1-5

「ふぅ……何とか消えたか」


 小さな渦の片鱗も残っていないことを確かめて、ジェフが額の汗をぬぐう。


 いかにレトリビューションに対抗する術を持っている身とはいえ、一歩間違えばジェフ自身が黒い渦に取り込まれる恐れもあったのだ。その緊張と恐怖は、計り知れないものであったことだろう。


 ジェフが無事にやり遂げたことで、イアンもホッとため息をつく。


 そこに賛辞の歓声が上がった。


「やったぁ! さすがバプティスト様だ!」


「バプティスト様がレトリビューションを消してくださった……俺たち、助かったんだぁ」


「ありがとうございます、バプティスト様!」


 経過を見守っていた人々は、口々に感謝の言葉を唱える。ジェフをバプティストと呼びながら。


 レトリビューションを消滅させる血の聖水の所持を許されたバプティスト。リディーマーと同じく「ヨシュアの木」に所属する僧侶だが、その任務はリディーマーとも異なる。


 ジェフは、自分をバプティストと呼んで敬う人々をジロリとにらむ。ただでさえ、つり上がった目に迫力が浮かぶ。


 その迫力に圧倒されたのか、称賛を送っていた人々も息を飲む。


 辺りが静まると、ジェフはイアンに近付いてきた。


 ジェフの年齢はイアンより一つ上の十六歳。背もイアンより少し高い。オレンジ色の長髪を後ろで一つに束ねているのが特徴的だ。


「あまり気にすんなよ。みんな、気持ちが高ぶってただけさ」


「うん……分かってるよ」


 イアンの肩に手を置きながら、ジェフが優しく声を掛ける。つり上がった目にも、元の愛敬が浮かんでいる。


 バーリンダムの住民たちがイアンを偽善者と呼んだことについて、イアンが気に病んでいると思ったのだろう。


 同じ「ヨシュアの木」の一員というだけでなく、同年代であり親友の間柄でもあるジェフならではの気遣いだ。


 イアンはその気遣いをありがたく思いながらも、やはり悩まずにはいられなかった。


(僕にはレトリビューションを消すことは出来なかった。救世主と呼ばれながら、僕に出来るのは誰かの痛みを背負うことだけ。人々を襲う真の脅威――レトリビューションから救えるのは、僕じゃないんだ)


 ジェフのことは心から親友だと思っている。その一方で、時折うらやましく思う。自分もジェフたちバプティストと同じように血の聖水を扱えたらと。


「血の聖水も切れた。俺は支部アビーに戻る。お前も根を詰めすぎるなよ」


「うん……ありがとう」


 ジェフは立ち去り、街の人々も元の生活へと戻っていく。


 倒れていた人物はやはり息絶えていたようで、荷車に乗せて運ばれていった。


 騒ぎも完全に治まり、イアンは腰に回されたままの腕にそっと手を添える。


「あの……スージー?」


「ダメなのぉ……イアンくん、行っちゃダメぇ……」


「大丈夫。もう終わったから」


「ふぇ……?」


 スージーはイアンを引き止めるのに必死で、状況の理解が追い付いていなかったらしい。


 力をゆるめたスージーの腕を優しく振りほどく。後ろに向き直ると、そこに見慣れたスージーの姿を確かめる。


 いつもの黄色いワンピース。ワンレングスにした銀色の美しい髪。頭頂部の一本だけ跳ねた髪の毛が、くるりと輪の形を作っているのもいつも通りだ。


 その中でいつもと様子が異なるのが、伸ばした前髪の向こうに透けて見える瞳。


 宝石のような輝きで見る者の心を奪うスージーの両目が、今は涙で真っ赤になっている。


 その涙も悲しみで歪ませた表情も見たくないと、イアンはスージーに優しく声を掛ける。


「大丈夫……もう危ないことは無いよ」


「ふぇぇ……イアンくぅん……」


 安心したのか、大きな瞳からまた涙がこぼれ落ちる。イアンは、それを指先で優しく拭う。


 スージーの正確な年齢はイアンも知らない。十五歳のイアンよりも少し年下といったところだが、その心根は幼子のように純真で無垢だ。


 心配で表情を曇らせ目に涙を浮かべるよりも、花のように明るく笑っている方がよく似合う。


 自分の無事な様子を見せようと、イアンはスージーに顔を近づけて微笑みを浮かべる。イアンより頭ひとつ分背の低いスージーのために、少し身をかがめながら。


「ほらね? 何ともないでしょ?」


「だいじょうぶ……? ホントに大丈夫? イアンくん、どこも痛くない?」


「うん。スージーが止めてくれたおかげだよ」


 スージーの柔らかな髪を撫でて感謝を口にする。


 イアンの無事が確認できたからか、それとも褒められた喜びからか。スージーはニッコリと微笑んだ。

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