ときそば

北緒りお

ときそば

 小振りなどんぶりの中には、丁寧に作られたであろう透明な出汁が張られ、ネギとトリニクがあり、その下には申し訳程度の量のソバが、行儀良く波打つように整列されて横たわっていた。この上品さを具現したようなソバ、大きく違うのはその肉が朱鷺(トキ)の物だということだ。


 * * *


 とある夜明け、その一歩手間の時間、週末ということもあり、都内の一角で高層ビルの隙間に息づいている飲み屋をハシゴしていた。

 始発で帰ろうと固い決意をし、酒は呑みつつも深くは酔わずを目標に店を移っていた。しかし、そこは酔っぱらいらしく自分で建てた計画はすでにぐだぐだになり、始発が動き始めるまであと一時間もない。今夜最後の一件と目星をつけた店でバーカウンターに陣取り、酒と対峙する。もはや酒で正体がなくなりそうになっている自分を支えるのが精一杯で、誰かと話そうなんていう気力すらなかった。

 都心はバーひとつとっても開放感が違う。地元のバーでは重厚感のある厚めの扉の奥に薄暗いバーカウンターがあり、バーテンダー諸子が静かに酒を調合し静寂の中にシェーカーの中で混ぜられる氷の音ぐらいかない。人の声と言えば店の中は注文する声と、それ応え差し出すときにその名前とともに語られる酒についての釣り書きの声が聞こえるぐらいだ。

 都心の洒落たエリアだとバーなのにも関わらずテラス席なんかもあり、店が狭かろうが開放感がある。ほかの店では窓も大きく中の様子も見え、明かりを低く設定しているからか店の中から外の様子も伺うことができる。開放的だからと騒ぐこともせず、静かに語らうのが大人のたしなみなのだろう。夜が始まった時間より、これから朝を迎える時間の方が圧倒的に短い今ですら、大人達が語らっている。

 しかし、物事には必ず例外があり、洒落た街で洒落た大人達が遊ぶ街でも、しっかりと呑んた所で懐が痛まない店というのもこの街にもある。

 それがこの店で、入って着座してからというもの酒の弛緩を受け入れ全力で休憩をしている。

 目は開き、耳は聴き、口はつむぎ、脳は思考を止める。

 耳に届くのは、店の中にいる数人の声だけだ。

 そんなに広くない店内は、二人掛けのテーブル席が二つと、カウンターに六席で、席の数だけ客が入ってしまうと大混雑になってしまうような広さだ。木目を生かしたバーカウンターと、それに合わせるように落ち着きのある椅子が並べてあり、暖かみのある色合いの照明が控えめに店内を照らしている。その薄暗さに目が慣れると、バーテンダー氏の後ろに所せましと並ぶ酒瓶の数々がある。

 酒瓶を眺めながら、店の中に静かに飛び交う会話が耳の入ってくる。

「……で手に入れたときの値段からあがっててさー……」

「……もあるんだけど、ついうっかりこないだ注文しちゃって……」

「……ササキさんが言ってたけど、常務の方針らしいんんだよね……」

 大概が物の話か職場の話をしている。せっかく酒を呑んでいるんだから味わった物や感じた物の話をすればいいのに、などと思うのだが、他人の雑談を盗み擬いておいて文句を付けるなんて我ながら正気の沙汰ではないから黙っている。

 もはや、こんな時間まで酒を呑んでいると“優しい味のお酒”なんてのはジュースと見分けがつかなくなり、酒精を直に包容するのにウィスキー、もしくは違う種類の蒸留酒をそのまま呑むようになる。強い酒の味が感じられるようになるには、強い酒を呑んで舌の先が若干慣れている必要がある。ということは、強い酒を飲み始めるとアルコールに慣れた舌が元に戻らないよう強い酒だけを飲み続けることになる。まあ、飲み続けないでもいいのだが、低下しきった思考力の中でそれを一人言い訳の言葉にしていた。

 そうやってつまみを避けてはいるが、呑んでいると腹が減るのも事実で、空腹を押さえつけながら呑んでいる。

 ここが他の店でさんざん呑んできた人間が集まる店であることは客が証明している。それぞれがそれぞれでバーの客らしいおとなしめの会話をしているが、そこは酔っぱらいぐずぐずになっている。

 その中でもひときわうるさい男がいた。

 男は落ち着いたトーンで話をしているのだが、やたらと声の通りがよく、話している内容がほぼ筒抜けで耳に入ってくる。

「……でしてくれたメニューも良かったなあ、あの味は滅多に出会えない……」

「……も、もう一度食べたいけど、いまは手に入らないから……」

「……は良い風味だったな、禁止リストに入る間に食べられて……」

と、なにやら食べ物の話ばかりをしている。

 なんとなくの空腹が、この男のやりとりではっきりとした空腹に変わってくる。聞こえてくるのであればしょうがないが、聞き耳を建てないようにしようと考えていたにも関わらず、その男の話ははっきりと聞きたい話に変わっていた。

