10話 アメリカ人YouTuber
「えっと、とりあえず飴でもいかがですか?」
「あ、ありがとー。飴好きー。わ、わー。飴だー」
僕がぎこちなく差し出した飴玉を、
別に食べたいわけではなかったのだろう。多喜さんは指の中でしばし飴玉を弄び、テーブルの上のポルシェの横にそっと並べた。
そして、いつもの大きな鞄からミネラルウオーターのペットボトルを取出すと、
「飴とお水って元は一緒なんだよねー」
これもまた飲むわけでもなく横に並べる。
なんだろう、普段から落ち着きのない多喜さんだが、今日は輪をかけてソワソワしているように見える。
乱れてもいない前髪をやたらと直しているし、視線も右へ左へくるくる泳ぎ回って目が合うとハッと逃げるように下に落ちてしまう。
やはり何か後ろ暗いところがあるのだろうか。いつも饒舌に動く唇が、きゅっと結ばれていることも気にかかる。
「あの、
「はい」
「飴とお水一緒のわけないじゃん。さっきから黙ってないでなんか言ってよ、もー」
「え? あ、そうか、ごめんなさい。てゆーか、僕が呼び止めたんでしたよね」
「そうだよー。海堂くん何も喋らずにじろじろ見てくるから。落ち着かないよー」
「ごめんなさいごめんなさい。いや、何ってわけじゃないんですよ。その、世間話でもって思いましてね」
「世間話?」
びきっと音が聞こえそうなほど、多喜さんの表情が固まった。
「そう、地震。昨日の地震大丈夫でした?」
「地震……」
「はい。あったでしょ、大きな地震が」
「ああ、そうか。あったね。うん………あったなぁ。大丈夫、わたしは全然………平気だったよ……」
そういうセリフはテーブルに突っ伏しながら言っても全然説得力がないんですが。
急にどうしちゃったんですか、先輩。
「あの大丈夫ですか、半端なく落ち込んでるように見えるんですけど」
「うん、大丈夫だよ。わかってたから、全然大丈夫。そうだよね、世間話だよね。そうに決まってるよね。大丈夫大丈夫。大丈夫だから……もう行くね」
「なんで行っちゃうんですか。待って。このノートに見覚えないですか?」
また逃げられそうな雰囲気を察したので、もう回り道はやめることにした。鞄の下に隠したノートをテーブル中央に滑らせる。
「――え?」
その途端、また多喜さんの顔色が変わった。
「……見た?」
「はい?」
怖気を振るうような、それはそれは厳めしい色に。
「中、見た?」
「え、いや、その……」
「見てないよね! 海堂くん!」
「はい。見て……ない……です」
一ページだけしか。
こえー。あまりの迫力に言葉の後半を心の中に飲み込んでしまった。すぐに残りを吐き出そうとしたけれど、
「そう。じゃあ、もう行くね。ありがとう」
多喜さんは素早くノートを回収して席を立つ。
「待ってください、多喜さん」
「――何?」
だから怖いですって。
なんちゅう目をするんですか。
ノートに関する質問は一切受け付けないという強い意志のこもった目。
どうやら僕が思う以上にこのノートの意味は重いらしい。ならばせめて、
「夜の自主練、本当に止めた方がいいと思うんです」
これだけは聞いてもらわないと。
「夜練?」
「はい。昨日も言いましたけど、やっぱり女子一人で真夜中でって危ないと思うんです、いろいろと」
「…………」
「こういう言い方って男女差別になるのかもしれないですけど、女の人って女の人ってだけで狙われる理由になると思うんです。だから……」
「……心配してくれてるの、海堂くん?」
「はい。しますよ、そりゃあ。当たり前でしょ」
「そっか、嬉しいな」
嬉しい。そう言った多喜さんの顔はなぜか今にも泣きそうに見えた。
「そうだね、危ないよね。わたしも時たまね、怖い時とかあるよ。怖い動画とか見ちゃった時とか、あの階段上るの怖くなったりするの」
「わかります。あの階段ヤバいです。もう夜にはいかない方がいいですよ」
「うん。でもそれは、無理なんだよね」
「どうして」
「どうして? うーん、そうだなー。それはぁ…………やっぱり内緒」
「はい?」
「女の子のぉ、ひ・み・つ」
人差し指を三度揺らして微笑む多喜さん。
今日初めて覗いた雲間を割る太陽のような笑顔だったけれど、その顔はやっぱり泣いているように見えた。
だからだろうか、
「わかりました。じゃあ、僕も付き合います」
気が付くと、僕はそう口走っていた。
「え、海堂くんが? 何で?」
何でだろう、自分でもどうしてこんなことを言い出したのかわからない。気づいたら唇が勝手に動いていた。
「ダメですか? 絶対邪魔したりしないですから。大人しくしてますから。てゆーか、ダメって言っても勝手に来ます。石段の下の見えないところに気配を消してずっといます。それならいいでしょ?」
動いて動いて止まらなかった。今の多喜さんを一人にしてはいけないと、改めてそう思った。多喜さんは急にたくさん喋り始めた僕の顔を目を丸くして見つめると、
「海堂くん、ありがとう。優しいんだね、君は。でも、海堂くんはあんまりわたしと仲良くしない方がいいのかもしれないよ」
少し寂しそうにそう言った。
「わたし、変なやつだから。一緒にいると嫌われちゃうよ」
「そんな! なんでそんなこと言うんですか。演劇部のみんなは誰も多喜さんのこと嫌ってなんていないですよ」
「部のみんなは優しいからね。でも、学部の人はどうだろう……あの人とか?」
「あの人?」
ああ、あの人か。
多喜さんが指差したのは、百メートル先でもわかる我らが森田先輩の後ろ姿。
「あの人は………まあ確かに、大好きではないと思いますけど。でも、いいじゃないですか、あの人のことはもうどうでも」
「ははは、ひどいね。でも、いいんだよ。わたし嫌われても当然のことしてると思うし」
「だから、嫌われてはいないですって」
「じゃあ今から嫌われるんだよ」
そう言うと、多喜さんはおもむろに大きな鞄を開き………なんだ、あれ?
