3-2
翌日、宿で朝食を済ませると二人はさっそく北への旅を再開した。
昨日の疲れは一晩で吹き飛び、足取りも軽い。ただ、頭上を覆う雲だけが鬱陶しかった。
(煙に包まれたバーリンダムを離れたのに、空は相変わらずの暗さか)
今にも降り出しそうな暗雲は不吉な予感を胸につのらせ、自然と歩く速さも増していく。
二人がマーセイ川に辿り着いたのは、その日の昼前となった。
「ここがマーセイ川か……思った通り、漁師の舟がとめてある」
「じゃあ、さっそくお舟に乗せてもらおー!」
右腕を突き上げてスージーが声を上げる。もちろんイアンもそのつもりでいたが、果たしてすんなり乗せてもらえるだろうか。
漁師の舟は当然、漁に出るためのもの。彼らの生活のためのものだ。
それに川ではなく西の海へと出る漁師もいるだろう。対岸に渡りたいというイアンの頼みを承諾してくれるかどうか。
イアンは近くの漁師に話をしに行く前に周囲の様子を探ってみた。
マーセイ川の川幅は広く、向こう岸まで一キロメートルはありそうだ。イアンもスージーも泳ぎの心得は無い。
人が渡れそうな橋も付近には架かっておらず、やはり舟で渡る以外に方法は無いと思われる。
イアンは覚悟を決め、漁師の一人に声を掛けた。
「すみません、次に漁に出るのはいつでしょうか? 実は、向こう岸へと行きたいのですが……その時に僕たち二人を乗せてはもらえないでしょうか?」
急ぐ身ではあるが、交渉が決裂しないよう慎重に言葉を選ぶ。
声を掛けられた浅黒い肌の漁師は、口をポカンと開けてイアンを見つめる。
「はぁ? 何だ、お前ら?」
「僕は……『ヨシュアの木』から派遣されてきたリディーマーです」
そう言ってイアンは背筋を伸ばす。自分がまとっている「ヨシュアの木」のローブをしっかりと見せつけるかのように。
それと同時に内心では自分を恥じていた。「ヨシュアの木」の身勝手さに憤っておきながら、自分はなお教団の威光に頼ろうとするのかと。教団から派遣されてきたなどとウソまでついて。
「『ヨシュアの木』だぁ? そんな偉い人ら、俺らには関係無ぇな」
「で、ですが……そこを何とかお願いできないでしょうか?」
身分を明かしたことが思ったような成果を上げられず、イアンは焦った。
この漁師は教団の教えを信じる者ではなかったのか、リディーマーという言葉にも特に反応を示さない。
「何の用事か知らねぇが、俺らの舟で勝手はさせられねぇ。おぉ、そうだ! あっちに舟を貸してるヘリオンっていう奴がいる。そいつに聞いてみな」
漁師はイアンの頼みを聞いてはくれなかったが、代わりに有益な情報を教えてくれた。
焦りが生じていたイアンの脳裏に光が見えた気がした。
「ヘリオン、さん……ですね。ありがとうございます」
漁師に礼を述べ、彼が指差した方へと川べりを歩いていく。少しして屋根付きのそれらしい建物が見えた。
建物には看板が掛けられている。機械仕掛けの鳥が描かれた看板には、確かに「貸し舟」の文字が刻まれていた。
「すみません、舟を借りたいのですが……」
ドアを開いて建物の中へと入る。瞬間、イアンは鼻をつく匂いを感じた。
(この匂いは……)
海に近いとはいえ、潮の匂いはまだ漂ってこない。
建物の中を窺ってみると、突き当りの壁が取り払われて桟橋と直結しているのが分かる。
そこから視点を右へと変える。大量のビンが並んだ棚が見える。どのビンもラベルに蛇のマークが描かれている。
それが何を意味するのか。同じマークを背中に持つイアンには、すぐに察しが付いた。
(スネークバイト……『ヨシュアの木』が推奨している酒のビンだ)
スネークバイトはリンゴの発泡酒で、その名前の由来は二千年前にさかのぼる。
ヨシュアの死後に人類に与えられた罰、レトリビューション。その黒い渦は激痛を伴う。いつ頃からか、毒蛇にかまれた痛みがレトリビューションの苦痛を和らげるという話が広まった。
その話に目を付けたのが、発足したばかりの「ヨシュアの木」だった。「ヨシュアの木」は民衆の支持を得るため、蛇を教団のシンボルとし出した。
やがて信者が増えてくると、スネークバイトと名付けた発泡酒を神聖なものとして広めていった。これを飲めば痛み苦しみ、悩みから解き放たれると言って。
実際には蛇の毒にもリンゴの発泡酒にも、痛みを消す効果などは無い。
ただ、リンゴの甘い口当たりからスネークバイトはついつい飲む量が増えてしまう。飲めばその分、酔いも進む。酔っている間は意識も薄れ、痛覚も鈍くなる。それだけの話だ。
(棚に並んでるだけじゃない。床にも空きビンが転がってる。こんなに、たくさん……)
イアンが建物の中に入ってすぐ感じた匂いは、アルコールの発酵した匂いだった。
見ての通り建物の奥は開け放たれている状態。それで、これだけ匂いが残っているということは何本のボトルを空けたのか。
床に転がったビンを数えていくと、人の足が目に入った。
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