第93話 呪言と刃




「あなたは空っぽなんかじゃない」


 極彩色の視界が怨念を掻き分け、天窓から降り注ぐわずかな月光を頼りに情報更新アップデートを続ける。暴れる四肢を掻い潜るドローンから、データの光が絶えず降り注いだ。

 

 アーティはまだ諦めていない。普通も特別も知っているからこそ、どんな命とも真正面から向き合える。


「生きたいと思ったから生まれてきたんでしょう? そんな奴が入り込める隙間なんてないはずよ」


 情報転写式具現装置リアライズの光に導かれて顔を上げた子どもと、確かに目が合った。泣いているようにも見えて、思わず息を呑む。


 次の瞬間、奴は講堂の端から端へ背中の両腕を伸ばし、肉の花ごとアーティの元まで飛んできた。まるで母親を見つけて走り出した子どものように。


 塀や柱を粉砕する大砲の如き勢いを避けるのは不可能だった。身をすくめたアーティを庇い、マコトが立ち塞がる。瓦礫がれきや砂埃もろとも、二人はぱっくりと飲み込まれた。


「ぐッ……!」

「先生!?」


 死臭が漂う狭い肉壺の中で、アーティを背に隠したマコトの腕に子どもが噛みついた。鋭い歯が皮膚を突き破り、肉を断ち切る。骨まで軋むほどの力にくぐもった声が漏れた。

 子どもは死に際の人間のように暗く窪んだ眼孔を黒光りさせ、立ち塞がる邪魔者を退かそうと一心不乱に藻掻く。


『融合が終わったらまずはお前をKAMI型に喰わせてやりましょう、天誰真己徒御主神アマタマコトミヌシ。その次はあの猫畜生です』


 突き立てられた歯の隙間から黒いもやが漏れ出る。

 痛みに奥歯を食い縛るマコトの耳元へ、あらゆる温もりを奪い尽くす永久凍土の声がすり寄った。


「マスターピースも、そうやってHITO型に喰わせたのか……!」

『――……ああ、誰かと思えば、あの愚か者のことですか』


 まるで他人事のような物言いに、眉目秀麗な顔に青筋が走る。


『愛してるって、叫びに行くんだ』と、変わらぬ笑顔で言い残した姿が今なお鮮明に浮かぶ。なのに、彼が死を覚悟してまで伝えたかったことが何一つ届いていない。


『あれは他人の可能性に期待しすぎるきらいがあります。HITO型がトーキョーへ出現する予兆を掴み、和解を餌に誘き寄せたのです。彼はお前のような専用食を保護していたでしょう? そのせいで巨像を具現化する計画の進捗は最悪でした。太古から私の神経を逆撫でする忌々しい男です。この世界に生まれ落ちた時から、ずっと――』

「それでも、あの人はあんたを愛そうとしていた……!」

『ええ、知っています。何千何万回と空へ上がる月を共に見上げましたから。お前が心を通わせた時間など取るに足らないほど……』


 気のせいか、フランチェスカの言葉には嫉妬にも似た恨み節が滲んでいた。怨念に感化され、マコトの腕を食い千切ろうとする顎に力が入る。


『ただの呪物に成り下がった私を諦めきれず、まんまと出し抜かれた挙句多くの同胞を餌にされ、最後は自分が喰われた憐れな男……』

「……もういい、喋るな」


 これ以上、友への侮辱を聞きたくない。

 眉を寄せるマコトの耳に、忌々しい高笑いが響く。フランチェスカの機嫌はここ千年の間で最高潮に達した。


 おぞましい声が木霊こだまする肉壷の外から、赤黒い筋の張った花弁へフィリップがナイフを突き立てる。


「ボクもあんなに愚かな男は他に知らないよ。何の根拠もなしに、誰もが齟齬なく分かり合えると本気で信じてた。あんたみたいな心無い化け物ともね」


 想像を絶するほどの時を生きながら、短命の人間以上に穢れ知らずな馬鹿だった。子どもが夢を語るように人とデイドリーマーズの未来を説く横顔は希望に満ち溢れていて、何度その眩しさに目を細めたことか。


 人間はマスターピースが信じたほど純粋で素直な生き物ではない。この世で人間だけが悪意で人を殺す。過去から学ばず戦争を繰り返し、自然を壊して。今は荒廃した大地を捨て宇宙へ逃げようと必死だ。目の前の誰かとすらろくに分かり合おうとしないのだから、不可視の存在など見えるわけがない。


 多くの同胞から腫れもの扱いされていたフィリップの方が、きっと人間に絶望していた。自分でも気づかないような心の奥底で「滅んでしまえ」とすら思っていたかもしれない。

 そんなフィリップが人類存亡の道筋をデイドリーマーズとの相互理解に見出したのは、間違いなくその愚かな男のおかげなのだ。


『そしてまんまと絆されて、私の所在を漏らした。お前が死へ送り込んだも同然です。私と再会を果たさなければ、彼ももう少し長生きできたでしょうに』


 眼鏡の奥に光る瞳がピクリと痙攣した。眉尻が上がり、後悔で奥歯を強く噛み締める。


 組織の中に探し人がいると言っていたマスターピースに言われるがまま、彼の義体技師という肩書を使い、フィリップは二人を引き合わせてしまった。それが永遠の別れに繋がるとは夢にも思わずに。


 軽佻な口を硬く引き結んだ隣で、別のナイフが肉壺へ突き立てられる。真っ赤な顔で美しい金の瞳をつり上げるクロエだった。


「そうやって、何もかも他人のせいにしてきたんでしょう!? あなたの言葉には『自分』ってものがないもの!」


 何度も、何度も――過去と決別するように、絶え間なく刃を突き刺す。今の彼女には敬愛も思慕も何一つ残っていない。欠片もだ。


『ふふふ、やはり姉弟ですね。M2も自滅する前に同じようなことを言っていました。ですが、個が何だと言うのです。人間の自我など魂の味付けでしかありません。所詮は怪物に喰われる家畜の分際で……』

「その名前で呼ぶな! あの子はミシェル、私の弟よ! それに――……私たちは、家畜じゃない!」


 クロエの鋭いナイフが肉花の天井を抉り取る。

 僅かに差し込んだ外の光と共に、待ちに待った号令が届いた。



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