アルドラの不安

 「本当にここに居るんですか?」


 「分からない。それは調べてみないと」


 「ですね。大切な恋人を見捨てられませんし」


 「だ」


 シリウスが言い直すとフルドが悪い笑みを浮かべる。こうして冷やかされるのも久しぶりだ。アルドラの居場所に関する情報は数ヵ月振りだった。


 「それにしてもオライオンの邸宅に忍び込むなんて……考えただけで生きた心地しないですよ」


 「嫌だったらここで待ってていい。戻る時の手助けをしてくれれば」


 「そうは言ってないですよお。行きますって」


 二人は今、オライオンの街を支配している貴族、モノセロス・オライオンの邸宅に通じる小道で作戦会議をしている。深夜ということもあって人影はほとんどないが、ある頻度で松明を持った兵士が巡回している。ここからでも敷地を取り囲む外壁が見えており、巨石が積み上げられた構造は侵入する上で有利そうに見えた。


 「じゃあ行くか。帰りの道、覚えてるな?」


 「しっかりと」


 フルドが胸を張る。馬はここから歩いて小一時間先の雑木林に待たせており、帰りはそこまで逃げなければならない。これ以上馬を近づけられないのは、街の中心部には石畳が敷かれ、蹄の音が反響するからだった。


 シリウスも緊張している。それでも引き返す考えはない。外壁に辿り着くまでの間、兵士とすれ違うことはなかった。二人は最も暗い場所を選ぶと、人の身長の三倍はある壁を登り始める。幸い、簡単に入り込むことができた。


 「どっちでしょう」


 「街の人の話では建物の北側に小屋があるらしい。南側の庭園に近づかないように向かおう」


 「分かりました。……今日は月が明るすぎますね」


 「ただその分、アルドラを守護する星座の力も強い」


 シリウスは壁に沿って北側へと動き始める。敷地には見える範囲でも多くの兵士がいる。屋根の上にも数人が立っていて邸宅自体の警備は固かった。しかし、今回の目的地は恐らくそこではない。


 「見つかったら間違いなく斬首ですよね」


 「そうだ」


 「ああ……アルドラちゃんいてくれよな」


 途中までは木々の影に隠れることができていた。しかし、小屋を目視できる場所まで来たところ、遮蔽物がなくなってしまい動きを止める。目を凝らすと小屋の窓から顔を出す数頭の馬が見えた。どうやらそこは動物の飼育小屋のようだった。


 「いるならあそこだ。問題はどうやって行くかだけど」


 「あ、なんか嫌な予感しました」


 「できるか?」


 「過去一番きつい仕事ですよ。でもやります」


 「低く南の空に飛んで、それからすぐに逃げてくれたらいい。あの雑木林で合流しよう」


 シリウスは指で空をなぞって細かく指示を出す。フルドは持っていた荷物の内、要らないものはその場に捨ててその他をシリウスに預ける。また、上着を脱いで上半身裸になった。


 「シリウスは一人で逃げられる?」


 「なんとかする」


 「アルドラちゃんがいたら?」


 「担いで逃げるよ。ほら、早く」


 シリウスが急かすと、フルドは両手を合わせて目を瞑り大きく深呼吸を始める。次の瞬間、シリウスの視界は真っ赤に染まった。熱気に思わず目を細め、足元で燃え始めた枯葉を遠ざける。


 フルドは今、炎を纏う大きな鳥の姿となっている。翼をはばたかせると宙に浮き、シリウスが焦げ付いてしまう前に隠れていた木陰から勢いよく飛び出した。その後は予定通りに南の庭園に向かって飛行を始める。


 「怪物だ!」


 屋根の上の兵士が真っ先に不死鳥を見つけて大声を出す。いつもより低速で飛ぶフルドはその声に反応して甲高い鳴き声を発した。


 兵士のほとんどが神話を実体験して立ち呆けている。その機を見計らって、シリウスは小屋に全力疾走した。南側は大騒ぎになっていて作戦通りと言っていい。小屋に近づくと犬の吠える声が聞こえてきた。


 小窓から顔を出す馬は騒ぎに動揺しているものの大人しい。一方、聞き覚えのある懐かしい声はぎゃんぎゃんと叫び続けていた。小屋の扉には鍵がかかっていて開けるには時間がかかる。兵士に聞かれないかと焦っていると、その悪い予感通りとなって後方から足音が聞こえた。


 「誰だ!」


 走ってきたのは槍を持った兵士で、幸い一人だけだった。しかし、小屋の五月蠅い犬を黙らせなければさらに何人もの兵士を呼び寄せてしまう恐れがある。そう思ったシリウスはポケットに入れていた手拭いを小窓から中に放り込み、兵士と向かい合った。


 シリウスにフルドのような特別な力はない。槍を向けて突っ込んでくる兵士を相手に丸腰で敵うはずがなく、ひとまず小屋の裏手に逃げる。小屋に沿って走ることで兵士に足踏みを促す。そして幾つ目かの角で身を低くして待ち伏せ、兵士が現れると突進した。


