第24話 俺の人生プロローグは終わったのかもしれない。これは共同生活なんだ。同棲ではない……はずだ。……たぶん ACT3
広い部屋の中にたくさんの書物が並んだ本棚と、大きな窓を背にし、その机に向かうおばあ様の姿が目に飛び込んでくる。
「ご無沙汰しておりますおばあ様。優奈です」
その私の声に反応するかの如くゆっくりと、おばあ様は視線を上げ、私の姿をその瞳に映しだした。
「優奈」
一言私の名を読んで、そのまま、椅子から立ち上がろうとした時よろめき、手を机に付いた。とっさに私はおばあ様のところに行き、その体を支えようと抱きしめた。
懐かしいおばあ様の香りを感じながら。
「大丈夫ですか、おばあ様」
「ええ、大丈夫よ。ちょっと疲れているだけ。そんなに心配することじゃないわよ」と優しく私に声を返してくれた。
何も変わっていない。あの優しいおばあ様のお姿も、そして声も。でも少しお痩せになったのかもしれない。
「よく来てくれたね。この屋敷に」
その言葉は私の心の中に潜んでいる何かに少し刺さる思いがした。
この屋敷に。おばあ様は学校の理事であるから、在学する私の姿は学校でたぶん見ていると思う。でも私は学校でおばあ様と会うことはない。
それに毎日おばあ様は学校にいるわけでもない。私にしてみればおばあ様と出会うのは久しぶりの事。そして、おばあ様にこうして触れるのも久しぶりのことでもある。
「お飲み物をご用意いたしてまいります」気を使ったのか湯島さんはそう言って、一例をしてからこの部屋から一時離れた。
部屋の真ん中くらいにセットされているソファーに私とおばあ様は腰を据え。改めてこの部屋を眺めた。
「どうしたんだい優奈」
「なんだかとても懐かしいような気がしちゃって」
「そうかい。良くあんたは幼いころ、ここに勝手に入って怒られたもんだった」
「そうでしたわね。お父様によく叱られました」
にっこりとほほ笑んで答えると。
「でも、元気そうで何より。住んでいたところが火事になったて聞いたときは心配したんだよ」
「申し訳ございません、おばあ様。ご心配をおかけいたしてしまいまして」
おばあ様は表情を変えずこう切り出してきた。
「今の生活は優奈にとって愁いあるものなのかい?」
愁いあるもの。悲しみや心配事が付きまとう、この私の身の内をくんで……。おばあ様は私のこの心の奥に潜む哀しみと苦しみ、そして嘆きを感じ取っている。
秋穂お母さんが、私を連れてこの屋敷を出た理由の一つに、環境を変え、お父様を亡くしたというこの現実の哀しみにふさぐ私を立ち直させたかった。という思いもあったといま、私はそう感じている。
だからこそ、おばあ様は何も言わず、私達がこの屋敷を出ることに口を挟まなかったのかもしれない。
「かもしれません」そう答えると。
「そうかい。智明が亡くなって、私達の前からその存在が消えたことは、私にとってもまだ癒されることのない悲しみであるのは変わりはないのよ。そして、あなたのその小さな心に大きな悲しみが存在しているのも私はよく理解しているつもりよ」
そうだよ。悲しいのは何も私だけじゃい。おばあ様だって自分の息子が先に亡くなったという事実を受け止めているんだから。……私も、お父様が亡くなったというその事実は確かに現実として受け止めてはいる。でもどうしても、その奥に潜む数々……私とお父様との暮らしの残影がいまだにこの心を苦しめているのは確かなことだ。そしてその苦しみに今も勝てないでいる自分がいるのも事実。
コンコンと部屋のドアがノックされる音がした。
ドアが開くと湯島さんがワゴンにティーセットを乗せ、ゆっくりと入ってきた。
「失礼いたします」そう彼女は物静かに言う。
おばあ様との話が半ば途切れたような気がした。でもワゴンの上で湯島さんが淹れてくれる紅茶の香りが何か私の心を落ち着かせてくれているような気がした。
そっとおばあ様と私の前にティーカップが置かれた。その香りはふんわりと私の洟に優しく抜けていく。
「優奈お嬢様には初めてですね。私がこうしてお茶をサーバ―して差し上げるのは」
湯島さんはいつもこうしておばあ様に紅茶を入れてくれていたんだ。私は今までそんなことは知らなかった。
カップを持ち、カップを口につけ軽くスッと紅茶を口に含んだ。優しくどこまでも優しいこの香りがより一層強く際立つ。
なんだろうか。ここ数日の間に私の生活はまた大きく変化を遂げていて、その変化に私の心は何か別の新たな想いが生まれ始めているのに、その時初めて気づかされた。
