8話 予言者
「――――」
まず声だけが聞こえてきた。
ああ、いる。
姿を見なくてもすぐにわかった。
この声だけは間違いようがない。
少し鼻にかかったような特徴のある多喜さんの声。こんな薄気味悪い夜にさえ、安らぎと落ち着きを与えてくれる柔らかな水のような声。僕の大好きな声―――。
唐突に視界が開け、星空をバックにそびえる鐘突き堂が目に入ってきた。
丸石を重ねた土台に瓦屋根を支える四本の柱、大きな青銅の鐘、紐で吊るされた鐘突き棒。
想像よりも遥かに寂れた印象の鐘突き堂の下に、見覚えのあるヒラヒラとした後ろ姿が浮かんでいた。
よかった、ちゃんとセリフの練習をしているじゃないか。五寸釘でも打ってたらどうしようかと思った。多喜さんが手に持っているのは藁人形ではなくA4のノートとボールペン。
開いたノートにペンを添え、星空を観測するような姿勢でセリフを紡いでいた。極限の集中を感じさせる後ろ姿は、独特の声色と相まって神々しささえ放つかのようだった。
かなり没頭しているようで僕の接近にも気付いている様子はない。練習の邪魔をするのは気が引けるが、このままずっと眺めているわけにもいかないので、
「多喜さん」
そう呼んでポンと小さな肩を叩いた。
「きゃああああああああああああああああ!」
ら、甲高い悲鳴が夜の鐘楼に爆発した。
足払いでも受けたかのように多喜さんがその場に倒れこむ。
ああ、しまった。夜中にいきなり肩を叩いたら、そりゃあ腰も抜かすだろう。
ちゃんと前に回ってから声をかけるべきだったか。
「きゃあ! きゃああ! きゃあああああ! 誰、誰ぇぇ――! 叩かれたー! 誰ぇぇぇ―! 叩かれたぁぁぁ――!」
だからってちょっとパニくり過ぎだけどね。 やめてください、多喜さん。
深夜の悲鳴は即座に事件性を帯びてしまうんです。
「多喜さん落ち着いて。僕です、
柱にしがみついてのた打ち回る多喜さんに、何とか顔面をアピールすると、
「え、海堂くん……なの?」
「はい、海堂です。すみません、驚かせちゃって」
「本物の、海堂くん?」
「ええ、それはもう海堂です。偽物が出没するほどの有名人でもないんで。唯一無二の海堂です。立てますか?」
「はぁ……海堂くん?」
これだけ言ってもまだ信じられないらしく多喜さんは差し出した僕の腕をべたべたと撫で回し、
「きゃあああああああああああああああ!」
いや、二度目はおかしいでしょ。
これだけじっくり本人確認をした後の二度目のきゃあはショックです。何なら一度目より声出てるし。
「え? え? 海堂くん? 何でいるの? 何しに来たの? こんな所に?」
「それは多喜さんも一緒でしょ。何してるんですか、こんな所で」
「わたしのことはいいから!」
「いや、よくはないですって」
「いいから言って! 何しに来たの! こんな時間に、こんな所に! 何が目的なの!」
「目的って……」
どうやら本格的に怯えさせてしまったようだ。いつになく真剣な多喜さんの声と表情が胸に刺さる。
「あ、あの驚かせたのならごめんなさい。でも、別に変なことしようってわけじゃないんです。ただ僕は言いたいことがあっただけなんです」
「………言いたいこと?」
ただでさえ大きな多喜さん目が、零れ落ちそうなほど大きく見開かれた。
「海堂くんは……言いたいことが……あるの?」
「はい」
「わ、わたしに?」
「ええ、もちろん」
「……言いたい、こと?」
「はい」
「………そう」
見開かれたままの多喜さんの瞳が、細かく震えた。
そして、するりと滴が頬を伝い落ちる。
「え、泣いてるんですか?」
「泣いてる………誰が?」
「多喜さんですよ」
「わたし……? わたしが? ああ、本当だね……大丈夫。何を言いに来たの?」
「いや、でも――」
「わたしは大丈夫だから、お願い言って。何を言いに来たの?」
