3-5

 大事な人を失ったヘリオンの話を聞き、その悲しみを実際に味わった今、イアンはスージーへの想いを見つめ直していた。


 自分の側にスージーがいてくれること。それにどれだけ支えられてきたのか、本当の意味で理解した。


 ――この優しい笑顔を失いたくない。そうでなければ、きっと自分は生きていけないだろう――と。


 イアンは自分がリザブールを目指す意味を改めて意識する。自分が誰のために行動を起こしたのかを。


(僕の力は一時的なもの……根本的な解決にならない無力なものだ。いつ捨て去ってもいい、それでも悩める人々のためにそれも出来ない……この身を縛る茨の冠。僕が歩む茨の道の外……使命とは関係無く、僕が守りたいと願う人……それはスージーなんだ)


 スージーに二度とレトリビューションの災いが降りかからないようにするため、イアンは血の聖水を求めてリザブールへと向かっている。


 例え「ヨシュアの木」の教えに背くことになろうとも。例えリディーマーとして生まれた自分の使命に反することだとしても。


 自分を支え続けてくれるスージー。彼女がいなければ、イアンも心身の痛みに耐えることは出来なかったかもしれない。


 そしてスージーに支えてもらったのと同じくらい、イアンもまたスージーに寄り添って生きていたいと願っている。


 スージーがイアンの隣で笑ってくれている限り、イアンも常にスージーに微笑みかけて生きたいと。


「……もうすぐ対岸に着く。舟をとめられそうな場所を探さないと」


 向こう岸まで残り五十メートル。出発した時とは違い、桟橋のようなものは見られない。


 貸し舟屋ではロープで舟と桟橋とを繋いで流されないようにしていたが、同じようにロープを繋いでおける所は無いだろうかと探す。手頃な木や、あるいは立て札などが無い場合は舟を陸に引き上げようか。


 そんな風に考えているところへ、頭上の分厚い雲をも引き裂くような轟音が鳴り響いた。


 ガアアァァーーン――という凄まじい音にイアンもスージーも息を飲み、表情が凍りつく。


「今の……音は?」


 慌ててイアンは周囲の様子を窺う。舟をとめる場所を探していた時よりも熱心に、目を凝らして対岸を注視する。


 イアンの目が捉えたのは、対岸からこちらを向く人影。


 顔は分からない。ただ一人の人物が、何か長い杖の様な物の先端をこちらに向けているのが見えた。


 先ほどの轟音と照らし合わせれば、それが鉄砲を構えているのだと遠目からでも分かる。


「まさか『ヨシュアの木』の追っ手が……いや、そんなはずはない。あれは……まさかアーチエネミーか!?」


 教団がイアンを追う目的は、リディーマーを連れ戻すためであるはず。命を狙うなど考えられない。


 周囲には他に舟など無く、猟師の獲物になりそうな野鳥の姿も見えない。となれば今の銃声は、確実にイアンを狙って発砲されたものだ。


 そんなことをする相手は「ヨシュアの木」に敵対する武装組織アーチエネミーだけだ。


(どうして僕がマーセイ川を渡ろうとしているのが分かった? この紫色のローブのためか? それとも、さっき漁師に身分を明かしたのがマズかったか……いや、そんなことより今は何とかして逃げなくては!)


 焦りながらも慣れないオールを何とか操って舟の向きを変えようとする。


 それが上手く行かない理由は、イアンが舟に不慣れなせいでも焦りのせいでもなかった。


「この舟……沈んでいる?」


 先ほどの銃声が聞こえた後、イアンにもスージーにも外傷は見られなかった。


 てっきり弾は外れたのかと思ったが、そうではなかった。


 アーチエネミーと思しき人物が撃った弾は舟に当たり、穴を開けたに違いない。そこから水が入り込み、舟は今まさに沈もうとしている。


「マズい! スージー!!」


 危機を察知したイアンがスージーの身を守ろうと飛びつく。


 瞬間、舟は全体が水に飲み込まれ川面から姿を消した。


「――――!!」


 水の中に落とされたイアンとスージー。まるで雪に身体を包み込まれているかのように冷たく寒い。


 イアンもスージーも泳ぎの心得は無い。イアンは何とかスージーの身体を掴んではいたが、やみくもに手足をバタつかせて暴れるスージーを押さえつけることは出来ない。二人の身体はどんどんと川底へと引き寄せられていく。


(スー……ジー……何とか、スージー……だけでもっ)


 耳の奥も鼻の奥も水が入り込んで何本もの針で刺されたように痛む。


 その痛みをこらえて、うっすらと目を開く。暗い――何も見えないほどに暗い。それでも目の前にスージーがいることは分かる。


 今はもう手足をバタつかせていない身体を、イアンはしっかりと掴んでいた。その細い身体を引き寄せて、しっかりと抱き締める。


 イアン自身、全身が凍えて息も続かない。それでもスージーだけでも苦しみから救わなければ――そんな想いからリディーマーの力を行使する。


 周囲の水を全てペインキラーに変えるつもりで、スージーの身体を抱きしめる。


 だがイアンも既に大量の水を飲んでいる状態。肩代わりしたスージーの苦しさも重なって意識が遠のいていくのを感じる。


 このまま冷たく暗い川の底へと沈んでいくのか――消えかかった意識の片隅でそんなことを考えていると、頭の上から光が降り注ぐように思えた。


(あれは……スザンナ?)


 その光は童貞大天使スザンナの形をしているように見えた。バーリンダムのイアンの自室に飾ってあった絵画に描かれた姿そのままに、純白のガウンをまとった天使が舞い降りた。


 リディーマーの魂を運ぶとされる天使が。


(僕の……命も……終わりか……)


 イアンは自分の死が訪れたことを悟った。


 息絶えた自分の魂は神の下へと運ばれ、そして新たなリディーマーを誕生させるため地上へともたらされるのだろう。


 自分が死ぬのは構わない。その代わりスージーだけでも助けてほしい。


 そんな祈りをスザンナへと届けながら、イアンは完全に意識を手放した。

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