような扱いをされているのは、そういうやり取りを重ねてきたからなのかもしれない。

だが、そんな腫れ物に対しコンスタントに接触を試みるやつもいる。

「おう。紅野、おはよう」

それは俺だ。

ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り、腕枕のなかに臥せっていた紅野が顔を上げたタイミングで声をかける。

「……フン」

おはようの言葉は返ってこず、鋭い視線と苛ついたような鼻息が返ってくる。

しかし俺は特にショックとかは受けず、またか、というニュアンスを込めた笑みを浮かべる。

紅野に挨拶をし、邪険にはねのけられる。

それがほぼ毎朝のルーティンだった。

もちろん挨拶だけでなく、その他にも授業中や休憩時間に隙を見つけて、色々と言葉をかけているが、ろくな反応が返ってくることはない。

たまに何か言葉を返してくれても、せいぜい一言くらい。

会話をつなげようとしても絶対に反応してくれない。

最初はもちろん、あまりに刺々しい態度に何度もイラッときたり傷ついたりしたが、慣れとは恐ろしいもので。

いつからかはどんなにひどい態度を取られても真司のごとく笑って受け流せるようになった。

無論、コミュニケーションを拒絶する紅野にしつこく話しかけるのは、真司が俺にしたことと同じじゃないだろうか。なんて思ったこともある。

しかし、紅野は二言目はともかく、俺の最初の一言には絶対反応してくれるのだ。

大半は、さっきみたいに鼻息だったりするが、本当に嫌なら俺と真司にしたように怒鳴るか、完全に無視するはずだ。

なので、もしかしたら嫌がられてるわけではないんじゃないかと、密かに希望的観測を抱いていたりする。

だからせめて、紅野に本気で拒絶されるまでは根気強く話しかけてみようと思う。

ちなみに、そんな俺と紅野のやり取りに対して。

「霞河くんって、紅野さんにすごく話しかけてるよね。あんなふうに舌打ちとかされて、嫌じゃないの? あ、いや別に紅野さんに関わるなって言いたいわけじゃないんだけど……」

「なあ、霞河って紅野のこと好きなのか? 言っとくけど、俺はあまりおすすめしないぜ。確かに見てくれはいいけど、性格がきつすぎるからよ」

などと言われることがあった。

その言葉には、「まあ、もう慣れたけど、正直嫌だよ」と前者に、後者には「別に好きってわけでもないんだよな……」と答えておいた。

じゃあ、どうして関わるのかと聞かれれば。

「さあ、それも特に理由はないんだよな」と答えている。

ちなみに、一度あまりに不名誉な勘違いをされたが、俺は別に罵倒されるのが好きなんてことは断じてない。

紅野と仲良くなりたい理由は、本当に「なんとなく」でしかないのだ。

それでも強いて理由をつけるなら、「くだらない意地を張っているから」だろうか。

あの日、あいつが「クラスに馴染みたいなら、あたしと関わらない方がいいわよ」なんてのたまった時、俺は「知るか。これからも話しかけ続けてやる」と返した。

それに対しあいつは「勝手にすれば」と答えた。

だから、もう引けなくなってしまった。そんな感じ。

だから俺は、あいつに本気で拒絶されるか、周りに何を言われようとも紅野へのアタックをやめるつもりはない。

そんな俺を、クラスのみんなも、そういうもんか。と認めてくれている。

ちなみに、クラスのみんなとは一通り会話を済ませている。

最初こそ群れに迷い込んだよそ者のような扱いを受けていたが、元々俺を知っていたひなな、彼女と特に仲がよく、俺にも友好的に接してくれた水原、俺に興味津々の真司を仲介に、うまくクラスの輪に馴染むことができた。