「……そっかぁ」
「どうしたんだい優奈」
「ううんなんでもないんだけど、おばあ様に一つだけ。ご報告したいことがあるんです」
「なんだい」
カップを静かに置き、私はおばあ様の瞳を見つめながら。
「今、私自分でも気が付かなかったみたいなんですけど。幸せなんだというのに気が付かされました」
おばあ様はにっこりとほほ笑んで「そうかい」と答えた。
その先のことも、その私の想いのことも、それ以上のことはおばあ様はあと何も聞こうとはしなかった。
静かな沈黙がこの部屋の中に流れている。
本当に久振りのような感じがする。まるで今ここにお父様も一緒にいるかのようなあの頃の懐かしい雰囲気を私は感じていた。
その時だ、この静けさを打ち消すかのようにバンと、部屋のドアが音を立て開いた。
その音に反応すように、目を向けると、そこには息を切らした秋穂お母さんが立っていた。
「お母さん!」
おばあ様は秋穂お母さんの姿を見て。
「おや、意外と早かったねぇ」とにこやかに言う。
秋穂お母さんは一呼吸おいて「ほんとにもう、お母さま。ちょっと強引じゃないんですか? 一言私にも連絡してほしかったなぁ」と、ちょっとすねたと言うか怒ったと言うかなんか可愛いって思えちゃうような感じで言う。
おばあ様と後妻である秋穂お母さん。仲が悪いということはない。むしろ私が知る限りではとても仲がいい。まるで本当の自分の娘のようにおばあさ様は、秋穂お母さんに接しているし、お母さんも、自分の母親であるかのように、時には反発すときもあるけど、甘え上手と言うのが正しいかもしれない。その中にお父様の姿があって、……。なんだかこの空間が本当はタイムスリップでもしているんじゃないのかと思えるほど懐かしい雰囲気だと感じていた。
「ん、もう!」と、まだ秋穂お母さんはすねている。
「秋穂様、秋穂様も紅茶お飲みになりますか?」
「当たり前じゃない。私もう喉カラカラよ。だってほんと急いでやってきたんですもの」
「と言っても多分、ハイヤーでお越しになられたのでは? お時間としても1時間はかからずにお越しになれたと思いますが……」
湯島さんがちょっと皮肉った感じで言うところが、なんか私にはおかしく聞こえた。
だけど秋穂お母さんはまじめな顔になり。
「お母さま。優奈をこうしてまたこの屋敷に連れ込んだということは、何かあってのことなんですよね」
こんな形相の秋穂お母さんの顔を、私は今まで見たことがない。
「るるるん!」
秋穂ちゃんに今日はお料理教わる約束だからいるわよね。
大家の尚ねぇさんが俺の部屋のドアノブを回したが、ロックがかけられていた。
「あれぇ、ヘンねぇ。秋穂ちゃん。いるんでしょ! だったら玄関開けてよぉ」
呼びかける尚ねぇさんの声に返事は戻らず。
「おっかしいなぁ。どっかでかけちゃったのかなぁ。食材一杯買い込んだのにぃ!」
がっくりと肩を落とし、自分の家に戻ろうとした時、アパートの敷地の中に1台の高級車が乱入してきた。
「うわっ! ちょっと危ないじゃない」
急停車した車から降りてきたのは、白装束に黒の袴を着こなしたガタイのいい中年男だった。
「うわっくしゅん!!」
いきなり社内のみんなが振り向くほど大々的などでかい音量のくしゃみを、ダイナミックにつばをあたりに飛ばして……。
「あっ! ごめん」
後輩の七瀬の顔から頭からいやはや、上半身俺のつばが飛び散ったというか。完全に彼女の姿を汚してしまった。
「す、すまん。七瀬。汚してしまった」
恐縮する俺に、七瀬はなぜかにんまりとしながら。
「別にいいですよ」といいスクっと席を立ち、いそいそとオフィスから出ていった。
絶対に七瀬怒ってるぞ。ありゃ、相当だろうな。あんな薄気味悪い笑顔なんかしちゃってよぉ。
俺は七瀬の後を追いかけようと立ち上がり、彼女の後姿を目にして声をかけようとしたが、そのまま七瀬は女子トイレに入っていった。
そしてその中から聞こえてくる雄叫び!
「やりまぁ!! 先輩のくしゃみ。この体に全身につばを付けていただきましたぁ。もう私は先輩のものです」
はぁ?
なんか聞いちゃいけないことを、俺は聞いてしまったような気がしてならないんだけど。
天国のじっちゃんが一言。
「女につばつけちまったか……直登よ!」
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