第8話 女學生仲間の卒業洋行③ マストロール事変

 壱等客席ファーストクラスの搭乗者の待合は、壱等いっとうの高級ラウンジ。

 せっかくだからと、3人はシャンパンを頼んで乾杯をする。

 十日間に及んだ欧州洋行を楽しく無事に過ごせたことをまずは祝して。

 

「旅の終わりは、香港観光、になるのよねぇ」


 ラウンジにあった"quattro imperi asiatici"(東亜四帝國)向けの観光ガイドを手に戻ってきた沙織さおりが呟く。

 

「みんなでアジア象に乗っての記念写真はまたの機会になったねぇ。無念ムネン」

 希美のぞみが、肩をすくめながらムネンムネンと言う。

 イタリアの軟派男の誘いを断った時に何度か目にした、 mamma miaなんてこった母ちゃんのポーズを真似たのかもしれない。


「ま、代わりに、中華料理でも食べながらピース写真を撮ろうよ」

 と、夏目が引き取った。



 チェックインの際、帰りの便の経由地がタイ王國のバンコクから福建帝國の香港へと変更となったと伝えられた。


「アンコールワットのこともバンコクのことも、最近ニュースはないのにね」

 ラウンジのテレビで流れる英語ニュースに視線を向け、希美のぞみが名残惜しげに呟く。


 仏領インドシナ南部、クメール自治領のマストロール事変。

 導力源不明の土人形が次々と生じ歩き出す怪奇現象。


 土人形が投げた投石で近くの街に被害が出たなどの報告があったものの、当初は似非祈祷師あたりが流したデマなどと考えられていた。

 が、近隣の史跡観光地アンコールワットへの危害が予防するために外人部隊を投入する、とフランス政府の発表して以降、排除対象とされた土人形の部隊内での呼称、トロールの名と共に、当地の事変は有名となった。


 部隊の投入により、アンコールワットへの被害はこれまで防がれてはいる。

 が、発生する土人形の数はさらに増えているという。

 先月には國境を越え始めたトロールを破壊するために、タイ國軍が投入されたとも報道されていた。

 

 その時、Suvarnabhumi Airportとの名がテレビで流れた。

 3人が向かうはずだった、バンコクの國際空港空港だ。


 空港のラウンジの映像には、タイ國軍と思しき制服姿が多数映し出されていた。

 そこに、旭日旗を掲げ隊列を組んで行進する別の一団が現れた。

 

「うわぁ。これ、血盟義勇軍だよね」

「ほんとにタイに入ったんだぁ」

 希美のぞみ沙織さおりの呆れ声。

 

 成田浜空港を飛び立つ前、「血盟義勇軍有志、タイ國に支援活動を申し入れ」との新聞に、記事があった。

 宗教法人としての登録名義は、大日本帝國血盟義勇軍。

 帝國や軍の中を冠してはいるが、陸海空の帝國三軍とは無関係。

 東郷系の右翼団体と新日蓮宗出自の僧侶が作った宗教団体である。


 血盟義勇軍に入った者は、僧籍者として剃髪しつつも救國活動のためと前世紀の陸軍士官學校風の制服を身につけている。


 血盟義勇軍を危険思想団体と見る向きは多いものの、現政権の閣僚にも血盟義勇軍の支援者はいるらしく、当局の規制は入っていない。


 國際ニュースに映し出された、血盟義勇軍の制服姿をポカンと眺めている二人に向け、春から法學徒となる希美のぞみが、帝國憲法の有名な条文を諳んじる。


「日本臣民ハ共同ノ福祉ニ反セヌ限リ、思想及信仰ノ自由ヲ有ス、ね」


 大日本帝國憲法第29条ノ2。

 昭和の改正大日本帝國憲法において盛り込まれた、臣民に思想の自由、信仰の自由を保障する条文。

 いわゆるフルシチョフ=毛沢東合作でソミンが誕生した頃に、満州防衛のため米帝との反共同盟を結ぶにあたっての必要からなされた、上からの憲法改正、と教科書に記されたりもする。


 しかし、時は昭和の大天災以降の人心擾乱期。

 既に多くの新興宗教が世に広がっているいたことを追認したものとも言われる。

 以来、百年余で、帝國内に様々な宗教団体が誕生してきた。その中にはカルト化し、殉教事件、テロル事件などを引き起こす団体がいくつもあった。


 特に、救國思想・愛國思想を掲げる団体ほど危うい。

 数々の血なまぐさい事件の発端が、思想・信仰の自由が憲法上認められたことにあると考える向きは多い。


 本条文への蔑称べっしょうに、思想・信仰の自由は死屍累々ししるいるいのシ・シ条文、というものまである。

 

 キナ臭い制服姿を目にすると、卒業洋行の浮かれ気分はしぼんでしまう。

 ニュースは、ゾウと象使いの行列を映し出して終わった。

 國境を越えようとしているトロールからの被害を警戒してのことだろう。


 旅の終わりのバンコク滞在では、ゾウを背に3人で祈念写真を撮る予定だった。

 千葉の一女で3年間を共に過ごした3人が、東京市で医學生となる夏目、樺太は豊原市の帝大に進む沙織さおり、満州は新京市の帝大に進む希美のぞみ、と春からは満州=本州=樺太に離れ離れになる。


 奇しくも晩年の石原莞爾いしはらかんじ翁の國體こくたい護持のV字ラインに分かれることになったのだから、とやたら帝國史に詳しい沙織さおりがかこつけて、仏教平和のシンボルであるゾウたちと共に、平和を祈念のピースサインを3人でキメようと予定していたのだ。

