5-4

 丘のふもとの広場まで到達したところで、イアンは自分の周囲から悲鳴が上がるのを聞いた。


「ひっ、ひぃぃ……レトリビューションだぁ!」


「うわぁっ! くっ、来るな! 寄るなー!」


 イアンには広場の様子を窺う余裕も無かったが、その場にいるバプティストの人数は明らかに昨日よりも少なかった。アリッサの計画通り、チェストールにあるアーチエネミーの拠点へと向かったのだろう。


 リザブールに残ったバプティストたちもイアンがまとったレトリビューションの渦を恐れて近付こうとはしない。イアンは誰からの抵抗にあうことも無く丘の階段を上っていく。


「アケルダマの、聖堂……あそこだ。あそこまで、行けば……」


 見上げる丘の頂上に建つ聖堂。血の聖水の源泉、アケルダマはその中にある。


 一段一段、上るごとにイアンの足はズキリと痛む。それと同時に肩も背中も脇腹も同じく痛みが走る。


 いよいよ全身を黒い渦が覆い始めたか。そう思って自分の身体を見ると、レトリビューションの渦が次第に小さくなっていくように見えた。そして、完全に消えた。


「レトリビューションが……ペインキラーの効果が切れたのか?」


 ローブに染み込ませたペインキラーの水が乾いてしまったのだ。


 今、スージーはどうしている? 無傷のイアンの肉体からはレトリビューションは失せたが、まだベッドの上から起き上がれないでいるスージーは。


 嫌な予感は拭えない。イアンは自分の身が軽くなった今、一気に階段を駆け上がって聖堂を目指す。


 丘の頂上まで上がったところで、イアンの目の前に真紅のローブを着た人物が立ちはだかる。その人物の顔を確かめて、イアンは思わずつぶやいた。


「ジェフ……」


「イアン……ここには来るなと言ったはずだぜ。何度も言ったはずだ」


 一瞬、ジェフが血の聖水を持ち出してくれたのかと期待したが、そうではない様子だ。


 ジェフの視線も口調も冷たく、いつもの気さくな雰囲気が感じられない。


「ジェフ、頼む……そこをどいてくれ。僕は……」


「レトリビューション……あぁ、大体の見当は付いてる。お前のペインキラー、他人の苦痛だけじゃなくレトリビューションそのものもお前の身に移せるんだろうな……そんな無茶はするなとも言ったはずだぜ?」


 イアンの胸の奥が痛む。身体の痛みは去ってもイアン自身の心が生み出した痛みだけは捨て去りようがない。


 人の善意を無視し、友情を裏切る行為。そう捉えられたとしても文句は言えない。イアンの胸の痛みは、ジェフの気持ちを踏みにじったことに対する罪悪感だ。


 それでも二の足を踏んではいられない。例えジェフから蔑まれようとも、もう決めたのだ。自分の手でスージーを救うと。


「ジェフ、どいてくれないのなら僕は……」


「ふざけるな。お前こそ、とっとと立ち去れ。自分に課せられた使命も自分の存在すらも理解していないとは……お前は救世主なんかじゃない。この場から立ち去れ。スージーのことも忘れろ」


 どうしたというのだろうか。イアンは、そんな違和感を覚えた。


 ジェフからこれまで聞いたこともないような言葉。バーリンダムにいた頃のジェフは、イアンをたしなめる時でも言葉を選んでいた。そこにはイアンへの思いやりが感じられた。


 今のジェフの言葉からはイアンへの想いは微塵も感じられない。単なる怒りを超えて、完全にイアンに失望してしまっているようだ。


「嫌だ……僕には、そんなことは出来ない。どんなに憎んでくれたっていい、蔑んでくれたっていい。僕のことを救世主だと崇めてくれなくたっていい。だけど、スージーだけは救いたいんだ!」


「……なら、俺もお前に憎まれたって構わない。力づくでもお前をこの場から連れ出す」


 ジェフがイアンとの距離を縮めてくる。ジェフは本気だ。


 そのジェフの背後にはアケルダマの聖堂が建っており、中に入るための入口も見えている。目の前のジェフさえ振り切れば聖堂に入ることも出来るはず。


 イアンは手のひらに意識を集中させた。


「ジェフ……ごめんっ」


「うわっ……!」


 自らの手の中に湧き出たペインキラーの水をジェフの顔目掛けて浴びせる。


 バーリンダムでケンにやったのと同じように、顔に水を掛けられたジェフがひるんでいる隙に聖堂へと向かう。


 そう思ったところでイアンの足が止まった。

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