第3話 正当防衛

俺は以前入試のためにこの街に来たことがある。

だから駅から夜桜へ、そして夜桜から古川高校へ行く道は覚えていた。

だが、ひななが通ったのは俺がまるで知らない道だった。

「結構狭い道を通るんだな」

前を行くひななに声をかける。

夜桜前の歩道をすぐに抜けて、俺たちは田んぼに囲まれた狭い道を通っていた。

その道がどれくらい狭いかというと、並んで歩けば落ちてしまいそうなくらいだ。

正直なところ、他に道があるだろと思ったが、案内してもらっている立場なので何も言えない。

まさか、ひななが嫌がらせでこんな悪路を選ぶとは思わない。

それになにより──。

「うん。ここ通ると近道だからね」

ひななは歩きながらこちらを振り向く。

その様子からして、彼女はこの道を歩き慣れてるのだろう。

「でも、ごめん。多少遠回りでも、もう少し通りやすい道のほうがよかったかな」

「いや、いいよ。これも一種のトレーニングだと思えば苦じゃない」

「ならよかった」

もうすぐで大通りに出るからね。とひななは前を指す。少し奥に出口が見えていた。

「なにかスポーツとかやってるの?」

ひななは背後の俺に届くように、大きな声で尋ねてきた。

急な質問に俺は首をかしげる。

「やってないけど、どうしたんだ急に?」

「や、体鍛えてるみたいだから、なにかスポーツとかやってるのかなって」

なるほど、そういうことか。

確かに体を鍛えてるならそう思うのが普通だ。

だが、俺は体育の授業以外では生まれてから一度もやったことはない。スポーツは。

「いや、やってない。俺が体を鍛えてるのは趣味みたいなもんだよ」

もしくは、習慣か。

小さい頃から続けてきたランニングや筋トレが、俺にとってはもはや生活の一部になってしまっている。

俺にとってトレーニングは入浴と変わらないものなのだ。

「高校に入ったら、なにか部活に入ったりはしないの?」

そう聞かれて、俺は唸る。

正味、俺は中学までスポーツは遊びの延長、なんて思ってたので部活にも入ってこなかった。

だが、せっかく新天地に来たのだ。そんなひねくれた偏見は捨てて、なにか始めるのも悪くないかもしれない。

できれば球技とか物を使うやつじゃなくて、肉体だけでできるスポーツがいいな。

単純に走るだけの陸上とか、あるわけ無いと思うけどカバディとかな。

まだどんな部活があるかもしらないのに、妄想だけ膨らんでいく。

俺は陸上部でハードルを飛び越える自分を想像していた。

「剣道とかいいんじゃない?」

ふと、なんの前触れもなく飛んできたその言葉で、俺は足を止める。

「……クルくん?」

「どうしたの?」ひなながこちらを振り向く。

「あ、いや。なんでもねえよ」

慌てて首を振ると、俺はひななの左隣に並び立った。

いつのまにか大通りに出ていたので、道幅が広くなっていたのだ。

「つーか、なんで剣道なんだ?」

「んー? ただ、なんとなく似合いそうだなって」

「なんとなくって。根拠なしかよ」

「うそ。ちゃんとあるよ。理由」

それは? と訊ねる前に、ひななが俺の右腕を掴んでくる。

そのまま手触りを確かめるように、ペタペタと触りだした。

生地越しに伝わる細すぎる指の感触がくすぐったい。

「急にどうした?」

「あはは、ごめん。腕、すごいがっしりしてるなーって思って」

「そりゃまぁ、腕立てとかも欠かしてないからな」

試しに力を入れてみる。

すると、ググッと筋肉が盛り上がって、ひななが「わっ」と驚いた。

「こんなに腕の筋肉すごいんだから、剣道の才能ありそうじゃない?」

「いやいや、腕力と才能は別もんだろ。俺に才能なんてねえよ」

右手は掴まれてるので、フリーの左手を振って否定する。

「そうかなあ?」

首をかしげるひななに、そうだよ。と念を押す。

別に筋肉なんて、極端な話、つけようと思えば誰だってつけられる。ちゃんとタンパク質をとって、時々休息を挟みつつ、がむしゃらに積み重ねていけばいいのだから。

無論、身長とか骨格は個人差が出るが、よほど小さかろうが大きかろうが、どちらもやり方次第で長所にも短所にもなる。

だから、才能なんてのはそういうのじゃなくて、もっと技術的な部分を言うのだ。

例えば野球なら、なんとなくで玉にバットを当てられる能力。サッカーなら、自由自在にボールを操る能力。剣道なら、相手が打ち込む瞬間を完璧に見切れる心眼と、そこにカウンターを合わせる当て勘だ。

