第102話 降誕
理解の光が照らす下で、無心になって手を引いた。腹を突き破った隙間から創造の雷が放たれるが、怯むことはない。
絶対に取り戻す――その強い願いが
「私、ただ待つのはもうやめたんです」
今にも零れ落ちそうなほどの涙の膜を張った目を細めて、扉の中から徐々に姿を現したその人へ語り掛ける。
「何度だって迎えに来ます。先生がどこにいても、どんな姿になっても、私が必ず見つけ出します、だからっ……」
ぐっと腰を落とし、両手を使って力を込める。握り返してくれる手の力強さに、とうとう涙が
右肩が膜を突き破り、さらりとした濡れ羽色の髪と青白い頬が現れる。閉じられた
どれほどの細部も見落とすことなく全てを見届ける。もう見失ったりしない。置いて行かれても、必ず追いかける。
「――一緒に帰りましょう、マコト先生」
まるでそれが返事だとでも言うように、引き攣っていた膜に亀裂が走った。剥がれた鱗が風に乗って宙へと舞う。脆くなった膜を突き破り、待ち焦がれていたその人が栓が抜けたように外へ飛び出した。
力強く引っ張っていた勢いを殺しきれず、バランスを崩したアーティが背後へ倒れる。スローモーションのように感じるその
ほんの一瞬に心を奪われていると、赤毛の後頭部に手が回された。肩へ引き寄せられた鼻先いっぱいに広がる懐かしい匂いに、これ以上ない安堵に包まれる。次の瞬間、水面が背中を激しく叩いた。
――その様子はまるで、この世に生まれ落ちた瞬間のようだった。
飛沫と水泡がドポンと音を立て、二人を飲み込む。命が生まれ落ちた音が辺りに響いた。波打つ水紋がそれを伝えようとフィールドの端まで広がって行く。中心の水面下で抱き合う二人を祝福するように、がらんどうな天井から雨上がりの虹が顔を出した。
その光景を水中から見上げたアーティの瞳に、視界を覆い尽くすほどの水泡が舞い上がる。腕を引かれて水面に顔を出した彼女を抱き起した冷たい手が、頬を包み込んだ。
「は、ハァッ……マコト、せんせ……」
「アーティ……ふふっ、アーティだ」
そこにいる存在を確かめるように、ずぶ濡れになった額同士が擦れ合う。
微笑みを浮かべる口元からゆっくり視線を上げると、神秘的なオッドアイだった双眸には同じ色の月が浮かんでいた。温かみのある淡い黄色に引き寄せられ、アーティも彼の頬に震える指で触れる。
「先生、目が……」
「……もしかして、色違いの方が良かった?」
見当違いのことを大真面目に聞くものだから、目を丸くしてしまった。こういう突飛なところが愛おしくて堪らない。至近距離で首を軽く横に振りながら微笑み返せば、美しい瞳が嬉しそうに弦月を描く。
触れる鼻先にほんのりとした温もりが灯った。
二人は確かに、同じ世界に生きている。
「先生の帰りが遅いんで、迎えに来ちゃいました」
「ごめん、ほんとごめん。でもすごく嬉しい……ありがとう、アーティ」
「……おかえりなさい、マコト先生」
「……ただいま」
濡れた赤髪はその色を更に深め、太陽光に照らされた毛先が
もう二度と伝えられないと思っていた言葉を噛み締め、この世で最も鮮烈な赤を胸に掻き抱いた。
「にゃぁーーーん」
再会の喜びを分かち合う二人の後ろで、名残惜し気な鳴き声が上がる。前の両足を揃えたタマキは扉の奥を見つめ、去り行く二人の背中へ向かって鳴き続けた。
「マスターピース……」
タマキの傍に立ったフィリップは、膜が破れた扉の奥に友の後ろ姿を見た。レンズの奥を細めて背を向けた友の名を呟くが、彼が振り返ることはない。
幾千年も前の始まりの日に渡した杖と同じものを改めて差し出せば、小柄なもう一人が嫌々ながらもそれを受け取った。今度は背を向けることなく、二人で同じ方向へ歩き始める。手を取り、同じ歩幅で、一つの道を行くのだ。
終着地は輪廻の先。二人揃って歩む、最初で最後の旅だ。
「ほんっと、人騒がせな奴ら……」
旅立つ二人を見送っていると、最後にマスターピースがこちらを振り返った。相変わらず人の良さそうな表情に心を掻き乱され、急激に別れが惜しくなる。言葉に詰まったフィリップが思わず手を伸ばすが、幸せそうに手を振って見せられ、すぐに引っ込めた。
「……とんでもないスケールの大喧嘩だったねぇ」
「にゃぁお」
「でも、分かり合えたみたいで良かった」
命を賭して伸ばした手は、一度は無残に振り払われた。それでも求め続けたその人の手を掴んでようやく歩き出した後ろ姿を見て、素直にそう思ったのだ。
二人が見えなくなる前に、扉の木枠が軋む。亀裂が走ったそれは粉々に砕け、
木片が崩れる乾いた音が、二人の旅立ちを告げる。
頭上ではHITO型の頭の一つが大きく波打ち、美しい女の顔が浮かび上がった。見覚えのある清廉で愛らしい顔立ちに、勘の良いフィリップはその全てを察する。
「しかもただの喧嘩じゃなくて、痴話喧嘩とか。
彼女の隣に寄り添う友の満足そうな顔を見上げ、呆れたように笑い溢した。だってそうだろう。この世の全てに対して愛情深い男が命を手放した理由が愛だなんて、まるで出来の悪い三文小説じゃないか。
そういう物語の最後はだいたい相場が決まっている。生き残るべき者が生き残り、晴れてつまらないハッピーエンド迎えるのが定説だ。大団円なんてありきたりな演出が始まるのかもしれない。だが、不思議とそれも悪くない――……はずだったのだが。
「マコト先生……」
「どうしたの?」
マコトの首に腕を回していたアーティが囁く。畏怖や驚きを滲ませ、声が震えていた。不思議に思って抱擁を解くと、大きな青い瞳は瞬きも忘れてマコトの背後をじっと見つめる。
「私にも、巨像が視えます」
呆然と頭上を見上げた鮮やかな視界に、半透明な花と巨大な人影が映った。胡座をかいた膝に頬杖をつき、どの顔も穏やかな微笑みを浮かべてアーティを見下ろすHITO型。奥が見通せるほど透き通ってはいるが、確かにそこに視えるのだ。
西暦2045年某日――。
HITO型巨像並びにそれに派生するデイドリーマーズたちが、一斉に半具現化を遂げた。これはHITO型が十人の専用食のうち半数以上を取り込んだことに起因するものと考えられる。
半透明な状態で可視化した彼らは一般人の目にも映るようになり、世界には激震が走った。
各国はこの事態を二世紀も前から把握していたことを公表し、人知れず国庫に手を付けていたとある秘密組織はその責任を追及された
物語は、ようやく始まったばかりだ。
『はじまりのふたり』―完―
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