第四十一話 完全無欠の生徒会長と母親
「鞘は? まだ帰って来てないの?」
「ああ、うん……もうすぐ文化祭で、クラスの催しだけじゃなく、バレー部や生徒会の発表とかで大忙しだから」
そう言いながら、緑は視線を下に向ける。
そこには、逆バニー+ビキニ水着という、あまりにも刺激的な格好をしつつ、口元を押さえ必死に気配を殺している鞘の姿がある。
その夜――ウサギになった鞘が緑に甘えていたところに、父の再婚相手――鞘の母親、未来さんが急遽帰宅してきたのだ。
「そうなの……もう夜も遅いのに、大丈夫かしら?」
「だ、大丈夫だと思うよ。大会前でバレー部が大変だった時も、結構これくらいの時間に帰って来てたから」
緑は、必死で平静を装いながら未来さんと会話をする。
水着バニー姿の鞘を、未来さんの前に出すわけにはいかない。
なんとか穏便に話を進め、気を逸らしたところで、鞘を二階に向かわせ、着替えて何食わぬ顔で合流してもらうしかない。
脳細胞をフル回転させ、最高潮の緊張感を維持しながら、緑は意識を集中させる。
「あら? でもさっき、玄関に鞘のローファーがあった気がしたけど」
瞬間、未来さんの放ったその発言を聞き、緑は唯でさえ爆音を刻む心臓が爆発するのではないかと思った。
「え! そ、そう? じゃあ、気付かない内に帰って来てたのかな!?」
「帰ってきたのに、緑君も気付いてないの? 黙って自分の部屋に行っちゃったのかしら」
もう――と、少し呆れ気味に嘆息し、未来さんは踵を返す。
「ちょっと部屋に見に行ってくるわ」
まずい!
足下の鞘も、その未来さんの発言を聞き大きく体を弾ませる。
当然、今自室に鞘はいない。
帰って来ている痕跡はあるが、緑も知らず、部屋にもいない――となれば、未来さんに怪しまれてしまう。
「み、未来さん!」
瞬間、頭よりも先に、体が動いていた。
緑はソファから飛び出すと、リビングの入り口に向かおうとしていた未来さんの肩を掴んだ。
「きゃっ!」
いきなり肩を掴まれたためか、ビクッと未来さんは体を硬直させた。
「え、ど、どうしたの? 緑君」
「さ、鞘さんもきっと疲れてるんだよ! ここ数日、ずっと色々引っ張りだこだったから! 部屋で一休みしてるんじゃないかな!?」
必死に、緑は彼女が出て行くのを引き留める。
「問題無ければ自分で下りてくるはずだから、気分が整うまで静かにしててあげた方が良いと思いますよ」
「……そ、そう」
緑の必死の言葉に、未来さんは少し押され気味で納得する。
「でも、まぁ、そうね……」
そこで、未来さんはニコッと笑った。
「考えてみれば、この家で一番鞘と一緒に居るのは、緑君だしね。私なんかより、緑君の方があの娘のことをよくわかってるはずよね」
「そんなことは――」
言い掛けて、至近距離で未来さんの顔を見て、緑は気付く。
彼女の顔にも、疲労の色が浮かんでいることに。
化粧では隠しきれない目元のクマや、少し赤くなった目。
親子なだけあって、鞘にとても似ているから、その雰囲気から理解できてしまった。
「未来さんも、お疲れですね」
「え?」
当然か。
彼女はほとんど家に帰ることもない、バリバリの仕事人だ。
会社でも、結構な重役についていると聞く。
その身に抱えた疲労の量なんて、想像も出来ないほどだろう。
「未来さん、座って下さい。お茶でも淹れますよ」
「……ふふっ、何気を使ってるの。子どものくせにそんな――」
「いいですから」
緑は、未来さんの肩に優しく触れたまま、食卓へと誘導する。
「ちょ、ちょっと……」
そして椅子に座らせると、キッチンへ向かう。
「お茶、緑茶が良いですか? 紅茶もありますけど」
「緑君、本当にいいのよ? そこまで気を使ってくれなくて」
