5-3
「スージー……」
まだ目を覚まさない愛しい人の名前を呼ぶ。シーツにくるまれたスージーの身体が動いた気がした。
いや、気のせいではない。眠りながらもスージーは小刻みに身をよじらせている。両目はつぶったままだが眉間にシワを寄せて苦しそうに見える。
「スージー……大丈夫?」
身体を軽く揺すってみる。スージーはますます顔をしかめ、呼吸を速める。
「イアン、くぅん……」
途切れ途切れの切ない声に、イアンは嫌な予感を抱く。
スージーの身を覆うシーツをめくると、最悪の状況に気が付いた。
「レトリ、ビューション……! くそっ!」
スージーの身体のあちこちから、黒い渦が湧き出ている。胸も脚も内側から発生した渦にむしばまれている状況だ。
イアンは自分のヒザを握り締めた拳で思い切り叩きつけた。歯噛みして悔しがる。せっかくジェフが協力すると言ってくれたのに事態は待ってはくれなかった。
(いや、まだだ……まだ遅くない!)
ここで悲嘆していても仕方がない。ジェフが血の聖水を持ってきてくれるのを待っている余裕が無い以上、イアンが自分で取りに行くしかない。
幸い、ここはアケルダマのあるリザブール。シカリの丘までの道は、もう頭の中に入っている。急げば間に合うはず。だが、苦しむスージーをこのままにしておくことも出来ない。
イアンは壁に掛けておいた自分の紫色のローブを手に取ると、そこに力の全てを注ぎ込む。
「頼む、ペインキラーよ……僕が帰ってくるまでスージーの身体から痛みを取り去ってくれ!」
イアンの周囲の空気が冷やされ、空気中の水分が水に変わる。
人々の痛みを消すペインキラーの水でローブを濡らすと、そのローブをスージーの身体へと被せる。濡れたローブがスージーを包み込んでいる間は、スージーの身体からレトリビューションの痛みが無くなると信じて。
その代わり、スージーを苦しめていた痛みが今度はイアンの身に降りかかる。レトリビューションの黒い渦ごと。
「うっ、ぐぁぁぁ……っ」
イアンは自分の腕に、脚に、胸に、背中に激しい痛みを感じてもだえる。
発生した渦はまだ小さいものの、それでも確実にイアンの身体に苦痛を与えている。
ハルフォードで同じくスージーの身に現れたレトリビューションは右腕だけだった。それでも地獄のような激痛を味わった。
今はまだ小さい渦も次第に大きさを増していく。それが今度は右腕だけでなく全身に及ぶとなると、その痛みだけで死にいたる恐れさえある。
だが、今はそれを意に介している暇は無い。
ドアを開いて隣の部屋へと移動する。たったそれだけの動きで、レトリビューションの痛みは悪化してイアンを苦しめる。
「ぐあっ! アアアアァァァッ!!」
骨の奥底、筋肉の一本一本にいたるまで黒い渦が入り込む。まるで鋭い刃物で肉体の内側から切り刻まれているかのような感覚に、イアンはその場に突っ伏した。
「おい、イアン!」
異変に気が付いたアリッサが声を掛けるも、彼女にもどうすることも出来ない。イアンの身体から湧き出る黒い渦を前にして、ただの人間が無力なのはアリッサも知っていた。
痛みのために両目をギュッとつぶるイアン。それでも今はシカリの丘まで行かなくてはならない。這ってでも進まなくてはと薄目を開けると、床に転がったシルバーブレットの空きビンが目に映った。
(これだ……!)
ワラにもすがる思いでビンを手にすると、そいつを思い切り自分の頭に叩きつける。
激しい音がしてビンは粉々に砕け散る。イアンもまた意識が飛びそうになる。そのおかげだろうか。イアンは自分の身をむしばむ痛みが若干引いたような気がした。
立ち上がると視界がグラつき、足下もおぼつかない。頭を打った衝撃でふらついているせいだ。その分、痛みに対しても鈍感になっている。今の内にシカリの丘を目指す。
「スージーを……頼みます」
アリッサにそう言い残して、イアンは部屋を出て行く。
階段を転げ落ちそうになりながらも何とか耐えて隠れ家を後にする。左右の建物がぐにゃぐにゃと歪んで見える。足は一歩歩くごとに痛みが走る。
だが立ち止まってなどいられない。自分の身体のことなど構ってはいられない。ジェフに、アリッサに、アモット医師に、そして自分自身に誓ったのだ。例え自分の身がどうなろうとスージーだけは救ってみせると。
視界の端に自分の身体に根付いた黒い渦が見える。その渦が引き起こす痛みが骨身に走る。それがどうした。今さら我が身可愛さでスージーを見捨てる選択肢などイアンにはあり得なかった。
「シカリの、丘……アケルダマ……血の、聖水を……スージーに」
うわ言を口にしながらイアンは目的地を目指す。頭ははっきりとしていないが、足は無意識にシカリの丘までイアンを運んでいった。
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