第8話
それから一時間ほど、私は、オーウェンと踊りたがる女たちの相手をした。
唇お化けは、ジャクリーンが胎児の頃を知るほどの年齢だ。それより若い女と踊るにあたり、初心者の私と合わせて、無様なダンスを披露してしまったことは、言うまでもない。
どうぞ幻滅してくれ。私は女だから、女と踊りたくはならない。
もう、いいだろう。広間を見渡すと、踊りをすることなく、ワイン片手に駄弁っている男性も多い。
私は、疲れたと言って女たちから離れ、会場をぶらついた。
引き寄せられるように、バルコニーに向かう。
人が十人横並びにできそうな幅の柵が、外へ丸く出っ張った形に仕立てられている。柵に肘を置き、半身を乗り出して、私は空を仰いだ。
星が見たいのではない。月も見たくない。
ただ、逃げたくてここにいる。
こんなことを言ったら、自殺者と向き合ってきた全人類に絞め殺されてしまうけれど、自殺は逃げだ。少なくとも、私の場合は。
自分を嫌っていては、生きていられない。だったら死ね、と思って縄を買った。
これ以上の逃げ場は用意されないと思っていたのに、現実に、私は別の人間として生きていた。
柵にカタツムリを見つける。殻を突き、デコピンの形で追い払おうとするが、粘液で柵にしがみついているのか、視界から消すことができなかった。
考えるのをやめて、私は目を閉じる。
ひんやりとした夜風が睡魔の
「オーウェン様!」
ゴーシュが弾いていたアレを思わせる、低く落ち着いた声が、睡魔を打倒した。
目を開く。
緑の芝生が真下に広がっていた。それ自体は、バルコニーから庭を見下ろした景色に過ぎず、異様ではない。
しかし、肩だけ後ずさり状態になっているのは、そこに置かれた岩のせいだ。
姿勢を戻して、振り向く。
見覚えのある黒頭が、
「ここではお休みにならないほうが」
と、手を離した。
髪とお揃いの目が、凹凸で陰っている。口は横長で、愛想笑いのしやすそうな造形だった。
門前では距離があったため、再確認。
「誰?」
「ノアです」
「苗字まで」
「ノア・アシュリー・セルウィンです。……お変わりなく、と申し上げたいところですが、事実と違うことは口にできませんね」
苦笑するこの男も、やはりオーウェンの知人らしい。門前でお辞儀をしただけでは、客人として当たり前の行為に過ぎず、接点がないように思えたが、あったのか。接点。
あれ、なんだっけ、家名。セルウィン?
「その事実っていうのは、誰からどう……」
「いえ、お気になさらず。ご自愛ください、と申し伝えたかったのです」
「それはそうだけど、何、言いたかったかじゃなくて、何を聞いたのかって」
「ここで申し上げるほどのことではございませんよ」
「じゃあどこで言うの」
ノアは少し目を大きくして、口元に手を当てた後、
「……医者の前で?」
「当たり前だよ。元気じゃないならね」
「ええ」
困ったように眉を曲げたのだった。
この人はつまらないかもしれない。
私が聞きたいのはオーウェンを取り巻く風説であり、人から受けた体調不良の指摘ではない。言葉尻を捉えて、履き違えた返答をしないでほしい。
医者ってのも、ストレートすぎるし。
「会うの久しぶりなんだっけ。あなたは元気そうだね」
「? 数時間前にミーハン家に参りましたが」
「それより前は会ってなかった気ぃするんだけど」
「いえ、お会いしました。三日前、リリーホワイト様のお屋敷で」
それは元学生の立場からすると、久しぶりに会ったようなものである。転生を自覚したのは昨日だから、余計にそれらしい芝居ができなかった。
演じる必要があるかどうかも分からないけれど。
「そう……」
「あ、ひょっとして、オーウェン様は、物忘れゲームの一環として、質問していらっしゃったんですか?」
「え?」
「ラザフォード様からお聞きしました。日頃の疲れを紛らわすために、胎児から現在までの記憶を忘れたという筋書きで、遊んでいらっしゃると」
「誰、その人」
「アナタと最初に踊っていらっしゃった女性ですよ」
あの唇お化けか。
胎児ってなんだ、そんなに引きずるギャグか。好感度が順調に下げられたようで、安心はするけれど。
こんな美青年と踊りたがる「お姉さん」なんて、ろくなもんじゃないしね。
「知ってたのか。何も言わなかったくせに」
「それは……今のオーウェン様を見れば、便乗しかねる遊びですから」
首を傾げると、ノアは少し顔を下げて、
「ジャクリーンがご迷惑を働き、申し訳ございません」
と、身内に代わって謝罪するのみだった。
姉なのだそうだ。
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