 トイレに立つついでに男がどんな奴かを見てみる。完全な白髪だが短すぎず長すぎずと整えられた髪、遠目ではっきりとわからないが仕立ての良さそうに見えるカジュアルウェアをきている。座っている感じからは中肉中背で目立つところもなく、何で生計を立てているのかわからないが収入がありそうな雰囲気を醸し出していた。その男の向かい側にはスーツの男がいて、グレーのスーツに深い蒼のシャツにネクタイと、堅くはないが身なりをしっかりと整え、短く刈り込んだ髪とやたらと日焼けをして健康そうな面構えであるが、口数は少なく、時折なにか言葉を発しているらしいが、声を抑え、むやみに二人の会話があたりに広がらないように気をつけているようだった。

「……この間セッティングしてもらった食事も良かったねえ、ベジタブルハギスならいくらでも手にはいるけど、オリジナルのハギスなんて税関で止められちゃうしねえ……」

「……養殖とはいえ、天然記念物……」

「……ちゃんと声は低くしているけど、そんなに大きいか……」

「……金曜日は、ソバだろ……」

「……しかし、絶滅しそうなのをどうやって……」

と、食欲よりと同時に食い意地以上になにを食べているんだろうという興味が湧いてくるようになった。

「……を食べようと思っても金出しゃ手に入るってもんじゃないし……」

「……なんかで食べるコースはうまいのは知ってるけど、御法度のもんは出てこない……」

 白髪男の言葉の端々は、珍しいもの、それも金を出せば食べられるような珍味ではなく、どうやったら手にはいるのかわからないような物を珍味として食べているようだった。

 男は酒の勢いもあるのか、やたらと上機嫌でスーツの男に話し続けている。

「……それにしても楽しみだな、ときそばとは……」

「……絶滅するずっと前の江戸の人とかも食べてたのかね……」

と、饒舌になっている。

 ほかの話題では静かなトーンで返事や相づちをうっていた男だったが、この話題がでると“あまり大きな声では”とか“外に漏れないように”と白髪男にあきらかに釘を差していた。

 もはや、俺の全集注力がそちらに向いていた。

「……金曜日の日本橋が……」

「……行ってみたって普通の鶏南蛮と区別が付かなかったりしてな……」

 鳥で、絶滅した生き物で、となると、朱鷺か?

 年寄りらしく蕎麦を食べるのを楽しみにしているのかと思いきや、全く違う方向で希食を楽しもうとしているのか?

 話は断片的に届いてくるだけだが、酔客の饒舌に言葉をつなぎ合わせると朱鷺につながる。

 空腹を押さえつけながら酒を呑んでいるのもあるが、一生に一度どころか全人類の中でも食べられる人間が数えるほどしかない素材、それも何かしらの法に触れていそうな物をわざわざ手に入れる、蕎麦の具にしようという酔狂がすぐ近くで話されている。

 聞き耳を立ててさぐるよりも、もっと直接的にこの話に乗っかれないかと考えた。

 酒飲み同士で通用する通貨は酒だ。それも夜明けまであともう少しという時間に酒を呑む以外の欲求を満たせない店にいる客だ。余計な物はいらない。酒が共通項となる。

 バーテンダーに頼んで彼らが呑んでいる物を出してもらう、それを両手にそれを持ち愛想良く話しかけた。

「こんな時間に食べ物の話しをするなんて、罪な話をしてますね」

 人生の中で最上級の人当たりの良い表情を作り酒を差し出す。

 白髪男のほうは、酔っぱらいらしく素直に差し出した酒を受け入れる。

「君も食べるの好きかー」

と、酔っているからか、それともそもそもこういう人なのか、すんなりと見知らぬ人を受け入れた。

 一方、やっかいなのがスーツの男だ。何を呑んでいるのかと思えば、ウーロン茶だ。酒は一滴も入ってなかった。

 酔っぱらっているときは、上機嫌な奴を中心にしたほうが話が早い。

 手渡した酒は通貨として、それも会話に混じる袖の下として機能している。

 白髪男の話しに馴染むために興味のありそうな食べ物の話題をふってみる。

 高貴なところだと孔雀の舌、異端な所では羽虫の団子、なにに反応する表情を見ながら話しをする。白髪男はどの話しにも反応をし、談笑するという観点では成功だった。しかし、スーツの男はあからさまに俺に対して邪魔者を見る視線でこちらを見ている。

 私が振った話しの返礼なのか、白髪男は腹が蜜でいっぱいになった蟻の風味について語り、俺もその話しを詳しく聞こうとする。

 会話はラリーと言うよりは、同じ話しが繰り返されたり、同じ話しのはずなのに細部が違っていたりとでたらめな応酬が続いていた。

 その流れの中で、過去に食べた物の話しから、これから白髪男が食べようとしているものの話しに近づこうとすると、スーツ男が程良いタイミングで別の話題を差し込んでくる。サボテンにつく毛虫が作る塩や、それをカクテルに使うなんて話しを混ぜ込まれると酔っぱらいはついついその話しに乗っかり、話が進んでしまう。