才能がある人っていうのは、はじめからそういう力を少しでも持ってる人のことを指す。そして、そういう力があまりに優れてる人を天才と称するんだ。

俺には何もなかった。

「ちなみに、剣道に右腕はあんま関係ねえぞ」

「へ?」

「……なんでもねえ。それより、そろそろ離してもらっていいか? すげえ歩きづらい」

目を摘むって小さくかぶりを振り、キョトンとした顔のひななに離れてもらうように頼む。

腕を取られてると歩きづらいのもそうだが、そろそろ大通りに出てしばらく経つ。

通る車やすれ違う人も増えて視線が痛くなってきた。

まぁ、痛いといってもほとんどはチラチラと見られるくらいなので、突き刺さるほどではない。少なくとも煙たがられるような視線じゃないのは確かだ。

ただ、一つだけ明らかに違うのが混ざってるのだが……多分、ひななは見られてることにすら気づいてないな。

それなら、わざわざ教える必要はないだろう。

「あ、ごめんごめん」

ひななはハッとしたように声をあげると、俺の腕から手を離す。

さて、彼女が離れたことで変な視線は減ったけども、一つだけギラギラと押しつけるような視線はまだ残っていた。

その気配に気づいたのは剣道の話が出たあたりだ。それ以前か、少なくともその瞬間からずっと、俺たちをつけている奴がいる。

まあ、もしかしたらたまたま行き先が同じで、目の前を歩いている男女がイチャついてる(ように見える)姿を見せられて睨んでいるだけかもしれないが。

さて……どうしたものか。

別に実害はないのだが、そんなふうに敵意を向けられるのは不愉快だ。

とりあえず、次の曲がり角を曲がるときにさりげなく姿だけ確認しよう。

ここで大胆に振り向いてもいいが、ひななは視線に気づいてなさそうなので、そのままにしておきたい。

そう決めたところで、ひななが「そういえばさ」と話しかけてきた。

「クルくんってどこから来たの?」

訊ねられ、俺は「福岡」と短く答える。

するとひななは小さく声を出して、大げさに驚いてみせた。

「福岡って九州じゃん。すっごく遠くから来たんだね」

「ああ。新幹線で来たからすげえ時間かかっちまった」

正午になる少し前に博多駅について、そこから到着するまで軽く五時間以上。到着する頃には日が暮れるほどの長旅だった。

ひななが、あれ? って感じの疑問符を浮かべる。それだけで言わんとすることはわかった。

「飛行機は使わなかったの?」

「飛行機な……」

つぶやくとともに俺は頭をかかえる。

古川町は東日本の境目に位置する。

九州からそんな場所に行くのなら、飛行機を使うのが一般的だろう。実際に入試のために来たときは飛行機をつかった。

その時は三時間もかからずについたっけ。

新幹線を使うより二倍近く早かったはずだ。

だが、わかってほしい。必ずしも時間がかからないから、楽だとは限らないことを。

「飛行機はな……苦手なんだ」

苦虫を噛み潰したような気持ちで言葉を吐き出す。

すると、ひなながニヤッと笑った気がした。

「怖いの?」

からかうような語調で聞かれる。

俺は「違う」とかぶりを振った。

「怖いんじゃなくて苦手なだけ。乗れない事情があんの」

「もー。エイプリルフールは午前中までだよ?」

「いや、ほんとに嘘じゃないから」

そういえば言ってなかったが、今日は四月一日である。

高校の入学式が八日にあるため、ちょうど一週間前に合わせて来たのだ。

本当は中学を卒業したら真っ先に地元を出たかったのだが、真弓さんに春休みシーズンは忙しくなるから、なるべくギリギリにして欲しいと言われてそうなった。

と、話が脱線してしまったが俺は本当に飛行機が怖いわけじゃないんだ。

だからそんな、うんうん、わかってるよ。そういうことにして欲しいんだね。みたいな微笑をやめてくれ。ひななよ。

「飛行機って、飛ぶ時とか耳の奥が圧迫される感じになるだろ。あれが本当に苦手でさ」

巷では耳がキーンとなる感覚といわれてるようだが、俺からすれば頭の中に高圧ガスを入れられてるような感覚だった。

しかも気圧が変わるせいだろうか。飛んでる最中も吐き気を催すほど頭痛が酷くて、何度もトイレにお世話になった。

しかも航空券を往復で買ってしまったため、同じ苦行を二度も経験した。

あれは本当に地獄だった。今までの人生でトップ5に入るくらい苦しかったかもしれない。

そういうわけで、俺は金輪際飛行機は乗らないと決めたのだ。

と説明したのだが、ひななはピンときてない様子だった。

「そうなの? 私、飛行機乗ったことないからわからないんだよね」

ひななが小首を傾げる。

まぁ、あの感覚は実際に体験しないとわからないだろう。もっとも、まるでへっちゃらな人が大半みたいだが。

その後、なんとかして飛行機の辛さを納得してもらったら、流れで趣味の話になった。

先に趣味を語ったのはひななだった。

どうやらひななは裁縫が好きらしい。

その中でも特に洋裁が得意なようで、ミシンと手縫いがどう違うとか、この前隣町に遊びに行ったとき、可愛い生地を見つけて衝動買いしてしまったとか、そんな話を熱弁していた。

