第23話 海蛇が棲む浜
駅前のトイレで社会的一命を取り留めた男と頼もしい少女は、依頼人と会うために薄暗い森の中を歩いていた。
ビンツの南に位置する森には、日没後の不気味な静寂が横たわる。入り口付近で焚かれていたキャンパーの明かりも、奥に進むにつれて見えなくなった。
「けっこう雰囲気ありますね……。こ、この先にデイドリーマーズが……」
「怖いならホテルに戻っててもいいよ」
「こんな場所で追い返すとか鬼ですか!? ドS先生! ……んん? それもいいかも……」
相変わらず独特な思考の海を泳ぐアーティは、ちゃっかりマコトの腕にしがみついている。
怖いのは本当だ。役得だなんてほんの少ししか思っていない。
最低限に舗装された道路をしばらく歩くと、路駐した黄色いコンパクトカーを発見した。依頼人の指示通りそこから獣道へ入る。
幹に麻紐が巻かれた木と地面に残された足跡を辿り、二人は奥へと進んだ。
それから数十分。
開けた木々の間に月の白光が差し込む場所が現れた。森の出口だろう。マコトは一度足を止め、目を閉じて耳を澄ます。
「……で――、もう……あはっ――」
女性の声が聞こえる。それから、波の音。声の主は一人だが、きゃらきゃらと楽し気な笑いが絶えない。
静かに顔を見合せた二人は、潮の匂いがする方へゆっくりと歩を進めた。
森から出てすぐ目の前に広がったのは、切り立った白岩の崖に囲まれた小さなプライベートビーチ。
横幅十メートルほどの小さな水辺に、その姿はあった。
「もう、ヴァイクったら! やめてよぉ」
波打ち際ではしゃぐ小柄な女性。その頭上に10センチ程度の水の玉が浮かび、弾けた。噴水のように降り注ぐ水は、オレンジ色の髪から爪先までをしとどに濡らす。素肌に張り付いた白シャツから黒のキャミソールが透ける様が妙に艶めかしい。
濡れネズミになった彼女は細いうなじに
チョコレート色の大きな瞳とオッドアイが交差する。マコトは思わず足を止めた。
「…………」
「…………」
双方に流れる謎の沈黙。
次の瞬間、呆けていた女性はハッと表情を強張らせた。
「へ、変質者!?」
「え」
濡れた身体を腕で隠しながら声高にそう叫ぶ。
訂正しようとマコトが一歩踏み出すと、穏やかだったビーチから急激な荒波と殺気が押し寄せた。
咄嗟にアーティを背に隠した刹那――鋭い高圧水の刃が、二人の真横を一瞬で通り過ぎた。
「ひぇ……」
背後ではバキバキと切り倒される木々の悲鳴が上がる。
刺激的なおもてなしに、アーティは喉を引き攣らせた。
もし一歩でも動いていたら、伐採されていたのは自分たちだったかもしれない。
張り詰めた空気の中で、マコトは攻撃が放たれた海の暗がりをじっと見定めた。
色覚が当てにならない視界は、一方で夜に強い。色に頼らず濃淡で判断する能力に秀でているため、僅かな光さえあれば暗い海に潜む存在すら見通せるのだ。
白波が立つ荒れた海面。怯えた表情をする女性の奥。
色違いの双眸は、星空を反射する
「えっと……結婚おめでとうって言うべきかな?」
「……! あなた、もしかして……」
海面には再び激しい波が立つ。すると、女性が慌てて海に向かって叫んだ。
「ヴァイクやめて! この人たちはお客様よ!」
今にもまた水刃を放ちそうだった海が、彼女の声で徐々に凪いでいく。どうやら誤解は解けたらしい。
その様子を固唾を飲んで見守っていたアーティは、マコトの肩越しにちらっと顔を覗かせた。
「あのぉ……マリーさん、ですか?」
「はい! すみません、私ったら勘違いしてしまって……!」
何度も頭を下げて謝る腰の低い女性は、依頼人のマリーと言う。彼女こそが怪物の花嫁だ。だがその二つ名からは想像できないほど腰の低い人物らしい。
百年に一人の美女というわけではなく、良い意味でどこにでもいそうな普通の女性だ。小柄な身長と甘いミルクチョコレートのような丸い瞳が、マリーをより愛らしく魅せる。だからこそパートナーの異質さがよりいっそう際立った。
「紹介しますね。私の旦那様、ヴァイクです!」
マリーの声に呼応し、デイドリーマーズの花婿が水中から姿を現す。
海上に飛び出した勢いで細かく舞った水飛沫が、星空の下を淡く輝かせた。
水面から出ている部分だけで2メートルは越すだろうか。しなやかな筋肉に包まれた上半身は成人男性を模している。肌はつるりと白い。腰の位置まで伸びる水色の髪が波のように美しいウェーブを描いた。水中で
マコトを……というよりはマリーに近づく男を警戒しているのか、ヴァイクは石膏のような白い目から鋭い視線を向けた。妻の周りを牽制するように、蛇を象った水の柱が彼女の身体に絡みく。
独占欲を隠しもしない夫にマリーは「もう、人前なのに~」と、満更でもない様子だ。どうやら夫婦仲は円満らしい。
「先生、そこにヴァイクさんがいるんですか?」
「うん、嫉妬深そうな奴だよ。……あ、そうだ」
マコトはペンダントにしていた例のアタッチメントを外し、アーティの首にかけてやる。
「これ、預けておくね」
「え……い、いいんですか!?」
「うん、アーティに持っててほしい。それ覗いてみて」
信頼の証のように授けられたアタッチメント。
アーティは高揚する気持ちを抑えきれないまま、言われた通りそれを片目にかざした。
透き通ったガラス面越しに視えたのは、巨大な海蛇人間。
その芸術めいた造形美に魅了された少女は息を飲んだ。
美男の彫刻のような存在に、無意識に手が伸びる。
すると、最愛の妻と
マコトは終始その動きを警戒していたが、攻撃性は見受けられない。女性には寛容なようだ。さすが妻帯者。
疑似的に不可視の存在に触れた感動で、少女の頬がぱっと色づく。
その様子に気を良くしたヴァイクは、彫りの深い端正な顔で一丁前にウインクをかました。
「ファッ!? ナイスガイしゅぎるっ! まさに
「……ごめんねマリー。アーティは人とはちょっと違う感性で生きてるんだ」
普通はもっとこう、驚いたり怖がったりするものなんじゃないだろうか。
そんなマコトの心配を余所に、奥方は「かっこいいでしょう、私の旦那~!」と盛大に
デイドリーマーズ以上に謎な生態だ、女子という生き物は。
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