 

「まぁ、ああいう右の方の救國思想の人もいるのよね」

「私たちは帝大に入ったら女権主義思想者め、な~んて言われそうね」

「私だって、町に診察に出るようになったら、きっと女医者おんないしゃが出しゃばって、なんて言われるようになるんだよ」

 春からの帝大生活を危ぶむ風の二人を慰めようとか、夏目が言った。

 

「ほんと、それ。私が弁護士になったら女弁士おんなべんしが生意気な、沙織さおりが美學教師になったら女教師おんなきょうしがハレンチな、な~んて言われるんだよね」

「私はハレンチな本を読むだけですぅ」

「世間様からしたら、少年同志愛チコカマ・アモール漫画を読んでる、腐突フツツカ女はハレンチなんですぅ」

「思想及ビ信仰ノ自由、で、す、の」



 高女エリートとして自由闊達に過ごした女學生時代も間もなく終わり。


 血盟義勇軍などの右翼宗教カルトには帝大生も多いと聞く。

 はじめての女子の帝大入學は、仙臺せんだいの東北帝大。

 遥か昔の百数十年前の出来事だ。

 けれども、どこの帝大も未だに男尊女卑の風は強い。

 

 自分たちではなく右翼のカルト団体がバンコクに入る不条理を、男尊女卑な世間のためとかこつけ、3人は成田浜空港行きの便の搭乗ゲートへと進んだ。



 着席するまでは「ほんと、マストロールってなになんだろうね。黒魔術か闇陰陽術?」などと多少続きの話は出たものの、機の壱等客席ファーストクラスの最後列を3人で占めるなり、気分は切り替わっていく。


 何しろ、自分たちの稼ぎでは当面座ることは叶わない、フルリクライニングの上質なソファ席。


 また、紳士然とした執事スチュワードが給仕に廻ってくれるのも壱等客席ファーストクラスならでは。

 離陸後に執事スチュワードが注いでくれたシャンパンを乾杯する頃には、二十歳の三人娘には一夜限りのお嬢様気分が戻っていた。

 

 席は、希美のぞみ沙織さおりが両脇で、真ん中が夏目。

 

「それで、ハトコの悠宇ゆう君だったかしら?」

 と、夏目に話しかけた希美のぞみが口角をニッと上げる。

 

「ぁ、夏目のストリッパー事変だね」

 先ほどはロクに聞いていなかった沙織さおりが話を拡大解釈して乗ってくる。

 

「そんな事変じゃありまへん~」

 そう返しつつも、夏目はシャンパンのほろ酔いに任せ、楽しいネタとして話しだす。

 

 (三人でお馬鹿話をする機会もあと何日か……だもんね)

 


 夏目の合格祝いパーティーの日。

 悠宇ゆうは母に連れられ元気娘の妹御と共に参加していた。

 他にお目出度い話はないかと探していた本家の伯母様が、悠宇ゆうが代表として文武省主催の絵画コンテストに出ることになったと聞きつけたらしい。

 夏目の合格報告を皆が拍手で祝った後、彼は他の親族の子たちと共に壇に上がった。


 その後、いとこはとこを囲む歓談で、夏目が洋行する間、夏目の勉強部屋で悠宇ゆうが画筆をふるうのはどう、との話が出た。

 言い出したのは、雪下会館のオーナーである伯母様。

 当然、夏目の私物を会館の方で預かるなんてこともお手の物。


 どうせ、3月には、東京市大森の女子医専の寮へと医學書などは送ることになるわけで。

 姑との仲で悩んでいた悠宇ゆうの母が、夏目の母と、いとこ同士の縁での長屋暮らし。

 そのため、小學生の間、夏目は、5歳下の悠宇ゆうと年の離れた姉弟のように過ごした。野田の女學校に進んでからは縁が薄れ、合うこともなくなっていたが。


 伯母様の根回しにあえて逆らうような話でもなく、思わぬ縁を夏目は苦笑しながら受けた。


 離れの部屋に悠宇ゆうを迎えた日のことの段になると、夏目の話のペースが落ちた。

 

「すると、その悠宇ゆう君が屋根裏部屋にいらっしゃった日が?!」

「わたしたちが、成田浜空港に集合、という日だったのね」


 それでも、両脇の希美のぞみ沙織さおりは二人で合いの手を入れて楽しそう。ハトコ同士だと結婚だってできるわけでなどと、勝手に脱線していく。


 ……そして、絵描きを目指す悠宇ゆうの前で、夏目は服を脱いだ……とのくだりだけでは、両隣の級友は満足してくれなかった。


「その時の内面を、思いを、話してよぅ」

 二人は責められる。


 けれども、夏目は肝心なところは遂に話せなかった。

 話し難い、話。



 ✧


 夏目が悠宇ゆう共に過ごした最初の1年。

 三歳になる前、悠宇ゆうは双子の妹である由貴ゆきと共に過ごしていた。

 夏目は幼い由貴ゆきを覚えててる。

 悠宇ゆうには、由貴ゆきの記憶はない。


 けれども、悠宇ゆうには過去を見て過ごしている風があった。

 悠宇ゆう由貴ゆきのことを話すことを今なお禁じられていることが、夏目は心苦しかった。


 悠宇ゆうは、ラフスケッチであっても夏目の裸体画を描いてくれているのだろう。陰陽なしの裸体を。


 千葉に戻ったら悠宇ゆうに連絡してみよう。

 そう思い、夏目は目を瞑った。

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