残念ながら、俺には一ミリも理解できない世界だったが、よほど好きなんだろうということは伝わってくる。

そんな彼女に申し訳ないと思いつつ、俺は「すまん」と話を遮った。

急に話を遮られたというのに、ひななは嫌な顔一つせず「ん?」と俺の言葉に耳を傾けてくれる。

「お前んちはここから近いか? あと何分くらいで着く?」

「へ? あと五分くらいだと思うよ。次の道を曲がってすぐだし」

五分……か。

「それなら、悪いけど送るのはここまででいちか?」

「え、い……いいけど。ごめん。やっぱり遠かった?」

ひななの表情が一瞬驚いた後、しゅんとしたものになる。

「そういうわけじゃないんだが、すまん。すぐ部屋に戻って荷解きしないと。明日はやることがあるから、できるだけやっときたいんだ」

言い終わった後に、心の中で手を合わせて謝る。

「いや、全然大丈夫だよ! クルくん、ここまで送ってくれてありがとうね」

「ああ。本当にすまん」

「ううん。来たばかりだし、大変だと思うから仕方ないよ。それじゃ、またね」

「おう。またな」

仕方ないと言いつつ、本当はもっと話したかったのだろう。目が名残惜しいと語っていた。

パタパタと駆けていく背中に手を上げて見送る。ついでにもういちど心のなかで謝罪する。

ひななは曲がるまで一度も振り返らなかった。

彼女の姿が完全に見えなくなると、俺は息を大きく吸った。

嘘をついた罪悪感ごと押し出すように、深く深く吐き出す。

そして、俺は後ろを向いて、来た道を引き返した。

すれ違った通行人の視線を無視して通り過ぎる。

ちなみに当然といえば当然だが、ここに来るまでなんのトラブルにも遭わなかった。

つけられてる気配や、敵意を感じることはなかった。

ただし。それはひななに対するものだけ。

ひななに手を掴まれたあたりから、視線の矛先は一貫して俺に向いていた。

今からその視線の主をあぶり出す。

向こうも睨むだけで終わるつもりは無さそうだからな。

わざわざ下手な嘘をついてまでひななと別れたのは、そいつに彼女の家を特定させないためだ。害を被るのは俺だけでいい。

少し引き返すと、俺は道を逸れて裏道へ入る。

突き当たりの角を曲がって、足を止めた。

人の気配は一切ない。

あるのは俺ともう一人。

ここなら大丈夫か。

「さっきから尾け回してんじゃねえよ。なんか用でもあんのか?」

その角に向けて、声をかける。

最初の数秒は反応がない。

もう一度、今度はさらに大きく声をかけようとしたが、その前に誰かが出てくる。

「……ガキィ」

そいつは、ギラギラと迸った目つきで俺を睨む。

出てきたのは、夜桜の前でひななに絡んでいた男だった。

「何か用でもあんのかって聞いてんだ」

声色を低く、殺気を込めて尋ねる。

男は答えない。

しかし、答えがなくとも目的は察している。

さっき俺に倒された報復。いわゆるお礼参り、というやつだろう。

「弁償しろ」

「は?」

「お前のせいでスーツが破れたんだぞ! 弁償しろ」

男は目を鋭くして、ビリビリに破れたスーツの生地を指す。裂け目から覗く膝頭に、幾枚もの絆創膏が貼られていた。

高かったんだぞ。と男は怒鳴る。

それに対し、俺は「弁償?」と肩をすくめる。

「やだね。そっちが勝手にコケて破ったんだろ」

「違う! お前が足を引っ掛けたんだろうが!」

「仮にそうだとして、先に殴ってきたのはそっちだろ?」

「そんなん知らんわ!」

「それなら俺だって知らねえっての」

