15


 リンドナー王立魔法学院の校舎は三階建てになっており教室は、下から三年、二年、一年の順に割り振られている。


 校舎の三階の一番奥にあるのは、一年A組。

 マーロンやイザベラたちが所属しているクラスだった。


 この学校は平等を謳っているため、クラス分けにも父母の影響はまったくない。


 特待生を始めとする英才や、今後のリンドナーを背負うことになる大貴族の子達もランダムに振り分けられることになっている。


 ちなみにヘルベルトの所属は、一年C組である。


 今、そんなA組の教室に二つの影がある。

 時刻は午後五時。

 授業が終わり、皆が帰路につく時間帯だ。


「ネル……」


 複雑そうな顔をしている一つ目の影は……ヘルベルト・フォン・ウンルー。

 決闘騒ぎで学院に一悶着を起こした、ウンルー公爵家の跡取り息子である。


 最近では改心したと噂になってこそいるものの、未だ彼の評価はほとんど好転してはいない。


 あの豚貴族がまさか……と、否定的な意見を持つ者の方がずっと多かった。


 毎朝と放課後の精力的な活動のせいか、以前と比べると気持ち頬はこけている。


 だがまだまだ痩せる様子はなく、今も日々鍛錬とダイエットに励んでいる。


「ヘルベルト……」


 彼と相対しているのは、一人の少女である。

 彼女の名は――ネル・フォン・フェルディナント。


 フェルディナント侯爵家の長女であり――現在も形式上は、ヘルベルトの婚約者である少女だ。


 その容姿を一言で表現するのなら、真っ青な薔薇とでも言おうか。


 瞳はぱっちりとしているがどこか冷たい印象で、立ち振る舞いもキビキビとしている。


 彼女は複雑そうな顔で、ヘルベルトのことを見つめていた。


 二人の距離は机三つ分離れていて、どちらかが近付くことはない。


 これが今の、ヘルベルトとネルの間の距離感だった。


「久しぶり、だな……」

「ええ……」


 ヘルベルトがネルと顔を合わせて話をするのは、実に一年以上ぶりのことだった。


 この学園に入学してからは何度も彼女を私邸のパーティーに誘ったのだが、ヘルベルトはその全てを袖にされている。


 最初の頃は、遠目に見て声をかけようとしたこともあった。

 だがネルはヘルベルトの姿を見た瞬間に、すぐにどこかへ消えてしまうのだ。


 それを追いかけることは、当時のヘルベルトのプライドが許さなかった。

 だからそれ以降、彼はネルに近付くのを止めた。


 ネルが今の自分のことをどう思っているのか、直接聞いたことはない。

 だがそんな態度を取られれば、なんとなく想像はつく。


 今は六月の半ば。

 ヘルベルトが父であるマキシムと和解してから、半月ほどの時間が経過している。


 一度顔を合わせるだけでこれだけ時間がかかったのだから、この場をセッティングしてくれたマーロンは相当に頑張ってくれたのだろう。


 直接頼み込むのではなく、イザベラたちを動かすことで間接的になんとか二人が話し合う機会を作ってくれたようだった。


 ヘルベルトは、マーロンには本当に頭があがらないなと思いながら、少しだけ前に出た。


 ヘルベルトが考えるべきことは、ここに至るまでの過程ではない。

 ――今目の前にいる少女へ真摯に話しかけること。

 それがヘルベルトが見せることのできる、ただ一つの誠意だった。


「ネル……本当に、すまなかった!」




「それは一体……何に対しての謝罪ですか?」

「――全てだ、俺が今までしてきたバカなこと全てに対して謝っている」


 ヘルベルトは決して目をそらさない。

 ネルからも、そして――思わず目を背けたくなってしまう、自分の過去からも。





 ヘルベルトが変わったのは、自分には魔法の才能があるとわかった十歳の頃からだ。


 それまでの彼は、公爵家の筆頭武官であるロデオの言うことに真面目に従い、日々身体を鍛え続けていた。


 勉学にも決して手を抜かず、公爵家の跡取りとして相応しくなるべく自分をいじめ抜いていたのだ。


 貴族家で魔法の修行が始まる一般的な年齢は十歳である。


 ヘルベルトもその例に漏れず、十歳の誕生日をパーティーで祝ってもらってから魔法の訓練を開始した。

 その時にはまだ、彼の隣にはネルがいた。


「ヘルベルト様、お誕生日おめでとうございますっ!」


 いつもはキリリとしていて恐ろしいほど顔が整っているのに、笑うとそのバランスが途端に崩れる。


 ネルは笑うと、急にかわいくなくなる顔の造りをしていた。

 けれどヘルベルトは、そんな彼女の不細工な笑顔が大好きだった。



 まだ婚約者として紹介されたばかりの頃、二人の仲は決して良くはなかった。

 ネルはいつも冷たい態度を崩さず、ヘルベルトは一度として彼女の笑みを見たことがなかった。


 しかしある日、彼は父親と一緒に笑っているネルを見た。

 そしてその笑顔に、心を奪われてしまったのだ。


 ネルは心の底から信じている人と一緒にいるときしか笑わない。

 それを知ってヘルベルトは、なんとしてでも彼女を笑顔にしようと決めた。

 自分の隣で笑っていて欲しいと、心の底からそう思ったから。


 何度もサプライズをして、彼女の心を解きほぐした。

 頻繁に会いにいって、自分に打ち解けてくれるよう何度も話しかけた。


 そして彼の熱意は、ネルに伝わった。

 彼女は徐々に気を許していき――そしていつか見た、くしゃっとした笑顔を見せてくれるようになった。


 ネルが自分の隣で気兼ねなく笑ってくれるようになったのは、ヘルベルトが十歳を迎える直前のことだった。


 ヘルベルトはようやく、大好きなネルの笑顔を間近で見ることができるようになった。 


 そして、それからほとんど時間が経たないうちに……もう二度とその笑顔を見ることができなくなったのだ。

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