 頭の動きがしっかりしているシラフに酔っぱらいがかなうわけはないが、酔っぱらいらしく脈絡もなくしつこく食い下がるというのならばシラフに勝てる。

 こっちも酒の霞の中をさまようように話をしているから、このスーツの男が邪魔な奴ぐらいにしか思わなかった。それこそ、白髪男とのあいだを邪魔する恋敵のような気分にもなっていたのだった。

 白髪男の話は、食べた物に対しての感想しか言わない。たぶん、高い物や特別なコネがないと手に入らないものがほとんどだろうが、それを微塵も見せず、自分の言葉でおいしい物や楽しみなことを言える奴はそうそうはいない。酔っぱらいなのにも関わらずだ。

 その男が心底楽しみにしているのだから、間違いなく朱鷺が食べられるのだろう。

 スーツ男に邪魔されて白髪男に話をさせないつもりならば、こちらから珍しい食べ物の話をするだけだ。さらに鰐を食べた話、ダチョウの雛、それも羽化する直前のを食べた話。金をかけて希少な物を食べているのとは逆の、粗野で野蛮で、一口目から胆力が必要になるような食べ物ばっかりを思い出し、話題の中に並べた。

 やはりと言おうか、具体的な物が違うだけで同好の者同士、通じる者があった。

 朱鷺にたどり着くのには、タイミングの問題だった。その糸口だけでも手に入れられれば食らいついてみせる。

 スーツ男は苦虫をつぶしたような顔をしている。

 「こんどの蕎麦、一緒に行くか?」

 やっとのことで誘われたのだ。とは言っても小一時間話をしていたぐらいだが、意気投合したのが良かったのか、一緒に行こうと誘ってもらえた。

 連絡先を交換し、店を出る。

 話を引き出すのにいつもよりもはるかに酒を呑みすぎた。すこし熱を持った頭に夜明け過ぎの風が気持ちいい。

 約束は次の金曜の夜だった。

 そこで一緒に車に乗り合わせ、会場に行く段取りだ。

 あまり大きくもないソバ屋がその会場だった。

 テーブルが六つぐらいだろうか、そこにぎゅうぎゅうになると言うわけではなく、三々五々適当にすわり、料理が出てくるのを待つ。

 朱鷺の肉は鶏や鴨なんかとも違う香りがあるという。なによりも大きく違うのは、その肉からうっすらと赤い出汁がでるのだという。その色をわかりやすく見せるために、水にさらした長ネギの細切りを添え、目で、そして舌で朱鷺を味合わせてくれるのだという。

 客は五人ほど、それぞれがそこそこの参加費を払い参加している。そんじょそこらの大学生だったら半年分のバイト代が飛んでしまうぐらいだろうか。とにかくめずらしく、わかりやすく、そして興味を引かれる食材を口にすることができる。

 調理場からはほのかに出汁の香りが漂ってくる。一緒に煮込まれている朱鷺の風味の一緒に漂っているのだろうが、期待で落ち着かなくなり、待っているあいだにと出されている鶏刺しと酒とで気分はだいぶ高揚している。

 どんなに首を長くしようと、ソバはソバだ。そんなに時間がかかるものではない。

 席へは箸やレンゲ、それに薬味が運ばれてくる。

 調理場の方はできあがった合図でもあったのか、二人いる給仕係りが調理場に集まる。

 もったいぶるつもりがあるのかないのか、やたらと丁寧にソバを運んでくる。

 配膳順に意味があるのかわからないが、一番の余所者である俺へは最後に配られた。

 深夜の言葉の断片からたぐり寄せて、運良く手元に普通の人間なら食べることすらできない、それどころか食べようとすら想像しないソバがやってきたのだった。

 このソバ屋はふつうに営業しているときから高級路線なのだろう。器が上品で繊細で、小さい。夜明けの駅前で食べる立ち食いソバ屋だったらふつうの量の半分も入らないだろう。その小さなどんぶりに、出汁が張られ、三切れほどの鳥肉と細長く刻んだ白髪ネギ、その下には細く打たれたソバが沈んでいた。

 誘ってくれた男に比べれば、これを食べるために何もしなかったも同然だが、この場にたどり着けた運の良さであったり、こんな物はもうにどと、味わうことができないだろうという、希少感なのか、感無量になりながら、両手で器を包み、ゆっくりと顔を近づける。

 ふわっと優しく立ち上がってくる出汁の香りの中にほんのりと違う香りが混ざり込んでいる。この香りの正体が朱鷺なのか、それともこの店が目指した上品な出汁の中に香りの答えが入ってるのか、正解はまだわからない。

 充足した時間に浸っていると、入り口の方がなにやら騒がしい。

 なにか、集団が押し掛けてきたようだった。その先頭にいるスーツの男が店の真ん中に入ってくるが早いか、その後ろからは警官の集団が入ってきたのだった。

 これから、箸を延ばして一口目を食べようというところだ。

 悪足掻きとはわかっていても、どんぶりから朱鷺のかけらだけでも口に入れようと箸を伸ばす。

 しかし、足早に俺に近づいてきた警官が腕を伸ばし手のひらを顔とどんぶりのあいだに差し込む。それ以上香りすらかぐこともできず、捕らえられたのだった。

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ときそば 北緒りお @kitaorio

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