第10話
その後、気分が悪くなった私は、ウィルクス家を出て、ミーハン家まで戻ることにした。また、マーガレットが付き添ってくる。
パーティー中は、外で警備をしていたそうだ。
「まあ、わたしはただの家庭教師ですから、不審者が魔法に明るくないことを祈りますが……」
「マーガリン、黙って。きもい」
「えっ」
口を手で覆い、息と一緒に胃の中身を吐かないよう努める。
一瞬だった。果汁の甘みや苦みは、ほんの一瞬、舌を楽しませるだけで、すぐに消えてしまう。あとに残るのは、上昇させられた体温と、飲み物らしからぬ満腹感だ。
口も胃も、中身が詰まったように閉塞感を訴えている。
解放されるには吐露しかないのだと、言わんばかりに。
「フー……フー……」
「よろしければ、お背中を」
「擦らなくていい。黙ってて」
前世では、未成年のまま死んで、法を破ってまで、酒を口にしたことはなかった。だから、完全に聞きかじりの話になるけれど、女性は男性に比べて、アルコール処理能力が低いのだから、今の私は、前世より酒に強いはずだ。
相対的には強くても、絶対的には強くないということだろうか。
免疫がない……生き物として弱い。人として弱い。
駄目だ。
「うっ」
手に粘液の感触を覚え、喉を逆方向に動かす。内側に戻るように、ゴクゴクと、何度も飲む。
苦くて苦しくて辛いけれど、放出しなかった。捨てられなかった。果汁臭い呼吸のうちに、私は言葉を失った。
ところで、異世界でも現実世界でも、宗教は存在するものだが、この国で信じられる神は、“最も野蛮な者”だけではない。
ここは多神教が主流だ。
キリスト教で言うところの悪魔のような、必要悪はいない。
偶発的な悪は存在するけれど。
「それは神ではない、それは人モドキで、天を侵した……あ、天を侵した人モドキか」
意味上の主語を手早く書け、とツッコミつつ、教典に目を通す。
パーティーの翌日、私はミーハン家の書斎に来て、調べ物をしていた。
この国の宗教は、初日に履修済みだ。しかし、あらましを把握しただけで、細かいところは覚えていない。
“最も野蛮な者”の前で婚約をするという、実質人間だけが集まった儀式に関して、経緯が知りたかった。
教典に、人生の節目で彼を意識しろとでも書いてあったのだろうか。それとも、意識しなければならないと思わせる、何かしらの記述があったのか。
神によって夫婦は出会ったのです、とかね。
「激痛で地震起こしてそうだけど、邪魔する余地はあるよね……」
“天上を侵す者”は、神の役目を妨げるキャラクターだから、婚約の話から逸れてはいない。
彼に隠れるように儀式をするとか、そんな記述があってもいいはず。まあ、本当は教典が分厚すぎて、ちゃんと読んでられないだけだけど。
“天上を侵す者”は、姿形は人間と同じだが、巨人のようだ。呼び名の由来は、神話内で神々の暮らす天界を混乱に陥れたことと、背の高さそのものが関係している。大局的にも、物理的にも、空を侵犯する巨人なのだ。
教典の他に、その神話を全編絵にした児童書もあり、手に取ってみた。婚約のことを調べたかったのに、何をしているのかという話だが。
巨人の絵は異質だった。
多くの神が一枚でも布を身体に巻いた状態で絵に起こされているのに対し、“天上を侵す者”は完全な裸身で、雲や森、建物などで全体像が隠されていた。絵の横には、「森は彼の靴にもならず、雲は口髭どころかパン
とにかく、巨大なすっぽんぽんということだ。
そんなスケールの大きい公然わいせつ犯が、なぜ神話のトリックスターとされているのか、目を皿にして読んでみたけれど、何も分からない。
“天上を侵す者”は、巨体の割に頭が悪く、神の言葉が通じないと書かれている。そのサイズのために、顔の全体像すら俯瞰するのは容易ではないそうで、表情の分からない者とも呼ばれている。
他にも、声の大きい者、喉から地響きを起こす者など、巨体ゆえに一挙手一投足が把握できないことを表した呼び名があるようだ。
ただ、“天上を侵す者”の持つ沢山の呼び名の中から、私が注意を引かれたのは、
「針……?」
剣を針にする者、針を操る者、手先の器用な者、針で遊ぶ者。なぜか、野生的な彼にしては珍しい呼び名が乱立している。全裸の男が、火を扱うほどの知恵を養う前に、針を使うだろうか。
不思議に思って、本に釘付けになっていると、
「オーウェン様!!」
書斎に召使いが入ってきた。息を切らして、急用のようだ。
「何?」
「ヴェロニカ様が……」
「ヴェロニカ?」
姿勢を正して、召使いは言い直す。
「ヴェロニカ・ブリアナ・ウィルクス様がお見えになりました。オーウェン様をお待ちです。すぐに応接室へ」
はあ?
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