その中でも特に、真司とのイザコザはプロレスのようになって、クラスの連中──主に男子連中にはウケたらしい。

おかげでほとんどの人が、悪いやつではないと認識してくれたようで、積極的に話しかけに来てくれた。

その点に関しては不本意ながら、真司に感謝だ。

そんなわけで、学校生活の滑り出しは上々と言える。

こんなふうにクラスのみんなと和気あいあいと過ごせるのは、今までにない経験でとても新鮮なものだった。



その日の授業は四限で終わり、普段なら昼休みに突入する時間に解散となった。

「また後でね、クルくん」

「んじゃ、またね~」

水原とひななが手を振って教室を出ていく。

先に出ていくのはほぼ全員が女子だ。

それは、これから部活の男子はこの教室で着替えるからで、同じく女子が隣の教室を更衣室として使うからだ。

帰宅部や文化部の生徒は、いうまでもなく着替えたりはしない。

「じゃ、行こうか」

真司が通学用のかばんを持って、俺のもとへやってくる。

格好は制服のままだ。

彼に連れられて、教室を出る。

「そういや、お前は着替えなくていいの?」

「ああ、道場には更衣室があるからね。道着はそこに置いてあるんだ。防具も竹刀も一緒にね」

「竹刀も置いとくのか?」

「そうだよ。どうせ朝も道場には行くからね」

「ふーん。剣道部って朝練もしてんの?」

「いや、朝は僕の自主練だよ」

そんな言葉を交わしながら道場へ向かう。

道場にたどりつくと、まだ責任者が来ていないのか鍵が閉まったままだった。

「鍵、取りに行かなくていいのか?」

開かずのガラス戸を前に俺は提案する。

だが真司は、いや。とかぶりをふると、かばんから鍵を取り出してみせた。

「僕は自主練で使うから、鍵のスペアをもらってるんだ」

鍵穴に入れた鍵を回しながら、真司が答える。

まじか。

道場には真司のように防具とか私物を置いたままにする人が大半だから、トラブル防止のためにそういうのは普通渡さないもんだと思ってたが。

「それ、ちょっと不用心すぎね?」

「僕もそう思うけど……でも、それだけ僕を信頼してくれてるってことじゃないかな」

言いながら真司が戸を開く。

立て付けが悪いのか、かなり力を込めていた。

「それでも、ウチじゃ絶対ありえないな」

「ウチ?」

「いや、なんでもねえ」

中へ入ったら戸は閉めずに下駄箱で靴を脱ぐ。

真司は靴下まで脱ぐが、俺はそのまま。

素足で道場に入るのは練習をする人だけなので、俺には関係ないことだ。

そんな俺を見て真司がなにか言いたそうにしてるが、無視だ無視。

下駄箱のすぐ奥が道場の入り口になっている。

真司を追って俺も中へ続く。

道場と下駄箱の境を超えるとき、小さく会釈しておく。

これは礼儀を重んじる剣道の決まりで、いわく使わせていただくことに感謝するんだとか。中には奥の神棚にも頭を下げる決まりの道場もあるのだが、ここもそうらしい。

どの道場にもある『心・技・体』の掛け軸の下の壇に気持ち深めに頭を下げる。

やれやれ。ただ練習するだけなのに相変わらず大げさな風習だ。

真司が更衣室に入ると、俺は併設されている柔道場のマットにあぐらをかく。

鍵が閉まっていたので当たり前のことだが、今この道場には俺以外の誰もいない。

さっきから、剣道場特有の汗のこもったような匂いがつんと鼻腔をくすぐっていた。

悪臭というわけではないが、俺にとってはひどく不快な臭いだ。

二分くらいで道義に身を包んだ真司が出てくる。

そして脇には竹刀を何故か二本も抱えている。

真司よ。一本竹刀が多くないか。

一応、剣道には二刀流も存在するのだが……まさか、そういうわけでもないだろ。

「どうだ? 稽古の開始まで時間はあるし、その前に軽く素振りでも」

歯を見せて笑いながら、竹刀が一本差し出される。

「やらない。余計なお世話だ」

