第二十七話 完全無欠の生徒会長も凹みます


 夏休みに入って、しばらく経過した――八月上旬の、ある日の夕方。


「鞘……大丈夫だったかな」


 緑は、家で鞘の帰りを待っていた。


 鞘の所属する女子バレー部は現在、春の全国大会――その予選の真っ只中である。


 先日から着実に勝ち進み、今日は準決勝と決勝の日だ。


 あと二回勝てば、最終リーグに進出できるというところまで来ている。


 緑は、家で鞘達の勝利を祈っていた。


「ただいま」


 玄関の扉が空く音。


 そして、鞘の声が聞こえた。


 緑は廊下に出ると、玄関へと向かう。


「鞘、お帰り」


 帰宅した鞘は、学校の名前の入ったスポーツウェアを着ている。


 傍らには、試合用のユニフォームやシューズの入ったエナメルバック。


 うなじの上で髪を縛った、スポーティーな格好である。


 鞘は、わざわざ玄関へと迎えにやって来た緑に、驚いたように目を丸める。


「どうしたの? お兄ちゃん」

「あ、いや……」


 至って平生のテンションでそう尋ねる鞘に、緑は慌てる。


 試合を終えて帰って来たばかりとは思えないほど、鞘は落ち着いていた。


「その……試合、どうだった?」


 緑が問い掛けると、鞘はふっと微笑みを浮かべた。


 その笑みを前に、喜ばしい報告がされるものだと思い、同じく微笑を湛えた緑に向かって。


「負けてしまった」


 鞘は、そう言った。


「あ……」

「残念ながら、もう一戦勝てば最終リーグ進出というところまで行ったのだが……相手が悪かった。去年の優勝校だった」


 落ち着いた口調で、鞘は述べる。


 今し方、敗北を喫してきたチームのレギュラーメンバーとは思えないほど、穏やかな声で。


「でも、みんな力の限りを尽くしたんだ。全力で挑み、それで負けた。だから、悔いは無い」

「……そう、か」

「試合後、三年生の引退式と、新しいチームの結成式を行ってきたから、こんな時間になってしまったんだ。帰りが遅くなって、ごめんなさい」

「いや、謝る必要は――」


 そこで、靴を脱ぎ、玄関に上がり、緑の前を通り過ぎていった鞘。


 その横顔を見て、緑は気付いた。


 鞘の目元が、赤く腫れている。


「………」


 泣いたんだ、とわかった。


 時には体調を壊し、倒れそうになるほど打ち込んだ部活動。


 レギュラーとして、多くの部員の想いも背負い、コートで戦った。


 三年生にとっては最後の大会。


 本当だったら、来年の春まで一緒に居られたかもしれない先輩との別れ。


 その全てが終わった。


 そんな思いをして、彼女も泣かないわけがない。


「そうだ、お兄ちゃん。私、新チームでは副キャプテンになったんだ」


 リビングのソファに腰掛け、鞘が言う。


 緑は、その傍に立つ。


「キャプテンに推薦してくれる同期や後輩も多かったが、生徒会長の仕事との兼ね合いも考えて、先輩達が判断してくれたらしい。本当に、良い仲間達に恵まれたと思う」

「……鞘」


 緑は、鞘の隣に座った。


「……お兄ちゃん?」


 そして、鞘の頭に手を置くと、自分の肩に預けるように引く。


「あ……」


 鞘の頭が、緑の肩に密着する。


 鼻先が、緑の胸板に触れる。


「頑張ったんだな、本当に」

「………」

「まだ鞘と家族になって、ほんの数ヶ月だけど、俺が見てきた鞘は、いつだって一生懸命で真面目で、頑張り屋だった。それだけ強くて熱い想いを抱いて、みんなの、チームの願いを叶えようと努力してきたんだな」

「………」

「気丈に振る舞って、落ち着いて見せてるのも、チームのためだろ? 新しいチームの中心になって、去って行く先輩達の想いを遂げるために、後輩達に同じ思いをさせないために、今まで以上に強くならないといけないって、そう思ったからだろ?」

