第二話 レトリビューション
2-1
レトリビューションを打ち消す効果を持った血の聖水。その在庫が底をついた。
この日は人ひとりの身体を覆うほどのレトリビューションが発生し、それを消すのにジェフは筒三本もの聖水を使用してしまった。
イアンが目撃したのはそれだけだが、どうやら他の場所でもレトリビューションが発生し、別のバプティストが対処に当たったらしい。
今日一日で想定外に血の聖水を消費してしまったのだ。
当然、イアンが帰るまでに
それでもイアンの目の前で繰り広げられる騒ぎを見ると、状況はかんばしくない様子だ。
「今日のところは、もうレトリビューションが起こらないのを祈るしかないなぁ」
オレンジ色の頭をかきながらボヤくジェフに「そうだね」とだけ言って、イアンはその場を後にした。
教団支部に併設された宿舎。ここにイアンが寝起きする個室が設けられている。
自室に戻ったイアンは着ていた紫のローブをロッカーの中にかけて、ベッドに腰を下ろす。
ベッドの脇に備え付けられた電話に目をやり、今日の報告をしなければと思い起こす。
「リディーマー、イアン・ダウニングより報告――」
イアンの部屋の電話は、受話器を上げるだけで「ヨシュアの木」の
いつも相手からの応答は無く、イアンがその日の活動報告を一方的に話すだけだ。
「スミス通りで五歳くらいの女の子が転倒。ヒザをすりむいたため、ペインキラーを使用。その後、アーセナル通りでレトリビューションが発生。バプティスト、ジェフェリー・スティアーが対処」
返事の無い受話器の向こうへ向けて、いつもの通り淡々と活動内容を述べていく。
「ハルフォードにて、入所している少女スージーが右腕を強打。ペインキラーを使用――」
ペインキラー……レトリビューション……イアンの口調は事務的なものだが、口にする度に心の中は騒いでいた。
人類を脅かす神罰――レトリビューションを前にして何も出来ない無力な自分。
救世主として生まれた自分が宿した能力ペインキラーの一時しのぎにしかならないもどかしさ。
それらが突き動かしたのか、リディーマーとしての報告の後に付け足した。
「……それと、既に連絡が入っていると思いますが……バーリンダム支部に保管してある血の聖水が切れました。至急、ご対応をお願いします」
返事は無い。誰か聞いている様子すら無いほどの静けさ。
イアンは黙って受話器を下ろした。
ベッドに腰かけたまま短く息を吐く。それから視線を前へと向ける。
反対側の壁に掛けられた一枚の絵が目に映った。
「童貞大天使スザンナ……僕の母、か」
大き目の額縁に入れられたその絵画には天使の姿が描かれていた。
豊かなブロンドの巻き毛と純白のガウン、手には純潔を示す白百合を持った童貞大天使スザンナ。
二千年前にこの世を去った人類最初のリディーマー、ヨシュア。彼の魂を天へと運んだとされる天使だ。
ヨシュアの魂は数十年に一度スザンナによって再び地上へと運ばれ、その魂は男性と関係を持ったことが無い女性のお腹へと宿される。そうして誕生した子供が新たなるリディーマーとなる。
ヨシュアの魂を受け継いだ子供は、ヨシュアと同じくリディーマーとしての力を持っている。すなわちペインキラーを。
それが「ヨシュアの木」の教えであり、その教えに従ってイアンは三年前に教団へと連れて来られた。
親元から引き離されたイアンはまず、こう教えられた。
『これからは童貞大天使スザンナを母として生きていくのです』
故郷に残してきた母親は、あくまでイアンを育ててきたというだけに過ぎない。
ヨシュアの魂を宿したイアンにとっては、その魂を地上へと運んだスザンナこそが母なのだと。
そのことについて幼いイアンも納得した訳ではない。
しかし
「……スザンナよ、この時代に僕がリディーマーとして生まれた意味が本当にあるのなら……どうか僕が進むべき道を教えてください」
絵の中の天使は慈愛に満ちた眼差しをイアンに向けてはいるが、何も語ってはくれない。
せめて夢の中で道が示されることを祈りながら、イアンは静かに眠りについた。
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