ありがたくもない申し出を、顔を背けて突っぱねる。

元々練習には一切参加しない約束だ。

それをわかっているから、真司も無理強いすることなく「やりたくなったらいつでもいいからね」と竹刀を俺の左に置く。

無論、俺は一切触れるつもりはない。


俺から離れると、真司は剣道場の中央に立って、真っ直ぐ中段に構えた。

入り口に向かって構えているから、俺には横から見える。

暇だから彼の立ち姿を観察していたのだが、彼が竹刀を構える姿は、なかなかどうして素晴らしいものだった。

まず、背筋はまっすぐに、左足を後ろに引いて、かかとを上げる。竹刀は腰の中央あたりで構えて、肘のあたりに適度な緩みを含める。

基本に忠実なお手本のような構えだ。

「スゥゥ──」

真司は深く息を吸うと、おもむろに剣先を上げていく。

やがてそれが頂点に達したところで──。

「いちっっっ!」

豪声ごうせいと共に振り下ろされた。

竹刀は鞭のようにしなり、中段より少し高い位置でピッタリと止まった。

踏み込んだ右足を戻し、間髪いれずに次の斬撃が振るわれる。

「にっっっッッッ!」

同じような動きが何本も続く。

「……強いな」

十回目の振りが終わると同時に、俺は小さくつぶやいた。

なるほど。どうやら、剣道が好きで好きで仕方ないとは口だけではないらしい。

竹刀を振り上げ、鋭くおろし、右手を絞ってギュッと止める。

それら一連の素振りの所作に、一切の無駄がなかった。

しかし、本当に驚くべきは、それら十本全てがまるで機械のように正確無比に振るわれたことだ。

同じ位置まで竹刀を振り上げ、同じ位置に振り下ろして止める。しかも、一本一本ギアを上げていくように徐々にスピードを上げていったうえで。

それは常日頃から剣を振り続ける人間にしかできない動きだ。

その後の十本も含め、計二十本の素振りを終えると、真司は構えを解いて息を吐いた。

再び息を吸うと、次はぴょんぴょんと前後に飛び跳ねるようにして竹刀を振るう。

「いちっ! にっ!! さんっ!!!──」

この動きは、早素振り呼ばれる動きで、文字通り素早くする素振りのことだ。

声を出しながら忙しなく前後に跳ぶので、非常に疲れるのだが、真司はそれを二十本続けても息を切らせることはなかった。

それだけでなく、早素振りですらも一本たりとて素振りの精度を欠かなかったのは流石というべきか。

二十本目が終わると一息入れて再び最初の素振りへ。それが二十本終わったら早素振り。

二十本ごとに素振りの種類が変わるらしい。


その後、徐々にやってきた部員も加わっていき、素振りが続く。

部員のほとんどは俺を見て疑問符を浮かべていたが、真司が説明すると全員納得している様子だった。

セット間の休憩時間を見計らって、「高校生の人なんてよく連れてこれたね」なんて会話もしている。

真司は「はい。期待の新人さんですよ」なんて答えていた。

誰が期待の新人だ。

入部する前提で話すんじゃない。

さらに十分くらい経った後に、制服の違う生徒もやってくる。

おそらく、後者の違う中学生達だろう。

時々混じってくる体操着の生徒は、剣道に興味を持ってきた見学者なんだろうな。

その中に本気で入部する気のある人がいるなら、是非頑張って欲しい。

彼らは幾分緊張した面持ちで、俺の周りに座っていく。しかも体育座りで。

参ったな、俺だけ態度がでかいみたいじゃないか。

ちなみに、武道においてあぐらをかくのは無礼なことではない。

無論、師範や目上の人の前では正座が基本だが、俺には関係のない話だ。

俺は見学者から意識を逸らし、再び素振りに注目する。

今来てる部員は全部で七人。見たところ高校生四人中学生三人という内訳だ。

ずいぶん少ない気がするが、これで全員なんだろうか。

だとしたら、なるほど。

真司が俺の引き抜きに躍起になっていた理由が少しはわかったかもしれない。