まだ酔ってんのか?

あまりの棚上げ具合に一瞬そう思ったが、足取りや発音がしっかりしてるから違うのだろう。

恐らく、冷静になった途端に怒りが沸いてきて、そんなときに偶然俺を見かけたから頭に血が登ったのだろう。

そのまま怒りに任せて、一言文句をいってやろうと追いかけてきたといったところか。

先に出たはずの男が俺たちを見つけられたのは、ひななが近道とやらを通ったからかな。

もとから俺を探してた可能性もあるが、こいつは俺がひななを送るつもりだったことは知らない。だから偶然の可能性が高そうだ。

まあ、あくまで推測でしかない以上、真偽の程はわからんが。

いずれにせよ、いい年した大人が情けない。

俺は嘆息した。

男はギャーギャーわめきながら詰め寄ってくる。

そして俺の胸ぐらを掴んだ。

「大人舐めんなよガキが」

酒くさい息がかかって、俺は顔をしかめる。

「ガキに意味わかんねえ難癖つけんのが大人かよ」

震える手をぎゅっと握りしめ、言い返す。

男が手に力を込める。

俺の服の襟元が伸びそうだ。というか今、ビリって音がした。恐る恐る見てみると、破けてはいないが、首周りがヨレヨレになってしまっていた。

弁償しろって迫る割に、人の服ダメにすんのかよ。

言動と行動が矛盾するってのはこういうことなんだろうな。

と、俺が呑気に考えている間も、男は歯をぎりぎりと食いしばって俺を睨みつけていた。

楕円の形を描く唇の中から黄ばんだ歯が覗いている。きたねえ。

まあいいさ。わざわざ胸ぐらを掴んで服を伸ばしてくれたおかげで、大義名分は出来た。

だからもう──我慢しなくていいか。

握っていた拳を解き、手首を上に返す。

その手で俺は、男の顎をかち上げた。

「かっ!?」

首を伸ばしきった男が苦悶の声を漏らす。

俺は男の顔から首を精一杯遠ざけていた。俺のほうが頭一つ分背が高いせいで、変なもんが飛んできそうだったからな。

返す手で男の胴を押す。胸ぐらを掴んでいる手はすでに緩んでいたので、簡単に距離を取れた。

「あっ……えっ?」

男はだらしなく口を開けて、陸にあげられた魚のように身体を震わせていた。

なあ。苦しいだろう。顎に衝撃をもらうのは。

人体ってのは意外ともろくて、顎を殴るだけで軽い脳震盪を起こしてしまうのだ。

今目の前で無様に尻もちをつく、この男のように。

「先に襲いかかってきたのはそっちだからな。覚えてねえとは言わせねえぞ」

なんて言っても、多分聞こえてないと思うが。いや、正確には理解できない、か。

まあいい。どっちにしても、正当防衛で済ませる口実ができたのだから、それで十分だ。

「……帰るか」

詰まっていた息を吐き出して、俺はあるき出す。

顎への掌底。俺が与えられた不快感をチャラにするには足りないが、これ以上やってしまえば正当防衛の域を超えてしまう。

万一病院に厄介になるような怪我でもさせようものなら、色々面倒なことになる。これくらいが、向こうが泣き寝入りしてくれるちょうどいい塩梅なのだ。

こっちは脅されたうえに服までダメにされたのだから、向こうも非は自分にあるとわかっているはずだ。……流石にわかってるよな。

まあ、まだ突っかかってくるなら相応の対応をするしかない。気は乗らないが。

「あ、ま……て」

すがるように伸ばされる手を蹴り飛ばす。

とっさにやってしまったが、これくらいは問題ないよな。

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