中からドッジボールほどにも膨れた二つの風船を取り出した。
「じゃあね、海堂くん」
そして、今度こそ全速力で走り出す。
「多喜さん!」
油断した。やっぱり足が速い。
普段のおっとりとした喋り方からは想像もつかないほど、べらぼうに早い。僕も即座に後を追うが、絶望的に間に合う気がしない。
待ってください、多喜さん。
そんな速度で森田先輩に駆け寄って、何をする気なんですか。そもそもそれ、何を持っているんですか。絶対にただの風船じゃないでしょう。ぶよぶよして、たぷたぷして。
水風船ですよね、それ。
そんなもの何に使う気なんですか。
「おーはよー!」
「うおおおお、冷たぁっ!」
もちろん、ぶつけるのだ。
水風船とはそうやって使うものなのだから。
見事に命中した二つの風船が弾けて水をまき散らし、哀れな森田先輩を頭の先からつま先まで余すとこなく濡らしつくした。
「は? は? なんだ、これ? ふざけんなよ、どういうつもりだ、こら!」
これで怒らない方がどうかしている。当然のごとく激怒する森田先輩に、
「すんませんした、先輩! 手が滑りました! マジですんません!」
僕は滑り込むようにして土下座を決めた。
「あ? 海堂? これ、お前がやったっていうんか?」
「はい、やりました! 完全に僕がやりました! すみません! 足元にぶつけてビックリさせるつもりだったんですけど、手が滑りました! マジすみません!」
「ふざけんなよ、お前!」
「ほんっと、すみません! ほんっとすみません!」
「いや、だからふざけんなっつってんだ。お前じゃねーだろ、やったの!」
……え? そっち?
「誰だ! 誰がやったんだ。言え、こら!」
「いや、僕です僕です。なんかテンション上がってやっちゃいました!」
「なんぼ上がってもやらねーよ、お前は。こんなアメリカン人のユーチューバーみたいなこと」
「いーや、絶対僕なんです」
「いーや、絶対お前はやってない」
信頼すごいな。
何でそんなに頑なに信じてくれるんですか、涙出ますわ。
嬉しいけど、でもここはもうお願いします。ここまで頭下げてるんだから、僕が犯人ってことでひとつ納得してください。
「え、なんで? なんでわたしの代わりに海堂くんが謝ってるの?」
庇ってるんですよ、あなたを!
見りゃわかんでしょ! お願いだから多喜さんも空気読んで。わたしの代わりとか言わないで。
「海堂くんは何もしてないじゃん、頭を上げてよ」
読めないのならせめて黙ってて!
「ホントすみません、先輩。とりあえず、売店行きましょう! タオル買いに行きましょう! こっちです、先輩!」
「いや、だからお前じゃねーだろ」
「海堂くん、違うでしょ」
「もー! めんどくさいな、あんたらは!」
「おい、めんどくさいって、なんだ! 先輩で被害者だぞ、俺は!」
「ごめんなさい、間違えました。色々ほんとごめんなさい」
もうどうすればいいんだ、この状況。まだまだ怒りの収まらない森田先輩と、一向に空気を読もうとしない多喜さん、とにもかくにも二人を穏便に引き離すべく、
「行きましょう、先輩。被害者なので行きましょう、先輩」
「痛い痛い、力つえーって、バカ!」
僕は森田先輩を羽交い絞めにして、力づくで連行した。
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