3-3

 部屋の隅の暗がり、イスに深く腰掛けた中年の男性がいるのに気が付いた。貸し舟屋の店主ヘリオンだろう。


「あ……ヘリオンさんですか? すみません、舟を……」


 足元のビンを踏まないよう気を付けながらイスへと近づくイアン。そこで店主の様子が異様なことに気が付いた。


 手入れをせずに伸ばしたヒゲ、覇気の無い表情、うつろな目つきはイアンに気が付いてもいない。


 その手にはスネークバイトのビンが握られており、昼から飲んでいたのは明らかだ。


「あの……すみません」


「あ? 誰だ、あんた?」


 間近まで寄って声を掛けると、そこでようやくイアンの訪問に気が付いた様子だ。


 ヘリオンの開いた口からは酒の匂いを帯びた息が吐き出され、思わずむせそうになってしまう。


 ここで気後れしている場合ではないと思い直して交渉に移る。


「バーリンダムから来ました『ヨシュアの木』の僧侶です。リザブールまで行きたいのですが、こちらの舟をお借り出来ないでしょうか?」


 丁寧に用件を伝えるイアンだが、店主ヘリオンの反応は鈍い。


 目の焦点は定まっておらず、半分開けた口からは酒の匂いが漏れ続けている。


 酔っているためイアンの話が理解できていないのかもしれない。そう考えたイアンがもう一度同じ内容を話そうとしたところで、ヘリオンが動きを見せた。


 手に握ったビンから酒を一口飲むと、厄介者を追い払うかのような口調で返事をする。


「俺の舟は全部、貸し出し中だよ。また今度、来るんだな」


 イアンから顔を背け、またビンの中身を口にする。これ以上、話を聞いてはくれなさそうな態度だ。


 貸し出せる舟が無いのであればヘリオンを頼っても仕方がない。もう一度、漁師たちに頼もうか。それとも他に貸し舟屋がいないか探そうか。


 どちらも、すぐに乗せてくれる舟が見つかりそうな予感は無い。こんなところで足止めを食うことになるとは、とイアンは気分が沈むのを感じた。


「……分かりました。他を当たってみます。スージー、行くよ……」


 入口の方へと向き直り、そこにいるであろうスージーに声を掛ける。ところが、そこに黄色のワンピースを着た少女の姿は無い。


「あれっ? スージー?」


 大人しく待っていると思っていたが、いつから姿を消したのか。


 一人で遠くまで行ってしまったとなると、どんな危険があるか分からない。


 イアンの胸に別の不安が渦巻く。建物の外へ出て捜しに行こうとしたところで、奥の方からソプラノの声が響いた。


「イアンくーーん! こっち、こっちー」


「スージー……一人で行ったら危ないよ」


 スージーは建物の奥から外へと繋がった桟橋の上にいた。


 誤って川に落ちたら大変だと、イアンも奥へと向かう。スージーはニコニコと笑いながら、桟橋の先を指差していた。


「ほら、ほらー。お舟あるよ~♪」


「えっ……本当だ」


 ぴょんぴょんと跳ねながら舟を指し示すスージー。舟を求めるイアンの役に立てたのが嬉しいのだろう。


 お手柄ではあるが、はしゃぎ過ぎて桟橋から転落しても困る。スージーの肩を押さえて、ポンポンと頭に手を置く。


(ここの舟は全部、貸し出し中だと言ってたけど……あれはヘリオンさんの舟じゃないのか、それとも貸し出す用の舟じゃないのか)


 どちらにせよ、現実に舟がとめてある。他を当たるよりも、この店で手に入るのであればそれが最も早い。


 どうにかして貸してもらえないだろうかと、一縷の望みをかけてヘリオンの所へと戻る。


「す、すみません……あそこの桟橋にとめてある舟……あれは貸してもらえないのでしょうか?」


 イアンの頼みに、ヘリオンは今度は素早く反応を示した。


「あれはダメだ!」


「ど……どうしても、ダメですか?」


「ダメだ! 息子の舟には乗せられねぇ! あれに乗せたら、また……」


 急に態度を変えたヘリオンが激しい口調でまくし立ててくる。かと思ったら、口を閉ざして頭を抱え込んでしまった。


 桟橋に一艘だけ残されていた舟。その舟についてイアンが話題に出した途端、ヘリオンの様子が変わった。


 ヘリオンは何か問題を抱えている。昼間から酒に溺れているのも、それが原因か。


 ヘリオンが抱える問題が何に起因しているのか。イアンは、ヘリオンが発した言葉の一つが気になっていた。


(息子……と言った。あそこにある舟は、ヘリオンさんの息子の物なのか。その後の『あれに乗せたら、また……』というのは?)


 ヘリオンの様子と言葉の内容から、ただ事ではないことを察する。


 そんな時、黙って立ち去ることが出来ないのがイアンだ。救世主リディーマーとしての使命以上に、イアン・ダウニングという人間としての性質が働いてしまう。


「何かあったのですか? あなたの息子さん……もしかしたら、あそこにある舟に乗って――」


「うぅ……あの舟に乗っちゃいけねぇ。あの日もそうだ……天気が崩れそうだから危ねぇって、俺さえ息子を止めていれば……あいつは死なずにすんだんだ」


 ヘリオンが語る息子の死。半ば覚悟していた言葉を耳にしてイアンの胸がズキリと痛む。


 出会ったばかりのイアンには、ヘリオンの口から断片的に聞いた情報しか分からない。


 ヘリオンの家族は息子しかいなかったのか、他にもいるのか。息子は何歳だったのか。仕事で漁に出たのか、遊びで出掛けたのか。嵐にあって溺れたのだろうか。遺体は帰ってきたのだろうか、それとも水の底に沈んだままなのだろうか。


 詳しい状況は何ひとつ分からない。イアンに分かるのは、息子を失ったヘリオンが今も立ち直れずにいるということだけだ。


 つらい過去を忘れ、現実から逃れるかのように何本も酒ビンを空にして。恐らくそれは今日だけでなく毎日のことなのだろう。


 ヘリオンが置かれた状況を察し、苦悩する姿を目の当たりにしたイアンは自然と両手をかざしていた。手のひらを上に向けた状態で両手をくっ付け、その手をイスに座り込むヘリオンの頭上へと持っていく。

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