未来さんは、少し心配そうに眉尻を落とし、緑に言う。
「あなたの親という立場になったくせに、ほんの数回くらいしか顔を合わせていないから仕方がないけど……でも、そんな他人行儀で接してくれなくても……」
「未来さん、やっぱり、鞘さんのお母さんですね」
ティーポッドに紅茶の茶葉を入れ、電気ケトルのお湯を注ぎながら、緑は言う。
「その言葉、鞘さんにも同じようなことを言われました」
「え?」
「鞘さんも、疲れて帰ってくる事が多いですから、俺に甘えてくれてもいいんだよって、そう言った時があって」
トレイの上にティーポッドとカップを乗せて、未来さんの前まで運ぶ。
「これは、俺が家族としてそうしてあげたいと思ってやってるだけだから。気にするなって、そう答えました。だから、未来さんが気にする事もありません」
「………」
「どうぞ、勝手に紅茶の方にしちゃいましたけど」
「……ありがとう」
緑が淹れた紅茶を口元に運び、一口含む。
未来さんは「ふぅ……」と、落ち着いた吐息を漏らした。
「おいしい……」
「未来さん」
そこで、緑が椅子の後ろに回る。
そして、未来さんの両肩に手を置いた。
「み、緑君? どうしたの?」
「さっき肩を掴んだ時に思ったんですけど……かなり凝ってますよね」
「ま、まぁ、ほとんどデスクワークだから」
緑が、ギュッと肩を揉む。
「あっ……」
未来さんは、気持ちよさそうに声を漏らした。
「力加減、どうですか?」
「あ、うん、気持ち良い……」
緑に肩を揉まれ、未来さんは恍惚とした表情を浮かべている。
実に気持ちよさそうだ。
しかし、本当に大分肩の筋肉が凝っている。
これは、完全にほぐすまで時間がかかりそうだ。
「ああ……なんだか、気持ち良すぎてウトウトしてきちゃう……」
「はは、大丈夫ですよ、寝ちゃっても」
両目を瞑り、完全に緑のマッサージに体を預けている未来さん。
そんな彼女と談笑を交えながら、そこで緑は、チラリとソファの方を見る。
(……今だ! 鞘!)
未来さんは今、完全にリラックスしている!
意識も朦朧としている!
今の内にリビングを出て、二階に向かうんだ!
緑の視線と、強いテレパシーが通じたのか、そこでソファの影から、鞘がヒョコッと頭を出す。
ウサギ耳を装着しているので、本当にウサギのようだ。
場違いに可愛らしい挙動をする鞘に、緑は「早く早く! でも静かにゆっくり!」と視線で訴える。
鞘も、緊張した面持ちでコクコク頷くと、ソファの影から体を出し、忍び足でリビングの入り口に向かう。
静寂が包む空間。
母親の肩を揉む緑の背後を、水着バニーの格好をした娘が通過していく――。
「……鞘」
未来さんの口が、そう発した。
刹那、緑の手が止まり、後方で鞘が背筋をピンと伸ばす。
心臓が停止しかけた。
「……未来、さん」
「鞘、本当に変わったと思うの」
呼吸が荒れる緑の一方、未来さんは言葉を連ねる。
「明るくなって、前までの張り詰めた感じが消えて……友達と遊んだりしたことや、緑君のことも、メッセージアプリでよく話すようになったわ。前までは、学校の事や事務的な連絡ばかりだったのに」
「………」
「前、鞘がアナタのことをお兄ちゃんって呼んでたでしょ? 子どもみたいに凄く懐いてて、本当の兄妹みたいで……最初はビックリしたけど、今、納得したわ」
「……え?」
「緑君って、なんだか、甘えたくなるというか……そういう優しさと、包容力がある感じがする」
「……未来さん」
「鞘が変わったのも、緑君のお陰ね……ありがとう」
未来さんの言葉を聞き、緑はグッと、鼻の奥が熱くなった。
「……俺の方こそ、ありが――」
「ふふっ、私も、緑君のこと、お兄ちゃんって呼んでもいい?」