団体戦のメンバーは五人。

つまり、高校生組はあと一人入ってくれれば団体戦に出られるということ。

この学校のシステムと人数的に、高校での進入部員は望めない。

そこに現れた経験者の新入生はまさに天啓のようだったというわけだ。

まぁ、そんな事情があったとしても、入ってやるつもりはないけどな。

それに、言ってしまっては悪いが。

「──さんっっっ!!!」

「「「「「「─さん!」」」」」」

通常の素振りでは、他の部員は真司の後に続いて竹刀を振っている。

しかし、その誰もが真司と比較すると二ランクは格が落ちる。

全体的に声に覇気がないし、剣筋に鋭さも感じない。

姿勢もどこか安定しておらず、特に早素振りの時は元の立ち位置からずれてしまう者までいた。

この体たらくでは仮に大会に出れたとして、まず勝ち残るのは無理だろう。

下手したら一回戦で真司以外は二本負けで終わるかもしれない。

それくらいの力の差を感じる。

その差は特に、素振りが長引くほどに顕著になっていった。

疲れが溜まって来たのか、目に見えて振りが鈍くなる。それでも食らいついてる奴らはまだいい方で、中にはリタイアするやつまで現れた。

いまだペースが変わらないのは一番長く続けてるはずの真司だけである。

いや、これはいわば全体練習前のウォームアップ的なものだから、無理はしなくてもいいとおもうが……真司はちゃんと各二十本ごとに一分の休憩を入れてる。

それでもついていけないなら、先に筋肉と体力をつけた方がいいんじゃないだろうか。

ていうか、それはいいとして。

もうそろそろ全員揃って三十分は経つんだが、顧問はいったい何をしてるんだ。

俺はもう待ちくたびれたぞ。

練習の具体的な開始時間は聞いてないが、さすがに三十分は待たせすぎじゃないか。

俺が退屈に辟易とし始めたところで、ようやく顧問らしき人が現れる。

背はあまり高くない、岩のようにゴツゴツした顔の男だった。

そして腕は異様に太く、肩幅も広い。

ザ・剣道家って感じの体格だ。

真っ先に素振りを中断した真司を中心に、部員達が顧問の周りに駆け寄り、口々にをお疲れ様です!」と頭を下げていく。

お察しの通り、あれも剣道の作法の一種である。

しかしまぁ、部外者である俺には関係のない話さ。

だから俺は微動だにもしない。が、俺の周囲の体験生は、「俺も行ったほうがいいかな?」などと囁き合っている。

ああ、俺は行った方がいいと思うぞ。

君に入部する意志があるならな。

そうこうしているうちに、挨拶を終えた部員がはけていく。

水分補給をすませた部員達が端に正座して並び、そのまま稽古が始まるのか──と思いきや。

顧問がギロッとこちらを睨みつける。

そして低い声で問いかけてくる。

「お前ら、部活動体験希望者か?」

「あ、いえ。俺は──」

「はい! そうです!」

ただ見にきただけです。と伝えたかったのだが、威勢のいい返事に遮られる。

おーい。それだと俺まで体験に来たって勘違いされるんだが。

「あの──」

「だったらなんで挨拶に来ないんだ!」

まーた俺の言葉が遮られる。

しかも今度は顧問の怒声によって。

「稽古の前に師範に挨拶! 常識だろうが!」

そんな厳しいのは剣道か野球くらいだろうけどな。と。心の中で付け加えてみる。

たしかに作法は剣道という競技において欠かせないものだから、厳しくするのはわかるし、態度の悪いやつに怒鳴ることもあるだろう。

でも、それを入部もしていない体験生にまでやるか?

せめて一回教えてやればいいのにと俺は思うんだが。

それに、なまじ声が大きいばかりに余計威圧感を与えてしまってる。

こんなんじゃ、入部しようと思うやつなんていないんじゃねえの。少なくとも俺だったら絶対に入らないな。

それとも、こんな叱責でふるい落とされるような軟弱者はいらないと?