流れる涙を拭うことなく多喜さんは言った。静かな笑みすら浮かべながら。
それは長旅から帰還した友人を迎えるような穏やかな微笑みで、僕はついつい問われるままに口を開いた。
「えっと、夜の自主練習をやめてくださいって言いに来ました」
「……え?」
その瞬間、明らかに多喜さんの顔色が変わった。
「
「……え?」
「いくら大学構内だっていっても、その気になれば誰でも入り込めますし」
「……え?」
「多喜さんも女性なんですから、せめて場所か時間のどっちかでも変えた方がいいと思うんです」
「………ええ?」
「あの、多喜さん。聞いています?」
多分聞いてはいないのだろう。多喜さんの顔から見る見るうちに血の気と生気が抜けていき、
「………ああ」
最後に力も抜けたように膝から崩れ落ちた。
「ええ? 大丈夫ですか、多喜さん!」
もちろん大丈夫な人間は地面に両手両手足をついたりしない。多喜さんはまるで魂が抜け落ちたかのように虚ろな視線を地球の裏側に漂わせると、
「どうしよう、変わっちゃった……」
弱弱しい声でそう呟いた。
「変わったって、何がですか? ねえ、本当に大丈夫ですか、多喜さん。立てますか?」
「……変わっちゃった」
「しっかりしてください。立てないなら人呼びましょうか?」
「……変わっちゃった。どうしよう」
「とりあえず一回こっち見てもらっていいですか、多喜さん? 立てないならおんぶしますから。ねえ、多喜さん」
「帰るね」
「びっくりしたあ!」
立てるんかい。四つん這いの姿勢から突然すくっと立ち上がった多喜さんは、隣で戸惑う僕に目もくれず手早く荷物を纏めると、
「じゃ」
そのまま全速力で駆け出した。
「ええ、ちょっと! 走らないで! 危ないですって、足はやぁー」
僕の警告に耳を貸さず、多喜さんは暗がりの階段をダンスパーティーから逃走するシンデレラのようなスピードで駆け下りていく。やはり相当通い慣れているようだ。
「待って、多喜さん。何でそんな早いんですか」
対して僕は一段一段踏みしめるようにえっちらおっちらと下るしかない。
ようやく下りきった頃にはもうどこにも姿は見当たらなかった。
それでも後を追って走り出す。
伊鶴先輩言った通りだった。今日の多喜さんは明らかに様子がおかしい。とてもじゃないがあんな状態で一人にはさせられない。住んでる場所はわからないから、校門を出るまでに捕まえないと。そんな思いで足を速めたその瞬間、
――ドンっ。
と、衝撃を受けてアスファルトに転がった。
一瞬何かにぶつかったかと思ったけれど、衝撃は下から来た。
地面からだ。揺れている。
地震だ。とっさにしゃがみ込み、両手でアスファルトを掴んだ。
長い、大きい、半端な揺れじゃない。恐怖が脳天を突き抜け、同時に鼓膜が衝撃を受けた。何かが崩れる音がした。それでも動けない。
「…………………」
時間にして十数秒は経っただろうか、揺れは唐突に収まった。
吹き荒れていた風がピタリと止まり、あたりに粉塵が舞い上がる。
「おい、大丈夫か!」
後ろから警備員が駆けつけてくる声がした。鐘突き堂の行きしなに見た人だろう。鍵穴に悪戯された第四倉庫の様子を見ていた人の一人…………ああ、そうか。
唐突に思い出した。
第四倉庫。
どこかで聞いた覚えのある、この言葉。
多喜さんのノートで見たんだった。
確か、今日の日付で記されていたはずだった。『揺れる』だの、『崩れる』だのって言葉と一緒に。
『揺れる』か。確かに今の揺れはすごかったな……。
「どうした、怪我したか? 立てるか?」
駆け付けた警備員に肩を揺すられた。
それでもまだ、僕はその場から立ち上がることができず、
すぐ横で粉々に崩れ落ちた第四倉庫を呆然と見つめていた。
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