第6話

「しかしまあ、元気そうで安心した。リリウムに滋養強壮の効力があることは疑う余地もない。出ていったときより、幾分顔色が良いぞ」

「リリウム?」

「リリーホワイト君のことだ」


 その言い方はやめた方がいいと思う。ハロルドって名前があるんだし、あまり花の名前が似合う人ではない。


「リリウムってより、土じゃあ……」

「なぜ?」

「寝床を提供してくれるから」

「ふむ。冗談のセンスが落ちたな、オーウェン」

「上手かったんですか?」

「それはまあ。出ていく前のお前なら、……あー。なんというかな?」

「知りません。思い出せないです」


 またまた、と手を振って笑う鱈子。まだ二十代後半くらいに見えるが、その仕草はおっさん臭い。

 若々しくないなら、せめてダンディであってほしいものだ。


「そうだ。今夜、ウィルクス家でパーティーを開く。お前も来なさい」

「兄様の知り合いですか? その、ウィルクスというのは」

「私の婚約者だ。冗談を引っ張るんじゃない」


 すみません、ととりあえず謝る。物忘れゲームと言っておいたほうがマシだったわけね。


 遊びすぎないように、恥をかかないようにと、歳――十代後半はもう大人だ――に不相応な忠告を繰り返したのち、私はようやく、カルヴィンから解放されたのだった。

 ンがなければ、お似合いの名前だと思う。


 それから実家を歩き回って、オーウェンの人物像を掴もうと思ったけれど、使用人は私と話す気がなく、父と長兄は仕事で遠出、焼いたらン無しは読書中。弟妹のそばにはマーガレットがいるだろうから、見に行くのが憚られて、私は足を止めた。


 屋敷の門前に、男が一人いる。

 敷地の外から奉公人を伴って、馬車を背に立っていた。これから敷地を出るのか、黒いつむじを見せ、緩慢に頭の位置を戻してしまう。うちの使用人がお辞儀を返すと、黒頭は馬車のドアに隠れ―――


 なかった。

 ひらひら、男が手を振ってきた。オーウェンと知り合いなのだろう。他人事のような気持ちで、私は彼を観察していた。


 見たからって、何かが分かるわけでもない。ただ、私が出たあとのミーハン家は豚小屋なのだろう、と思った。

 感想なので、なんかそういうデータはない。


 その調子で夜まで屋敷を彷徨こうとしていたら、夕方、授業を切り上げたマーガレットが庭で話しかけてきた。


 早朝より、多少、様子が異なっている。


 彼女の黒いローブは、れて、何箇所か、水でも被ったように色が濃くなっていた。髪は初対面の時から変わらず、団子に結われているが、纏めきれずに余った毛が団子の形を崩してしまっていた。

 丸めたティッシュみたいだ。いや……


「マーガリンかな」

「リン……?」

「生臭くて脂っぽいからさ。あー……マーガリンが作られたのは近代だっけ。通じないか」

「えっと……」

「まあ、いいや。今日からあなた、マーガリンね」


 彼女は、眉を寄せて、消え入りそうな声で、


「なぜですか……」

 と問う。


 それこそ、私が振りたい質問である。

 どうして彼女は、いちいち臆病なのだろう。俯いたり聞き取れない声で話したり、すぐに落ち込んだり。そんなんだから、家庭教師の仕事がまともに務まらないのだ。

 言い含めるように、雑言を加える。


「名前を呼びたくならないから。一日中護衛だなんだってくっついてきて、動きにくいよ」

「それと名前とは関係ないんじゃ……」

「あなたは、蚊が自分の周りを飛んでたら、名前を呼ぶの? 善人通り越して、あたおかだね」


 というのは、言葉の意味であって、あたおかの四文字がこの世界に存在しているわけではない。


 勢いに任せて、口を動かす。


「見栄も張れない馬鹿とは関わりたくないの。張らなくていい相手だとも、思わないでね」


 言い切ると、私は早足で屋敷の中に戻った。背中に執拗な視線を感じたけれど、振り返ろうとは思わない。


 被害者の立場に甘んじる人間は、軽蔑に値する。いや、被害だけではない。理不尽や力不足や不幸を前に、プライドを保てない人間が嫌いなのだ。

 私がそういう人間だから。いっぱい自分を嫌って、生きていく気力を失ったから。


 乱れた恰好は整えればいい。目からの塩分は、ただの汚物だ。髪は女の命なのだから、どんな目に遭っても、きちんと結い直すべきだろう。


 それだけのことができる人間に会えなかった時点で、この転生ガチャは失敗だ。

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