瞬きの終わる前に
原田楓香
第1話 始まりの風
「あの~」
部屋のどこからか声がした。少し遠慮がちな女性の声だ。
ここは、僕の一人暮らしの部屋。同居人はいない。
引っ越しの手伝いに来てくれていた兄も妹も、ついさっき帰ったところだ。
――――じゃあ、この声は誰?
僕、伏見大吾は、この春から、京都のとある大学の大学院に進んだ。住み慣れた大阪を離れて、初めての一人暮らしを始めることになった。
大学からは、徒歩6分、8階建てアパートの3階で、比較的新しい1LDK。学生には、ちょっと贅沢な部屋かもしれない。とはいえ、学生と作家の2足の草鞋を履いている僕には、なんとかなる範囲の物件で。
近所にスーパーやコンビニもある。駅はそれほど近くないけど、徒歩圏内で。オートロックで、エレベーターも宅配ロッカーもついている。部屋は明るくてきれい。6帖の和室と12帖くらいのLDK。大きな壁一面の本棚付き。日当たりもいい。風通しもいい。大きめのクローゼットもある。バスとトイレはセパレートタイプ。
条件はいい。十分にいい。ただ一つひっかかったのは、条件の良さのわりに驚くほどおトクな、その家賃。
僕を案内してくれた不動産屋の営業マンに、もしかして……と尋ねてみると、案の定で。
この部屋では、つい半年ほど前に、前の住人が急病でなくなったのだという。
夜眠っている間の急な心不全で。
出勤してこないその人を心配して、訪ねてきた同僚が、管理人さんに頼んで鍵を開けてもらって発見したのだという。
警察が調査もしたけど、事件性も全くなく、就寝中の自然死、という結論になったらしい。
(中学校の先生だったらしいので、きっと過労だったのかもしれませんね)
営業マンは軽く肩をすくめて、気の毒そうな顔をした。そして、僕にどうされます? なんなら他の物件を……と彼は言いかけたけれど、そのときには、もう僕はすっかりこの部屋を気に入ってしまっていた。それで、僕は、即座に、
「ここにします!」
と笑顔で宣言してしまっていた。
開け放った窓から吹いてくる気持ちのいい風と、明るく居心地のいいこの部屋の空気が交じり合い、僕の周りで、ふわりと舞うように動いた気がした。
そして。本日、僕は、正式にこの部屋の住人になった。
冷蔵庫や、レンジ、洗濯機など、大物の電化製品は、店から直接配送して設置してくれるし、それ以外は、机、服、それと布団くらいで、大した荷物はない。
「何なん?! たいした荷物はない、とかいいながら、この本の山!」
妹の萌が、本の詰まったダンボールを運びながら、ぼやいている。
「いや、ごめん。そんなにようけ持ってくる気はなかってんけどな。気ぃついたら、ちょっと」
「ちょっと、というには、ちょっとだけ多いな」
兄の和志が、頼もしくも、一度に2箱運びながら言う。引っ越し屋さんを頼まなかったので、この兄と妹の働きは大きい。
「ごめんごめん。あとで、ランチおごるし」
「お母さんにランチ代もらってたん、知ってるで」
「思いっきりおいしいもんご馳走してもらおな」
両親は、二人そろって中学教師で、土日の出勤も多く、ましてや4月新年度の初めのこの時期は、休みをとることは全く不可能で。
「ごめんな。手伝いいかれへんけど。和と萌派遣するからな」
「3人でお昼ごはんでも食べや。また、そのうち、遊びに行くし。あんたもいつでも帰っといで」
彼らはそう言って、3万円入った封筒を僕に手渡すと、出勤していった。
全ての荷物を運びこみ、ダンボールの中身を取り出して、とりあえず並べたり、クローゼットに入れたりして、なんとか生活が始められるくらいに片付いた。
もう食べに出かける元気ないわ、と萌がいい、宅配のピザをとった。リビングのローテーブルの上に、ピザや飲み物を広げる。 開け放った窓から、爽やかな風が吹いてくる。
「なかなかいい部屋やな。明るいし。それに、なんかしらんけど、めっちゃ居心地ええな」
兄がベランダの前に立って、風に吹かれながら目を細めて言った。
「そやろ。なんか、初めて来たときも、風通しもよくて明るくて、めっちゃ気持ちのいい部屋やなと思ってん。」
「なあ、大ちゃん。今度、京都泊りに来たら、泊まらせてもろてもいい?」
ピザのピーマンを僕の皿によけながら、萌が言う。
「1週間くらいここに泊まり込んで、毎日ここからマンガミュージアム通うわ」
萌が言う。
「あのな……そんなに泊まりこまれたら、大ちゃん、ちょっとメーワクかも」
全員のコップに、ペットボトルのお茶を注ぎながら、僕は答える。萌なら、本当にやりかねない。
「大丈夫やて。彼女が泊まりに来るときは、先に言うてくれたら来-へんし。ご飯も自分で適当に食べに行くし、お布団ももう1組あるから、泊めてくれるだけでええねん」
萌は、すっかり無料宿泊所にする気満々だ。やれやれ……。
ピザもポテトもたらふく食べて、おしゃべりをして、気が付くと夕方も近づいていた。
「そろそろ帰らんとな」
「明日は、筋肉痛かもしれへん」
「ほんまやな。でも、ありがとうな。めっちゃ、たすかった」
めっちゃ居心地よかったし、また来るわ~、そう言って、2人は、きげんよく帰って行った。帰る二人を見送りついでに、近所のコンビニで、おにぎりを2つと野菜ジュースを買う。晩ご飯か、もしかしたら、明日の朝ごはんになるかもしれない。
部屋に戻って、さっとシャワーを浴びて、壁にもたれながら、リビングの大きいクッションに座る。 そのうち、ソファを買うのもいいな、と思いながら、ペットボトルのお茶をコップに注ぐ。
その時だ。冒頭の、
「あの~」という女性の声がしたのは。
ここは、僕の一人暮らしの部屋。同居人はいない。
引っ越しの手伝いに来てくれていた兄も妹も、ついさっき帰ったところだ。
―――――じゃあ、この声は誰?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます