第96話 惜別
「っ、マコト先生!」
「アネット!」
後を追おうとした細腕を、ユリウスの残された左腕が掴んだ。振り解こうと抵抗するが、片腕だろうとびくともしない。その間にも後ろ姿はどんどん小さくなっていく。
「放して! お願い、マコト先生と一緒に行かせて!!」
「専用食を食って満腹になったHITO型が移動するかもしれない。そうなったらまたジャパニックのような天災が起きるんだぞ!?」
「そうだよアネット嬢。それにセンセーは不死身なんだから、きっとだいじょ――」
「でも、マコト先生まで食べられちゃったら!?」
大切な人を失う恐怖に、今にも泣き出しそうな声で叫ぶ。痛ましい嘆きに、フィリップとユリウスは思わず口を噤んだ。
巨像自らが具現化するために作り出した不老不死の専用食。彼らが命を終えるのは、その役割を果たした時だけ。マコトはKAMI型巨像の専用食だが、フランチェスカ
「――行かせてあげなさいよ、わからずや共」
アーティを取り囲む二人へ、クロエの凛とした声が届く。
「私は、間に合わなかったから……」
彼女の脳裏に浮かぶのはもちろん、フランチェスカのアトリエで最後に見た弟の姿。たった一人で決断をさせ旅立たせてしまった後悔が胸に重く渦巻く。
全てが終わるまで考えないようにしていたが、
「私からもお願いします」
エプロンドレスの胸元に手を置いたララが、アーティを
「帰りを信じて待つのは女主人の務めです。ですが、アネット様はもう十分お待ちになりました。今はどうか、御心のままに……」
ヘッドドレスを付けた黒髪が恭しく下げられる。未だ仰向けの状態で起き上がれずにいるカタリナには、祈るように閉ざされた
いくらAI学習のリミッターを外しているとはいえ、これはヒューマノイドにプログラミングされたコミュニケーション機能を超えたアプローチだ。それを実現してしまうほど二人への敬愛を垣間見て、どうして黙っていられようか。
「ユリウスせんぱい、フィリップしぶちょー。いま引き止めるのは野暮ってやつですよぅ」
女性陣に促され、細腕を掴んでいたユリウスの手の力が緩む。
瞳を潤ませたアーティは全員に赤い頭を深く下げ、扉の外へ一目散に駆け出した。新型アイデバイスと連動したままのドローンが、赤いポニーテールを素早く追随する。
「行っちゃったねぇ」
遠ざかる華奢な背中を見守っていたフィリップが、やれやれと言わんばかりに肩をすくめる。すると何を思ったのか、余力のあるクロエに眠るラヴィを問答無用で押し付けた。
「ちょ、何よ……!」
「本部の連中が来る前に、急いで地下水道から街へ脱出するんだ。道はユーリが知ってるから大丈夫!」
「……あんたはどうするんです?」
疲労が滲んだエメラルドの瞳がじっとりと上司を睨む。
重症のユリウスとシステムが汚染されたカタリナでは、扉を超えても足手まといになってしまう。だからここで無駄に争うつもりはない。ただ、心配くらいはさせてほしい。
「アネット嬢を一人で行かせるワケにはいかないっしょ~。それに、ボクには全てを見届ける義務があるしねぇ。あと……」
ハーフフレームのスクエア眼鏡が怪しく光る。こういう時は碌なことをしないのがお決まりだ。
「
「……タマキ、この人があっちで暴走し始めたら食っていいぞ」
「にゃ」
ユリウスの指示に対し、目つきの悪い猫が深く頷いた。次いで太く短い前脚を小さく折り畳み、高く上げた尻を小刻みに左右に揺らす。獲物を狙っている時の仕草だ。目標は勿論、扉の向こう側。
出立する彼らを見送ろうと、家政婦モードのララが歩み寄った。
「クソ眼鏡、タマキ様。旦那様とアネット様のことをよろしくお願いいたします。本当は私もご一緒したいところですが……」
「いいのいいの、トーキョーは海水だらけだもんねぇ。錆びたら大変だし。その代わりユーリたちのことも頼んだよ、ララ様!」
「承知しました。追手はミンチにしても構いませんね?」
「人間に危害を加えない」というヒューマノイドのリミッターが解除されているララは、やると言ったらやる。今夜の夕食がハンバーグだったらどうしよう。「命が惜しければどうか追い付いてくれるな」と祈ることしかできない。
「皆様が無事にお帰りになるのをお待ちしております。特にクソ眼鏡は……」
「えっ、何!? ボクのこと心配してくれるの!? いやんっ♡ ララ様ってばやさしィー!」
長身をくねらせて猫撫で声でおどけてみせる。そんな年甲斐のないアラサーに、宇宙鉱石の瞳を細めた絶対零度の微笑みが向けられた。
「債権回収がございますので、首だけになったとしても帰って来ていただかないと」
「…………」
ふざけていた脳裏に一瞬で32,000ユーロの請求書がチラついた。地獄の果てまで取り立てる意志を感じて、減らず口が真一文字に閉じる。
天涯孤独の身の上で生命保険にも加入していない。死んでも1ユーロにさえなりはしないとバレているのだ。
すると、可憐な口元を押さえたカタリナが我慢しきれず吹き出した。
「ぷぷっ……! しぶちょー、死ぬのも楽じゃないですねぇ」
「くっ……こうなったらアネット嬢に貸した新型アイデバイスを回収して競合他社へ売り捌くしか……!」
「いいから、さっさと追いかけなさいよ」
呆れたように言うクロエにせっつかれ、
最後に、ひょろりとした背中を堅実な部下が拳で叩いた。
「帰って来なかったら、殺してやる」
そんな脈絡のない文句は、祈りでもある。
金毛の忠犬は火傷痕が走る眉間に深く皺を刻んで
「いつもみたいにいい子で待っててよ、ユーリ。そしたら無事に帰って来てあ・げ・る☆」
「気色悪いんでやっぱりあっちでくたばって来てください」
「オッケー、五体満足で帰って撫で繰り回してやるからねっ!」
相変わらず辛辣な部下に軽口を叩く。別れの挨拶は必要ない。帰るために必要な言葉は決まっている。
「それじゃあ、行ってきまぁす!」
「にゃぁぁああんっ!」
その合図を今か今かと尻を振りながら待ち侘びていたタマキと共に、岩をも砕く勢いで駆け出した。
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