第9話

 婚約者の弟に会ったのだから、オーウェンの身辺調査は進展すると思った。


 だが、ノアは私の言う物忘れゲームを夢遊病者の妄言と受け取っているのか、


「オーウェン様、そのようなご冗談はおやめください」


 と繰り返し、ただの質問も、ゲーム繋がりと分かればそのように跳ね除けられてしまうのだった。


 こんなに話が進まないことは初めてかもしれない。来世がカルビに違いない男から、記憶喪失を信じてもらえなかったばかりだけれど――すぐに真逆のパターンと遭遇するとは。

 あれが兄で、こっちは義弟だし。


「どうして冗談だって思うの? 私はあなたの名前、知らないから聞いたんだけど」

「ワタシ如きの名前は覚えていらっしゃらなくても無理はございません。しかし、ジャクリーンとアナタは“最も野蛮な者”の前で、婚姻を誓っていらっしゃったではございませんか」


 吹き出しそうになった。

 引用符に囲まれた抽象的な名詞は、この国の主神、日本で言うところの天照大神と同じポジションの存在である。戦いや気象現象、その他諸々を司る神で、婚約の際はこの名前を口にするのだ。

 誰の判断で、「最も」などと呼んでいるのか。滑稽である。


「そうだね、誓ったね」

「はい。ですから、お忘れになったなどと、仰らないでいただきたいのです」


 日食もくやというような、白目のはっきりした視線を投げかけてくるノア。

 私は、食われていない月を眺めつつ、


「神が聞いてるって言いたいんだ」

「周知のことだと思われます」

「そ」


 “最も野蛮な者”は、私の言葉を聞いているという。聞きたい相手は、彼ではない。他人の神を信じる行為には、飽き飽きしていた。

 くだらない。つまらない。


 目が月に逃げた。逃げていない瞬間なんてないのでは、と思う。


 それから、私はノアに無駄話を振った。手にしていたグラスを五回は空にし、喉を酒で温める。この上、もっぱら話すのは私ばかりで、舌がすぐに乾いてしまって、リムと口が友達になってしまった。


「勘弁してほしいよ。偉いのかかっこいいのか知らないけど、私とばっか踊りたがってさ。人の迷惑考えろよ、見てきたでしょ、沢山踊って疲れてんだって」

「左様ですか。オーウェン様は、大変美丈夫でいらっしゃいますからね」

「近くで顔見なくてもいいでしょ。遠くで勝手に見てりゃいいの」

「お目見えする機会が少ないものですから」

「希少性だけなんだ」


 浅い言葉でノアのフォローを蹴散らすと、グラスに手を伸ばした。一気に口内へ傾け、果物臭い熱を食道に追いやる。

 口に充満を覚え、もたつく歯と舌。さて、どう言い返そうかと思案した矢先、目を伏せて、唇を軽く噛みつつ、


「―――違いますね」


 と、ノア。反射的に、は? と聞き返すが、返事はない。


 代わりに、口笛のような夜風が間を通り抜けた。凝然ぎょうぜんと固定された瞳。ほんの数ミリ、頬を揺れる黒い糸。閉じた門扉もんぴは薄赤く、言葉に表せない複雑な思考が、展開されているようだ。


 深読みだけど。


 五秒だったか十秒だったか、沈黙したのち、彼は、


「オーウェン様」

「なに?」


 下がる黒頭。


「改めて、不肖の姉がご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした。アナタがそれほど変わられたのは、ジャクリーンの不徳の致すところです。姉に代わり、深くお詫び申し上げます」

「ああ、そう……別に、」


 ジャクリーンのせいじゃない。違う人間がオーウェンの肉体を使っているのだから、変わったのではなく、別人そのものなのだ。


「いや、いい。ありがとう……謝ってくれて」

「はい」


 私はまた、グラスに手を伸ばした。

 軽かったけど。

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