16
「お父様、それはどういうことですかっ!?」
「言葉の通りだよ。ヘルベルト君との婚約を進めさせてもらうことにした」
「お父様も反対の立場だったはずです!」
「事情が変わったんだ、ネル。ヘルベルト君は本気で改心したんだよ」
「何を、今更っ――!!」
ネルは自分に取り合おうとしない父、フェルディナント侯爵の部屋を走って出ていく。
はしたないことは自分でもわかっていたが、怒りを示すためにドアをバタンと思い切り閉めて。
そしてネルは私室に戻り、一人ベッドの中へと入った。
「どうして、急に――」
彼女はたった今、父から直前まで進んでいたヘルベルトとの婚約破棄を白紙に戻す旨を伝えられたのだ。
その理由も伝えられず、当主命令だからとだけ言われても、ネルは困惑するだけだ。
信じていた父からの言葉にネルは動転し、激昂し……そして一人、布団を強く握ることしかできなかった。
まったく意味がわからない。
まるで一気に周囲が敵だらけになってしまったようだった。
父も信じられず。
そのため結果として、父に雇われている使用人や、家族のことも信用できない。
今のネルは、家の中でヘルベルトの愚痴を打ち明けることのできる相手を一人も思い浮かべることができずにいた。
(……いや、学院に行けば、いる)
ネルは基本的に内向的であまり人と積極的に関わるタイプではないが、そんな彼女に対しても果敢に話しかけてきてくれた男の子がいる。
それがマーロン。
少し前にヘルベルトと決闘騒ぎを起こし、そして今ではヘルベルトのやり直し係を任じられている人物だ。
ネルはその事情を知っているからこそ、マーロンを信じることはできない。
だがマーロンを経由してできた女友達である、王女イザベラ殿下であれば……。
ネルは明日学園に行ってからすることを、しっかりと脳裏に思い浮かべていく――。
「ふむ、ヘルベルトとの婚約破棄ができなくなった理由、か……知っているぞ」
「そうですよね、さすがのイザベラでも……し、知ってるんですか!?」
マーロンが誰相手でもタメ口で話すせいか、マーロン周りの人間達には、どれだけ身分差があっても学年が同じであれば言葉遣いはフランクなもので構わないという暗黙のルールがあった。
そのため本来なら細心の注意を払って話さなければいけないイザベラ殿下を相手にしても、ネルはイザベラと気安く呼ぶようになっている。
……もっとも最初は緊張が抜けきらず、ちゃんと対等な女友達として接することができるようになったのは、かなり最近になってからのことなのだが。
それでもまだ敬語が抜けていないあたり、ネルはかなりの常識人である。
「知っているとも。無論、情報源までは言えんがな」
「それ、どうにかして教えてくれないですか? その理由さえなんとかできれば、私は――」
「いや、いかな友達であるネルの頼みであってもそれは聞けん。ことは王国の重要ごとにまで関わってくるからな。……私が言えるのは、ここまでだ」
言外のヒントに、頭の回転の早いネルはそれだけの事情があるのだと理解した。
恐らくは何か、自分たちの頭上の親達の間で取り決めがあったのだ。
そのためにネルとヘルベルトの婚約は、従来通りに進められる運びになった――。
(それなら……私に拒否権はないということ)
親たちが決めたことであれば、それに従うのが貴族の娘というものだ。
長女であり、リンドナー貴族としての自覚のあるネルは、親達の政治の道具になる運命をある程度は受け入れていた。
だがだからこそ、せめて少しでも自分が好きだと思える相手がよかったというのに――。
そんなネルの髪が、スッと手櫛で梳かされる。
顔を上げればそこには、イザベラの優しそうな顔があった。
「ネルは頑固だからな……ヘルベルトとの結婚が、そんなに嫌か」
「嫌です。私はヘルベルトのこと……大嫌いですから」
「だが前はヘルベルトのすぐ後ろをひっついていたというではないか」
「昔の話はやめてください!」
事実だったが、ネルからするとそれは思い出したくない過去というやつであった。
たしかに以前はヘルベルトのことが好きだった、大好きだった、愛していた。
けれど色々なことがあり、今ではかわいさ余って憎さ百倍。
下手に好きだった分、彼のことが大嫌いになった。
だからいきなり婚約破棄はなしと言われても、ネルはどんな態度を取ればいいかわからなかった。
その逡巡を見て取ったイザベラは、ポンと手を打つ。
「――よし、それなら私に一つ、考えがある」
「考え……?」
「今のあやつを見てみればいいのさ。婚約者に何も言わぬままなどということが許されていいはずもないのだし。王族特権で、ネルにいいものを見せてやる」
ネルは昼休み、イザベラに連れられて、とある場所へと向かうことになる――。
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