第五話 アケルダマ
5-1
夜、イアンはリザブールの街にある小さな店を訪れた。
リザブールの支部からもシカリの丘からも離れた位置にある寂れた店だ。店内には他に客の姿は見えない。
イアンはカウンターの席に腰掛けると、あらかじめアモット医師から一杯ごとに代金を支払う店だと聞かされていた通り硬貨を一枚取り出した。
「レミーをください」
注文したイアンの前に琥珀色をした飲み物が入ったグラスが置かれる。甘いシロップを炭酸水で割った飲み物でアルコールは入っていない。
一口含むとピリッとした刺激が舌に突き刺さる。
グラスをカウンターに置いて壁に目をやると、一枚の絵画が飾られていた。
(ヨシュアと……ヘレムと……スザンナの絵か)
絵画の左側には紫色の衣をまとった人物が、右側には黄色の衣を着た人物が描かれている。それぞれ救世主ヨシュアと、その裏切り者の弟子ヘレムを表している。
中央上部には白百合を持った天使スザンナが描かれており、二人の魂を天上へと運ぶ場面と思われる。
イアンが絵を眺めていると、入口のドアが開く音が聞こえた。イアンは壁に顔を向けたまま動かない。
入ってきた客はカウンター席に近付くと、躊躇うことなくイアンの隣の席に座った。
「俺にも同じ物を頼む」
一週間ぶりに聞いた声だ。顔をそちらへ向けると、慣れ親しんだジェフの横顔が見えた。
相変わらずのオレンジ色の長髪、つりあがった目。いつもと違うのは真紅のローブを着ていないこと。イアンも自分のローブは脱いできた。
ジェフにもレミーのグラスを差し出すと、世捨て人のような店主は何も言わずに店の奥へと引っ込んでいった。カウンター席でレミーを注文する客が二人いたら席を外してほしいと、店主もアモット医師から頼まれていたのだ。
二人の会話が誰にも聞かれていない状況に、イアンも安心して口を開く。
「ジェフ、まずは謝らなくっちゃいけない。僕は君の帰りを待つことが出来なかった。バーリンダムは今……」
「レトリビューションに飲み込まれてしまったんだろう? アモット先生から聞かされた」
ジェフはグラスには手も付けず、イアンの方へと顔を向ける。
「俺はお前がまた無茶をして、お前までレトリビューションにやられちまったかとも思った……無事で安心したよ」
イアンのことを気遣うジェフの言葉。それでいながらジェフは、両目を更につり上げる。
「けど、やっぱり無茶なことをしたな。アモット先生にも、お前はリザブールには来るなと伝えてたんだぜ?」
「うん、それは申し訳ないと思ってる。ジェフにも、アモット先生にも……それでも僕には待っている余裕は無いんだ。自分の足で血の聖水を取りに来るしかなかった。バーリンダムのことだけじゃなく、スージーが……」
「スージーが? どうかしたのか?」
ジェフが首を傾げる。アモット医師も、そこまでは話していなかったようだ。
「スージーはバーリンダムで一度、レトリビューションに襲われたんだ。ここに来るまでも川で溺れて、まだ寝込んでいる。いつまたレトリビューションが発生するかも分からない」
「だから……お前が血の聖水を取りに来たのか」
ジェフはイラ立ちを隠さず、カウンターを指先で何度も叩く。それからレミーを一息に飲み干して軽くむせる。
「ジェフ……」
「言っただろう? アケルダマの血の聖水はヘレムの血。お前が触れていいものじゃないって」
「それは……そんなに大事なことなの? 僕には、そうは思えない。『ヨシュアの木』はバーリンダムの人たちを見捨てて逃げ出した。アーチエネミーの方が正しいなんて言うつもりはないけれど、教団が本当に全ての人を救おうと考えているとは思えない。僕は……もう教団の教えに従うことは出来ないんだ」
他でもない教団の人間に向かって教団の批判を述べる。それだけイアンはジェフのことを信じていた。他のバプティストと違い自分の言葉を聞いてくれるはずだと。
「……どうしても血の聖水を求めるのか?」
「どうしてもだ」
「スージーのためか? そのためなら、お前はどんな犠牲も払うのか?」
「もちろんだ。スージーはこれまで、ずっと僕の側で僕を支えてくれた。例え僕の身がどうなろうと構わない。いや、僕なんか……僕のペインキラーなんか気休めにしかならない。誰も本当の意味で救うことは出来ない。だったら、せめてスージーだけでも助けたいんだ」
イアンは自分の想い全てをジェフにぶつける。ジェフはそんなイアンの瞳を真っ直ぐに見返す。
「お前は……そういう奴だよな。だからリザブールには来てほしくなかったんだ。俺は、お前に……」
ジェフは何かを言いかけて口をつぐむ。
それからしばらく無言でうつむいていたが、やがて決心したような表情で顔を上げた。
「分かったよ。血の聖水は俺が持ってきてやる。少し時間が掛かるかもしれない……大した量は持ってこれないかもしれない。それでもいいなら、俺がお前の力になってやる。だから……お前はスージーの側で待っていろ」
「ジェフ……!」
ジェフがイアンへの協力を示してくれた。イアンはとっさに感謝の言葉が出て来なかった。それぐらい感極まっていた。
ジェフは席から立ち上がると、イアンではなく壁に飾られた絵に目を向ける。
「イアン……俺はお前の友達だ。例え、お前が何者であったとしてもな」
そう言い残すとジェフは先に店から出て行った。
静かな店内で一人、イアンは心を打たれていた。アリッサ、アモット医師、そしてジェフ。自分のために行動を起こしてくれる人たちが、こんなにもいるのだと。
イアンは今一度、壁に飾られた絵を見つめる。
自分をこの世に遣わしてくれた童貞大天使スザンナがもたらしてくれた縁が、この上なく有難いものだと感じ入った。
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