11話 水風船って結構びしゃびしゃになる
「はーっくしょん!」
理工学部試験棟の裏道に、僕の大きなくしゃみが響いた。
「なんで
「先輩引っ張ってたら濡れました」
「バカか、お前は。もういいから離せ。お前も風邪引くだろうがよ」
僕の腕から抜け出した森田先輩は、犬のようにぶるぶると体を震わせて水滴をまき散らした。また強くなってきた風が濡れた二人の体に吹きつけ、開け放たれた窓のカーテンを躍らせる。す
「ああ、冷めてー。水風船なんて初めて食らったけど、こんなに濡れるもんなんだな。くそ、煙草までびしょびしょじゃねーかよ」
「ほんと、すみません」
濡れそぼった袖口を絞りながら僕は改めて頭を下げた。
「まだやんのかよ、それ。お前誰を庇ってんだよ」
「いや、庇ってるとか、そんなんじゃ……」
「もういいから言えよ。別に殴り返しに行ったりしねーわ。お前の愛しの先輩なんだしよ」
「ちょ、なんですか、それ! だから
「おう、やっぱり犯人は角丸か」
――あ、ズルいっ。
言葉こそ何とか飲み込んだものの顔には思い切り出ていただろう。森田先輩は僕の表情による自白を確認し濡れた髪をかき上げた。
「なあ、海堂。これはマジで聞くんだけどさ、お前。
「な、なんすか、なんでそんなこと聞くんですか」
「いいから答えろ。どうなんだ」
やや絞られた声量に反比例して先輩の瞳に力が籠る。
「……それは女性としてってことですよね?」
「惚れてんのかって聞いてんだ」
「それは……ないです」
「本当だな」
「はい」
「よし」
意を決したように大きく息を吐き出す森田先輩。まさかそのせいではないだろうが、実験室のカーテンがぶわりとはためいた。
「じゃあ、言うけどよ。お前、あいつとあんまツルむな」
「え?」
それは奇しくも、つい数分前に多喜さん本人からも言われた言葉で、
「そんな、なんでそんなこと言うんですか?」
僕も同じ言葉を繰り返していた。
「なんでじゃねーよ。見ただろ。あいつは、特に仲良くもねえ奴にいきなりこんなことしてくるんだぞ。頭どうかしてんだろ」
「でも、多喜さんも悪気があったわけじゃないんですよ、多分」
「悪気がなかったら何してもいいのか。ドッキリは仕掛けたもん勝ちか。怒った方が悪いってのかよ」
「いや、それは………」
一言もない。何から何まで森田先輩の言うとおりだ。でも……。
「俺が一件目じゃねーんだよ」
「え?」
「あいつの奇行の被害者は俺が初じゃねーんだよ。文学部の同回生でもいっぱいいるんだよ。まあ、俺はいいよ。心が広いからな。ナイスドッキリって笑って許してやるよ、お前の愛しの先輩だしよ。でも、そんなやつばっかじゃねーんだよ。ブチギレてるやつはいっぱいいるんだ」
「そうなんですか?」
「当たり前だろ、見てわかんねーのかよ」
正直、わからなかった。演劇部と同様にみんなが多喜さんを許しているのだと思っていた。
「お前さあ、来年はゼミ入るんだろ? そしたら先輩と絡む機会も増えるだろ。そうなった時角丸のお気に入りだなんて知られたら、お前ゼミで居場所なくなるぞ」
「そんな、大げさな」
「大げさだったらいいけどよ」
誰の顔を思い浮かべているのだろう。
先輩が見上げた空に映っているであろう姿は一人や二人じゃないように思えた。
「わかったな、海堂」
「…………」
「海堂!」
「…………ぐへい」
「それはどっちの返事なんだ?」
「いや、その………えっと……ぐへい」
「あー、めんどくせー。お前、童貞だろ」
「は? は? は? 急になんですか」
「やっぱ角丸のこと好きじゃねーかよってことだよ」
眉間に寄せれるだけ皺を寄せて森田先輩が吐き捨てる。
「だから違いますって! なんでそうなるんですか!」
「ああ、来んな来んな。めんどくせー。いいからお前はさっさとあいつに告れ。んで、付き合ってセックスしろ。んで、あいつに首輪つけとけ。んで、田辺にゼミに入れ」
「告りません。付き合いません。セクハラはやめてください。首輪とか失礼だし………あと、もう一つ何でしたっけ? えっと、ゼミがどうとか言いました?」
「おう、田辺ゼミだ。俺が入ってるゼミだよ」
なんでこのタイミングでゼミの勧誘が?
「そこなら、俺がお前を浮かないようにしてやるってつってんだよ」
……え?
「ああ、冷てー。立ち話してる場合じゃねーわ。さっさとタオル買いに行くぞ。あと煙草だ、煙草だ」
「えー、ちょっと待ってくださいよ。何急にかっこいいこと言ってんですか、森田先輩のくせに」
「クセにってなんだよ、先輩だぞ。少しは尊敬しろ、てめー」
尊敬はずっとしてますよ、この一年ずっと。でなきゃツルんでませんから。
そう言おうとしたけれどやっぱりやめにした。それはもちろん照れ臭いからだけど、それと同時に、
――フバッ。
という音がすぐ後ろから聞こえて来たからでもある。
空気が一瞬縮まって、またすぐに猛烈に広がったような音。
直後に爆発が発生した。
凄まじい音と爆風に背中を突き飛ばされて地面に転がる。何度も天と地が入れ替わる間に、一瞬死を覚悟したけれど、
「お、おい、大丈夫か……海堂」
「は、はい、大丈夫です……多分」
爆発が起きたのは僕達の少し後ろ。
互いの無事を確認し合いながら、僕と森田先輩はゆっくりと立ち上がった。
どうやら五体に異常はなさそうだ。ただ音だけが、水の中にいるように濁って聞こえていた。
振り向くと、ついさっきまで僕達が立っていた場所が黒く煤けている。風が焦げ臭い匂いを運んできた。
「な、なんだよ、今の」
「さあ、爆発……ですよね?」
「教室か? 実験に失敗でもしたんか」
「危ないですよ、先輩」
爆心地と思われる実験棟の一室へ、フラフラと歩み寄る森田先輩。
また風が吹く。炎を纏ったカーテンがひらひらと風に煽られ、
「あっついっっ!」
肩でも組むように森田先輩の首に巻きついた。
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