 シリウスは槍を落とした兵士と取っ組み合いとなり、地面を転がりながら何度も拳を相手に叩きつける。しかし、兵士の全身は固い鎧に覆われているため、先にシリウスの腕が悲鳴を上げた。また、オライオンの邸宅を守る任務を与えられているだけあって、兵士の腕力も並大抵のものではなかった。


 「オライオン様の馬を盗もうとは!」


 「どっちが盗人だ!」


 言葉では同じように言い合うが、格闘ではシリウスが劣勢となって背後から組み伏せられる。藻掻いて抜け出そうとすると大きな手に首を絞められた。息ができず、叫び声もはっきりとした声にならない。小屋はいつの間にか静かになっていた。


 「アルドラ」


 擦れる声で名前を呼ぶ。すぐ近くにいることは分かっており、視界が薄れていく中でシリウスは神に祈る。諦めが心の中で広がっていく。しかし、その声はしっかりとアルドラに届いていた。


 突然、白い犬が馬の頭を踏み台にして小窓から飛び出てくる。人間ほどの大きな体が衝突した窓枠は破壊され、破片が大きな音を立てて周囲に散らばる。鋭い牙が光る口には手拭いが咥えられており、シリウスと目が合うなり突進してくる。アルドラだった。


 「なんだ!?」


 アルドラは兵士に襲い掛かり、シリウスは解放される。立ちあがって振り返ってみると、アルドラの牙が兵士の首元に深く刺さっていた。銀白の綺麗な体毛が赤い血で染まっていく。


 「アルドラ!もういい!」


 シリウスが手拭いを拾いつつ声を掛けるとアルドラは素直に従う。兵士はまだ生きているが喉をやられて声を出せないらしい。大きく尻尾を振るアルドラはシリウスの足にすり寄って感情を露わにした。


 「待たせた……ってやけに毛並みが整ってるな」


 背中を撫でてやると、いつもと肌触りが異なっていることに気付く。ただ、今はそんなことを気にしている場合ではない。


 「フルドが囮になってくれたけど、もうここから離れたと思う。僕らも早く逃げよう」


 シリウスはアルドラに状況を説明しながら侵入した場所に走って戻る。アルドラはその隣を並走した。


 「背中に掴まれ」


 犬の姿では器用に壁を登ることはできない。そう思ったシリウスは壁に手をついて背中を差し出す。しかし、それは必要なかったようで、アルドラは近くに生えている木と壁を交互に蹴って簡単に登ってしまった。シリウスは少し驚いた後、その後を追う。


 「あそこにいるぞ!」


 壁の最上部で矢が頬を掠め、シリウスは転げ落ちるように外に出る。今度は巡回の兵士が接近してくる。シリウスは元気が有り余る様子のアルドラとともに満点の星空の下を走って逃げた。




 「遅かったですね。捕まったんだろうと思って戻るところでした」


 「追手をまくのに手間取ったんだ」


 合流場所の雑木林に到着すると、そこではフルドが待っていた。右腕を怪我したらしく、一人での治療に悪戦苦闘している。


 「怪我したのか。見てやる。アルドラはこれ、服を持ってきてある」


 シリウスは馬に預けていた女性用の服を地面に置く。それを口で咥えたアルドラは雑木林の中に入っていった。


 「矢が当たったのか」


 「ええ。ちょっと低く飛び過ぎました」


 フルドの二の腕からは血が流れており、シリウスは止血のために患部を布できつく縛る。痛みでフルドの顔が歪む。しかし、声はいつも通りだった。


 「アルドラちゃんはいいんですか?」


 「あいつ毛並みがかなり良くなってた。きっとオライオンに可愛がられてたんだな」


 「そりゃそうですよ。あんなに綺麗で強い猟犬は滅多にいないですから」


 アルドラと離れ離れになってしまったのは半年ほど前のことである。犬の姿でいた時に密猟者に誘拐されてしまったのだ。それ以来、シリウスとフルドは海を越え、国境を越えてその後を追ってきた。


 「これでよし。……アルドラを見てくる」


 「はい。ごゆっくり」


 フルドの治療を終えたシリウスはアルドラの後を追って雑木林に入る。この先には小川が流れている。そこにいるだろうと思っていたが、月明りを反射する川は静かで誰もいなかった。


 シリウスはひとまず手についたフルドの血を洗い流す。水面に写る顔は疲れ切っているが、昨日と比べて不安は消え去っている。後ろに人の気配を感じたのはその時だった。


 「大丈夫か?」


 「うん」


 「久しぶりに声を聞いた」


 シリウスは濡れた手を拭いつつ振り返ろうとする。すると、アルドラが声を張った。


 「待って!こっち見ないで!」


 「まだ着替えてなかったのか」


 「そうじゃなくて」


 「どこか怪我でもした?」


 「違う」


 「だったら何?」


 シリウスは訳が分からず問いかける。アルドラは時間を置いてから囁くように声を出した。


 「私、ずっと犬の姿で生活してたから……」


 「まさか、人の姿に戻れなくなった?」


 「違う!」


 間違ったシリウスは背中を叩かれる。それを受けて肩をすくめると、アルドラの体が寄りかかってきた。背中が暖かくなり、首筋にかかる吐息をくすぐったく感じる。


 「こんなところまで探しに来てくれたの?」


 「見ての通りだよ。本当、待たせた」


 「そうだよ。おかげで私……」


 「何だ?」


 シリウスが再度振り返ろうとするも、アルドラが再びそれを阻止する。声だけでは我慢できない。アルドラの気持ちを読み取ることはいつも以上に難しく、シリウスはじれったく感じた。


