2章9話 常識ってなんですか

《昨夜、11日夜10時前、東京湾沖を震源とするマグニチュード7の地震がありました。この地震で関東地方を中心として広い範囲で震度6から6強の揺れを観測しており、建物の倒壊や土砂災害などの被害が報告されています。この地震による津波の恐れはありません》


 一夜明けて、昨晩の地震の詳細が概ね出揃った。

 もうこれ以上ネットやテレビを周回しても新しいニュースは出てこないだろう。

幸い、揺れの規模の割に大きな被害は出なかったようで、死者はゼロ、津波の心配もなく、余震も震度1程度のものが一度あっただけで交通機関に大きな乱れは発生しなかった。


さすが地震慣れした日本人だ。夜中にちょっと地面が揺れただけではびくともしない。

ただ、古い建物や看板がいくつか倒壊しており、

「おー、すげー。ぺしゃんこじゃん」

「こわー、こんなふうになるんだな、崩れたら」

「俺、一回入ったことあるわ、この倉庫。やべー」

 うちの大学の第四倉庫も、その『いくつか』のうちの一つにカウントされることになるのだろう。

第四倉庫は昨晩崩れた姿のまま周りを赤いコーンで囲まれており、その周囲をスマートフォンのカメラを向ける学生達の壁が覆っていた。みんな授業もそっちのけでぴこんぴこんとシャッターを切っている。


「おお、海堂かいどう。見ろよ、これヤベーぞ」 

「俺初めてリツイートが百超えたよー」

「お前揺れた時何してた? 俺風呂入っててさー」

 通りがけに何人かの級友に見つかって声をかけられたけれど、まさか崩落時に真横にいたとは言えず、かといって気の利いた嘘をつける自信もなかった僕は察してくれとばかりに曖昧な笑みだけを返してその場を通り過ぎた。


「おお、海堂! 昨日の地震ヤバかったなあ。そういえば万馬券合当てた時も――って、おい、海堂! 聞こえてねーのか、海堂! 万馬券当てた時もさあ!」

 察してくれない森田先輩はもう無視だ。

すみません、先輩。今は地震より、崩れた第四倉庫より、遥か昔の万馬券より、気になることがあるんです。


 中庭のカフェテラスまで一気に歩き切り、一番端の目立たない席に腰を下ろした。

慎重に人の目がないことを確認し、鞄からずるりと水色のノートを抜き出す。

昨日からもう何度も開いている返しそびれたこのノート。

同じページをまた開いた。


「――ぐうぅ」

この文字を見る度に湧き上がってくるこの言い知れぬ悪寒はなんだろう。

熱に浮かされた妄言を書き留めたような、吐き気を催す言葉群。

5月7日や5日とあるのは日付と考えていいのだろうか。伊鶴いずる先輩や坂本や知らない人の名前がフルネームで出てくるのも生々しいし、刺すだの裂けるだのの物騒な言葉も薄気味悪い。そして――。


『5月11日は揺れる 地震が揺れるよ すごく揺れるよ 怖いよ怖いよ 第4倉庫が一番揺れるよ あああ壊れた なんで入らないで 揺れる揺れる揺れる揺れるよ入らないで』


この記述をどう受け取ればいい。

「揺れる地震が揺れる………怖いよ……第四倉庫が一番揺れる……壊れた……入らないで」

 まるで、崩落した第四倉庫を間近で見ているかのような表現。


 常識的に考えれば偶然だ。

だって、この記述は地震の前に書かれたものなのだから。元々第四倉庫は老朽化が激しく、近く取り壊される予定だったらしい。それを知っている人間なら地震と絡めて崩落の記述を書けないこともない。

そう、偶然地震の前に地震の記述をし、偶然それが現実になっただけ。

偶然地震が、偶然10日でもなく12日でもなく11日に起き、偶然第一でもなく第二でもなく第三でもなく第四倉庫が崩れ落ちた。それだけのこと。

そう考えるのが常識的な発想なのだ。


「くそう、常識ってなんだ」

 ガーデンテーブルに突っ伏した。

常識的に考えれば考えるほど、常識から遠ざかるこの不思議はどうだろう。


やはりここは、筆者にご登場願うしかないのだろうか。現代文の試験の度に密かに誰もが思うこと、筆者の気持ちは筆者に聞けを実践する時がついに来たのだろうか。


 ただ、今となってはそれも難しいのかもしれない。

昨日までならここにこうして座っているだけでどこからともなく「おーはよー」は飛んできた。しかし、昨晩の尋常でない動揺ぶりを思い返すにつき、あの人に通常運転を期待するのは、ぞりぞりぞり。


 ……ん、なんだ? 今のは。

あ、ぞりぞりする。テーブルに突っ伏した後ろ頭がぞりぞりするぞ。まるで、後頭部を車輪のついた小さな車が走っているかのようにぞりぞりと……。


「おーはよー」

 いや、来るんかい。

 顔上げるとやっぱりそこに多喜たきさんがいた。

例え地震がこようとも、倉庫が崩れようとも、わけのわからないノートを落とそうとも、多喜さんは相変わらず柔らかそうなクセっ毛をふわつかせ、相変わらずミニカーのポルシェで僕を強襲するのだった。


「じゃあね」

「あれ、多喜さん?」

 そして、すぐに踵を返す。

 やはり、通常運転とはいかないようだ。クセっ毛、ミニカーに続く多喜さんを構成する三つめの要素、笑顔は全く見せないままひらりと体を翻して駆けていく。


なぜ、また逃げるんですか。僕に何か尋ねられたらまずいことがあるんですか。

「待ってください、多喜さん! 話したいことがあるんです」

 待てと言われて待つ人間がいないことは知っている。それでも僕は必死に多喜さんの背中に追いすがり、

「話したいこと? 何?」

「いや、待つんかい!」

案外素直に待ってくれたので、危うく背中に激突しそうになった。


まったく、一から十までこの人の行動は予測がつかない。


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