第71話 ミッシュ・マッシュ
午後の日差しが降り注ぐ講堂内を暗影が這いずり回る。その巨体が通り過ぎた床には黒く艶のある体毛が散り、粘着質な血のような体液が糸を引いた。
四足歩行の生物のようにも見えるが、頭はない。歩くたびにでっぷりとした腹を床を擦った。あの中には捕食された支部員がごっそり収められているのだろう。
鋭い爪が生えた獣の足、骨と皮だけの細い腕、多関節の虫のような触角。身体中から生えた様相の違う部位がばらばらに動く。その姿は血の気が引くほど不気味で、悍ましい。共喰いし合った
講堂の頭上にぐるりと集会した二階と三階の通路。そこに身を潜めたウォッチャー八名が、緩慢に床を這う怪物へ照準を合わせる。
講堂は有事の際の砦としての機能も有しており、
三階から斉射のタイミングを見定めていたカタリナの傍には、自失状態で使い物にならないクロエの姿もあった。彼女が罪と向き合って共に戦ってくれることを願い、カタリナが引きずって来たのだ。どうか目を覚ましてほしい。本来のクロエはどんな戦況でも覆せる
天窓から差し込む光を浴びて、床を汚す体液がぬらぬらと乱反射する。
スコープを覗くミティアライトの瞳孔が
「未確認の個体でもやることは変わりません。反応を観察して、常に
確証はなかった。それでも希望を持たなければ銃口がぶれる。
己に言い聞かせるようなカタリナの言葉に鼓舞され、ウォッチャーたちはトリガーに指をかけた。
そんな中、彼女の対角線にいた若いウォッチャーの銃口は震えていた。
彼は入隊してまだ3ヶ月。実戦不足でビンツへ向かう先遣隊のメンバーに選ばれなかったため支部で待機していたら、とんでもない事態になってしまった。
まだ死にたくない。やりたいこともたくさんある。会いたい人だって。
極限状態の緊張が続いて気が触れそうな中、どうにか踏ん張っていた彼の鼻下を血が伝う。こんな時に鼻血なんて。だがトリガーから指を離すことはできず、仕方なく放置することにした。その時。
床を這っていた怪物の背中から、ナハツェーラーの頭がぐるりと真上を向いた。奴は吸血鬼である。血には誰よりも敏感だ。
新人がスコープ越しに黒塗りされた瞳と見つめ合う。一拍の鼓動。それしか猶予はない。カタリナもその異変をすぐ察知した。
「――ッ
彼女の号令と共に、八つの銃口が同時に火を噴く。
全弾
だが怪物は
「ァアアアアアア゛ア゛ア゛ッッ!!!」
新人も迫り来る脅威に向かって一心不乱に発砲する。だがいくら撃ち込んでもまるで決定打にならない。データの器の完成度が足りていないのだ。
「
サーバールームのモニター越しに様子を見ていた非戦闘員たちへ、カタリナが無線で檄を飛ばす。レシーバーの向こう側にいる経理担当から『今やってるわよ!!』と負けず劣らずの怒号が返ってきた。
肉質、能力、声、外見的特徴などを拾ってデータ化する作業は、本来であればウォッチャーたちが何日も時間をかけて行うものだ。完成品は一朝一夕では出来上がらない。理解の
直後、壁に設置された照射装置から緑色の光が放たれた。
カタリナはすかさず銃を構え、鋭い牙を剥いて首を伸ばすナハツェーラーの額へ照準を合わせる。
柱に張り付いて登っていた融合体は一つの頭を失って事切れたように動きを止め、二階付近から真っ逆さまに落ちていく。
落下の衝撃音と内臓が潰れる嫌な水音が、広い講堂内に木霊した。同時に泥濘の体液が放射状に飛び散り、黒い巨体の周囲を汚す。
油断せず銃口を向けたまま、
(これで終わり……? そんなはずない、呆気なさすぎる)
不気味な静けさの中を注視していたカタリナのアイデバイスが、あることに気づく。
講堂の床は平面であるのに、どす黒い体液が排水溝へ吸い込まれるように流れていた。いや、意図的に向かっている。
「――今すぐサーバールームから撤退! 早く地下道へ逃げて!!」
通信機に向かってそう叫んだが、一歩遅かった。
実体化した怪物は、謂わばデータの塊。体液だけでも動くことはできる。
排水溝から隔壁を掻い潜りサーバールームへ侵入した
『そんな、どうしてここに……ッぐぁああああ!?』
『嫌! 離して、イヤァアアアア゛ア゛』
『ンぎッ……カタリ゛ナ、助け……』
耳を塞ぎたくなるような断末魔をレシーバーがひっきりなしに受信する。カタリナの銃口が初めて震えた。
『カタ、リナ……』
「ッ、ドクター!」
老医師に虫の息で呼ばれ、余裕のない感情的な声を上げてしまう。機械の身体でなければきっと涙が溢れていた。
『すまん……餌にしか、なれんかった……』
――ブチブチ、ズチュゥッ、バリ、ボキッ。
最期の悲鳴すら上げる間もなく、レシーバーは咀嚼音に包まれた。
共に戦うと言ってくれた時、カタリナは確かに勇気づけられた。嬉しくて、頼もしくて。だから絶対にこの人たちよりも先に死ななければならないと、誓ったのに。
『カタリナ、指示を』
動かぬ巨体に銃を向けていた仲間からの通信だ。
仲間が一方的に惨殺されたショックで停止しかけていた思考が一気に引き戻される。見ると、食事を終えた体液が排水溝を逆流して戻ってきていた。
『彼らの犠牲を無駄にするな。指示をくれ』
感情を押し殺した声に丸まりかけた背中を叩かれ、再びトリガーに指をかける。
まだだ、まだ終わっていない。後悔も懺悔も、死んだ後でいくらでもできる。留守を任された者として、彼らを率いて最後まで戦わなければ。
「一班と二班は
指示の
カタリナのアイデバイスが捉えたのは、太い杭のようなもので頭を貫かれて絶命した仲間の姿だった。
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