 「会いたかったってことだよね?」


 「そう言ってる」


 「じゃあ、どんな私でも変わらず受け入れてくれる?」


 「約束するよ」


 シリウスが力強く頷くと、ようやくアルドラが背中から離れていく。どうしてかシリウスの心臓も破裂しそうになっている。そんな緊張の中で振り返ってみたものの、そこにあったのは久しいアルドラの姿だった。月が不安そうな顔を照らしていて、白く長い髪が風に揺れている。


 「なんだ、アルドラじゃないか。てっきり耳が戻ってないとか、尻尾が残ったままなのかと思った」


 アルドラとの再会を果たした。そんな安堵感からシリウスは冗談を口にして笑みを浮かべる。ただ、アルドラは正反対にはっと悲しい顔をした。


 「気付かないの?」


 「………」


 「なに揉めてるんですか?せっかくの再会なのに」


 雰囲気が悪くなる中、フルドがやって来て二人の間に躊躇いなく割って入ってくる。川で手を洗って水を飲み、アルドラと向かい合う。その顔は一瞬のうちに驚きに包まれた。


 「あれ、アルドラちゃんもしかして……」


 「お前は言うな!」


 フルドが何かに気付いて口を開いた瞬間、アルドラの飛び蹴りが炸裂する。フルドは体勢を崩して川に落ちた。


 「ちょっと!怪我人なんですけど!?」


 傷口が水に浸からないように右腕を上げたフルドが文句を言いながら川から出てくる。今度はシリウスと顔を合わせると、最後に首を傾げた。


 「え?まさか、シリウス。気付いてない?」


 「…………」


 「ちょっとそれは。ねえ、アルドラちゃ……」


 「蹴られたい?」


 「フルド、戻っててくれ」


 「はいはい、分かりました」


 シリウスからもそう言われ、フルドは呆れ顔でその場から立ち去る。そうして二人きりとなって、シリウスはアルドラと視線を合わせた。


 「見た時から気付いてたよ」


 「だったら」


 「あんまり深刻そうに言うからさ。言葉を選ぶ時間が必要だった」


 優しく声を掛けるとアルドラが目を伏せる。シリウスは小さく息を吐いて川べりに座り、隣にアルドラを呼ぶ。アルドラは葛藤の末、微妙な距離を保って座った。


 「で、その、どれくらいなんだ?」


 「二年か三年。毎日、昼も夜も監視された生活。この体見せたくなかったから人間の姿に戻れなかった」


 「分かってるよ。……辛い?」


 「ううん。このことは全然。でも……シリウスにどう思われるかが気掛かりだった。最近はもう二度と会えないと思って気にしてなかったけど、今こうやって顔を合わせていると心臓が止まってしまいそう」


 アルドラが隠すことなく不安を吐露する。シリウスにとってアルドラとの再会が全てだった。それをアルドラも手放しで喜んでくれると思っていたが、実際には違っていた。


 「アルドラはアルドラだ」


 「シリウスは全然変わってない……羨ましいよ」


 「見た目だけじゃなく内側もだよ。分かってる?あの日、唐突に離れ離れになった時から何も変わってない」


 「本当?」


 「アルドラに嘘はつかない」


 シリウスは自分の胸に手を当てる。アルドラのような存在でも不安に押し潰されてしまう。そんな新しい発見を噛みしめていると、アルドラの瞳から何の前触れもなく涙が流れた。慌てたシリウスだったが、美しい笑みを伴っていることに気付いてほっと胸を撫で下ろす。優しく肩を抱き寄せると頭を預けてくれた。


 「それで、二年ってことは人間の年で言うと……」


 「言わなくていい!」


 「でも、たった二年だ」


 「だってシリウスが!……年上は昔を思い出すから嫌だって前に言ってた」


 「そんなこと言ったかな。忘れたな」


 口調はいつも通りだが声はまだ震えている。背中をさすってやると首元にきつく抱きつかれた。不安になる気持ちは理解できる。何とかしてあげられるのはシリウスだけで、シリウス自身それを自覚していた。


 「……故郷に帰ろう。それで失った時間よりも長く、一緒の時間を過ごせばいい」


 「うん」


 「じゃあもう泣くの止めて」


 「今日のシリウス優しい」


 アルドラがシリウスの服で涙を拭って笑う。直球で言われると恥ずかしく、シリウスは誤魔化す言葉を考える。


 「フルドにこの顔を見られたら、きっといつまでもからかわれることになる。そんなの嫌だろ?」


 「じゃあもう少しこうしてる。目の腫れがおさまるまで」


 アルドラに手を握られる。その感触も昔とは少し変わっていたが、それが二人を引き裂くことはできない。離れていた時間だけ不安を溜め込んだ心も、触れ合っているうちに安心が支配していった。

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