生徒数は限られてるというのに、それは些か贅沢ではないか。

「それに体験するんならとっとと並ばんか! 挨拶だ!」

一喝されて、弾かれたように並ぶ体験生たち。

そんな彼らの様子を部員達は苦笑して眺めている。

その様子から、顧問の癇癪は日常茶飯事なんだろうな。

「……おい。お前は動かんのか」

鋭い眼光が俺に向けられる。恐ろしい。

「あー、俺は練習を見に来ただけなのでお構いなく」

手をあげて、さっき伝えられなかった言葉を伝える。

「それでもだ! 早くしろ!」

しかし、有無を言わせぬ勢いで怒鳴られてしまう。

ちくしょう、こういう堅苦しいの。やっぱ嫌いだ。

「来人! うちでは稽古前の挨拶は全員でするんだ。悪いけど、並んでくれ」

やれやれ、仕方ない。

真司に頼まれて、俺はようやく腰をあげる。

そして一番端に正座した。

硬く冷たい木の板の感触が、制服のズボン越しにも伝わってくる。

不思議なものだ。もう二度とこの上に腰を落ち着けることはないと思っていたのだが。

「黙祷!」

真司が声を上げる。

すると、部員や顧問が座禅と同じように手を組み、目を閉じた。

体験生達は何が起きたかわからないようだが、見よう見まねで合わせていた。

もちろん、座ってしまった以上俺も周りに倣う。

しかし、俺は別に黙祷自体は嫌いではない。

黙祷は練習を前に精神を研ぎ澄ませるためにあるものだ。

かつて剣道をやってたときで、一番好きなのは練習前このひとときだった。

呼吸を整え、頭の中身をクリアにしていく。

そうすると、不思議なことに視覚以外の四感が研ぎ澄まされていくのだ。

道場内に染み付いた汗の匂い、正座によってふくらはぎの血流が鈍っていく感覚。右耳からは誰かが身動ぎする音が聞こえる。結構近い。体験生のだれかに落ち着きのないやつがいるようだ。

まあ、剣道を知らないならこうして集中することもないし、その気持ちはわかる。正座だって慣れないだろうし、本当はあぐらをかきたいんだろ?

黙祷の時間はだいたい一分ほど続いた。

「終了!」

顧問の声で、俺は目を開ける。

「礼!」

今度は真司の声。

指示に従って、両手をついて頭を下げる。

いわゆる土下座の所作だが、それを行うことで屈辱的な感覚はない。動きとしては同じはずなのに、この差は何なんだろうな。

「正面に礼!」

今度は体の向きを変えて、心・技・体の垂れ幕へ頭を下げる。

「ええ、今日は体験に来た者もいるようだが、だからといって稽古内容を変えることはない。流石に受けをさせることはないが、体験生だからといってひいきをするつもりはないから、そのように」

受けとは、面打ちや胴打ちの練習で打たれる役のことだ。体験生は防具もないし、そんな役をやらせるわけにはいかないだろう。

いくら平等に扱うからといって、そんなことをさせてたらドン引きだ。だが。

「そこ! 足を崩すなぁ!」

そんなやたらめったら怒鳴るのもどうかと思うが。

「あ、す、すみません……」

俺の二つ隣の体験生が指をさされる。

おそらく、黙祷のときに足を気にしていたやつだな。

とうとう耐えきれなくなって、足を崩してしまったようだ。

「それでは、姿勢を正して! 礼!」

全員が背筋を伸ばすと、顧問の号令に従って座礼。

「「「「よろしくお願いします!」」」」

なにはともあれ、これでようやく練習は始まってくれるらしい。

あーあ、とっとと終わってくれないかな。

漠然と考えながら、俺は最初に座っていた位置、柔道場の方へと戻った。

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