「え?」
「なーんて、冗談よ、冗談!」
瞬間、未来さんは勢いよくその場で振り返る。
そして、背後の緑を見た。
「流石に恥ずかし――……鞘?」
結果、緑の後方に立っていた、鞘の姿を発見することになる。
「居たの?」
「う、うん、今二階から下りてきたところ」
――間に合った。
鞘は静かに素早く、リビングを出て二階へ向かい、そして私服に着替えて帰って来た。
そして、ちょうど戻ってきた瞬間に、未来さんが振り返ったのだ。
「も、もう! 居るなら居るって言ってよ! 今の私と緑君の会話、聞いてた?」
「いや、今来たところだから……」
「よかったー! もう、かなり恥ずかしいこと言っちゃってたのよ! ねぇ、緑君!」
「あ、あはは……」
恥ずかしそうに腕をぶんぶん振るう未来さん。
その一方で、緑は鞘と目を合わせる。
なんとか、危機を乗り越えられたことを、視線だけで理解し合い、そして、安堵の溜息を吐いた。
―※―※―※―※―※―※―
――その後。
未来さんと三人で積もる話を交え――時は過ぎ、深夜。
「お母さん、寝たみたい」
「そうか」
未来さんが寝室に向かったのを確認し、鞘が緑の部屋へとやって来た。
「……いやぁ……さっきは危なかったな」
「す、凄くドキドキした……」
本当にギリギリだった。
「鞘、こうなる可能性があるから……コスプレはちょっと控えよう」
「う、うん、私も、なんだか気分が高揚してたみたいで……ごめんなさい」
緑はベッドの上に腰掛け、鞘は床にぺたりと座っている。
その状態で、鞘が目線を上げた。
「お兄ちゃん……私が二階に行ってる間に、お母さんとどんな話したの?」
「え? ああ、まぁ……ありがとうって、言われたよ」
「ありがとう?」
「俺が現れてから、鞘が明るくなったって」
確か、前にも鞘は未来さんとそんな会話をしていたと記憶している。
だから、緑は何気なしに、そのまま伝えた。
「……そ、そうなんだ、お兄ちゃんにも言ったんだ」
鞘は頬を染め、恥ずかしそうに指先を合わせている。
「お母さん……お兄ちゃんのこと、凄く良く思ってるみたい」
「ああ……」
それこそ、申し訳ないくらいに――と、緑は思う。
「お母さん、お兄ちゃんに肩を揉んでもらってたでしょ? あれ、凄いことなんだよ?」
「え?」
「お母さん、人に肩を触られるのが好きじゃないんだって。昔……職場の上司に、よく肩を触られてたからって……セクハラみたいに……」
「そうだったのか、気遣いが足りなかったな……」
「ううん! お母さん、凄く気持ちよさそうだったから、全然気にしてないと思う!」
ニコリと、鞘は笑う。
「お兄ちゃん……やっぱり、凄い」
「………」
そうストレートに言われてしまえば、緑も照れ臭くなる。
「そ、そういえば、未来さんにもお兄ちゃんって呼んでいいか、なんて言われたよ」
「え?」
照れ隠しに、緑は鞘の聞いていなかった未来さんとの会話を話す。
「まぁ、当然冗談だけど」
「そ、そう……」
そこで、鞘が少し顔を俯かせる。
「鞘?」
「お兄ちゃんをお兄ちゃんって呼ぶのは……私だけがいいな」
え、少し妬いてる?
母親に?
(……女心って、複雑だな)
鞘のそんな表情を見て、思う緑だった。
―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―※―
※次回更新は8月14日(日)を予定しています。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
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