第5話

 翌朝、私は自分の身辺調査のために、朝食が終わり次第、出かけることにした。それを聞いたハロルドは、


「そうか。まあ、楽しむといいよ。物忘れゲーム」

「そうだね」


 ゲームじゃないから、楽しむ余裕とかないんだけどな。


「君も、本業に戻ることを考えなさい」

「はい。準備が整い次第、そうするおつもりです」


 マーガレットの本業とは、家庭教師の仕事だ。この場合、私か、私の弟妹、エリスとゾーイに魔法を教えてやらなければならない。

 婚約者と喧嘩して、友人宅に身を寄せる私に、付き合っている暇はないのだ。


「準備って何?」


 ミーハン家までの道のりを、馬車に揺られつつ、尋ねる。


「へ? えーと……オーウェン様の回復を待って、という意味ですが」

「私の回復なんて、別にいいよ。言ったでしょ、物忘れゲームしてるって。自分の名前も家のことも、婚約者のことも忘れた人間に、心労なんてある? 心労を引きずってたら、ゲームは成立してないよ」


 でも……、と納得しない様子を見せるマーガレット。

 長い睫毛が瞼に合わせて、思わしげに揺れる。私が男だったら愛らしさを覚える挙動だったかもしれないが、男なのは身体だけだ。

 心が惹かれない。


「教えてやりなよ、魔法。仕事しないと、生きてけないよ」

「はい……」


 ミーハン家に着くと、マーガレットは弟妹のところへ魔法を教えに行った。その直前、ちらちらと私を気にかけるように見ていたが、シッシッとゼスチャーを見せるとすぐに引っ込む。

 顔で伝わった可能性もあるな。異世界どころか、異国でも、ジェスチャーの意味は食い違うものだし。


 私はこの家の子供だから、当然、最初から実家をぷらぷらするわけにもいかず、エプロンドレスのおばちゃんに道を案内されていた。リリーホワイト邸からここまで、数時間の間に、私が来る旨が伝えられていたそうだ。


 呼んでいるのは、次男のカルヴィンという。

 日中から弟のお出迎え……仕事がないのだろうか? 夜に仕事があるとか?


 ドアが開けられ、私は書斎のような部屋に踏み入った。学校の教室くらいの、それほど広くない部屋に本棚が並べられ、床に本が積み上げられている部屋だ。その中央で、椅子に腰を掛け、口元に手を当てながら読書する男がいた。


 目元が私と似ているが、他は参考にならないほど違いすぎている。

 お腹が張ったずんぐりむっくりで、手は赤子のものを脂肪のバランスだけ維持したまま、成人用に膨張させたかのようである。頬肉は、てかっと脂ぎっており、光沢のある鶏肉に見えた。


「何の用であらせられますか、兄様」

「? 変なものでも食べたか?」

「いえ、ちょっと分からなくて」


 前世の性別が女であったことも関係しているが、この世界観では、家族間の距離もまた、現代日本と違うかもしれない。

 距離を取るつもりで敬語表現を過剰にしてみたが……違うのかなあ。


「私はなんで呼ばれたんですか」

「呼ばれたくなかったのか?」

「ここには調べものに帰ってきたんですよ。終わったら、引き上げるつもりです」

「そうか」


 ビッグベベな手で顎を掻きつつ、彼は話す。


「オーウェン、その……調子はどうだ。元気か」

「元気ですよ、身体だけは。ただ、それ以外の調子が良くありません」

「それ以外? なんだ、言ってみろ」


 家族に嘘をつくのは良くない。だから、私は額に手を当て、それらしい動作を加えつつ、


「………頭が……ちょっと、生まれてから昨日までの記憶が無くなってしまいまして」


 と、病人アピールをすることにした。


 本当は、病気が原因かどうか分からない。身も蓋もないことを言うと、転生の自覚とは単なる妄想ではないかとさえ思っている。ただし、自分で自分の身辺を把握できていない以上、病気のような強制力を以て、記憶が喪失していることは間違いない。


 間違っても、演技の類ではないのだ。

 病人を装ったほうが、深刻さも伝わる。物忘れゲームなんてあからさまな嘘は、ここではやめておこう。

 しかし。


「オーウェン。そんな嘘はやめなさい。その程度で私の同情は買えんよ」

「嘘?」


 ふふ、と分厚い唇を震わせて、笑うカルヴィン。


「だってお前、あれだけ好き勝手して、物忘れなんてしやしないだろ。昔の女くらいなら忘れても仕方ないもんだが、流石に自分の名前なんぞ……」

「いえ、本当です。本当に忘れてるんです」

「よせよせ。そんな冗談、娼婦でも笑わんよ。はははっ」


 笑ってるじゃん。いや、嘲笑されただけだけど。


 カルヴィンは、私が言葉を尽くしても、記憶喪失を信じることはなく、巨体を揺らして、誤魔化すように笑い続けた。


 重い頬肉に挟まれて、口元が緩むのを見て、彼はビッグベベではなく鱈子たらこだなと思った。よく見たら顔が天狗みたいに赤いし。殴ったら案外頑丈で、こちらのほうが体力を切らすかもしれない。


 言葉が届かないのだ。拳を届かせる妄想は虚しいだけだった。

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