「………」

「鞘は偉いよ。凄い。でも、もし辛くて、溜め込んでしまってるものがあるなら……前にも言ったろ? 俺に、甘えても良いって」


 緑は言って、鞘に微笑みかける。


 至近距離、鞘は呆然と緑の顔を見詰めていた。


 しかし――。


 徐々に、徐々に。


 彼女の両目が潤み、目尻に涙が溜まり、流れ落ちる。


 穏やかに弧を描いていた唇が、震えて、引き絞られ、グッと持ち上げられる。


「お兄、ちゃん……」


 ぽろぽろと涙を流し、鞘は、緑の胸に顔を埋めた。


「もっと……もっと、今のチームでバレーがしたかった……先輩達の、喜ぶ顔が見たかった……」

「……ああ」


 嗚咽を漏らし、泣き崩れる鞘。


 その後頭部を、緑は優しく撫でる。


 ――しばらく、二人はそうしていた。


「……ありがとう、お兄ちゃん」


 緑に体を預け、気持ちを預け、本音を漏らし、思う存分泣き――。


 鞘は、本当の意味で落ち着いたのだろう。


 ぐずっ……と鼻を鳴らし、顔を上げる。


「やっぱり、お兄ちゃんは優しい……」

「そうか? 鞘には負ける気がする」


 緑が言うと、鞘は照れ臭そうに視線を落とす。


 そして、ふぅ……と深く息を吐き、すぅぅっ……と、息を吸った。


 まるで、緑の胸元……緑の匂いを、思い切り吸い込むように。


「お兄ちゃんの匂い……安心する」


 そう言って、額をこすりつける。


「甘えん坊の子猫みたいだな」

「ふふっ……にゃーん」


 率直に言うと、鞘は笑いながらそう鳴き真似をした。


「お兄ちゃん、前に言ってくれたよね……私の匂いも、嫌じゃないって」

「ん? ああ」


 以前、鞘が自身の汗の匂いを気にしていた時があった。


 その時、緑は鞘を抱き締め、気にならない、むしろ良い匂いだと言ったのだ。


「お兄ちゃんも、私の匂い、好き?」


 そう問い掛ける鞘の目は、トロンととろけている。


 先程まで泣いていたため、瞳は潤んで、まるで恋い焦がれる乙女のようだ。


「……うん、ああ、好きだよ」


 その蠱惑的な表情を前に、緑はおずおずと返す。


「本当? ふふっ、嬉しい……」


 微笑を発し、鞘は顔を緑の首筋に近付ける。


 クンクン……と、緑の匂いを嗅ぎ。


 そして――。


 ペロッ、と、喉仏の当たりを舌先で舐めた。


「ふっ」


 思わず、緑は体をビクッと反応させて、妙な声を発してしまった。


「鞘……いきなりそういうことすると、ビックリするだろ」

「えへへ……わんわん♪」


 そう笑う鞘は、一転して人懐っこい子犬のようだった。


「まったく……この前キスマークを付け合って、ああいうイタズラはちゃんと考えようって話しただろう?」


 緑は嘆息しながら言う。


「あ……」


 そこで、緑のその発言に、鞘は何かを思い出したように声を発し、顔を俯かせた。


「鞘?」

「……そういえば、ね。お兄ちゃんに、言わなくちゃいけないことがあるんだけど」


 どこか狼狽えながら、恥ずかしそうに、鞘は言う。


「私のうなじに、お兄ちゃんのキスマークが付いてた時……部活のみんなに、バレちゃってたみたいで」

「……え?」


 鞘の爆弾発言に、緑は絶句する。


「見られた、っていうことか?」

「……体を動かすから、髪が跳ねたりして、それで……」

「でも、確かあれって終業式よりも前のことだろ?」

「うん……みんな、大切な時期だからって、黙ってくれていたみたいで……」


 やはり、あの静川鞘の首にキスマークが付いているということは、多くの人間にとって衝撃のニュースだったらしい。


 女子バレー部員達の中でも、一旦箝口令が敷かれていたようだ。


「けど、今日で三年生も引退して、新チームになるっていうことで、この際だから聞きたいんだけど――と、皆から聞かれてしまって」


 実はカレシがいるのでは?


 もしかして、例のサッカー部の高橋君と?


 ……などなど、鞘は先輩後輩問わず皆から質問攻めにあってしまったそうだ。


「で、でも、大丈夫! お兄ちゃんが怪しまれることは絶対に無いから!」


 そこで、鞘は自信満々に言う。


「まぁ、俺はあくまでも義理の兄としか認識されていないだろうしな……多少、仲が良いとは思われてるかもしれないけど、疑いの候補にも挙がらないだろ」

「うん、なんとか虫刺されということで押し通したし……何より、このキスマークとお兄ちゃんは全然関係無いと、それだけは皆にハッキリ言ったから!」

「……え?」


 その鞘の発言に、緑は一時停止を余儀なくされる。


「鞘……その会話の中で、俺の名前を出したのか?」

「うん、『これだけは言っておくけれど、お兄ちゃん……国島先輩は、この虫刺されには全然まったく少しも関係無いから!』と、皆に強く伝えた!」

「………」


 どこかあわあわと、慌てて説明する鞘。


 おそらく、皆に問い詰められた際も、こんな風にイイ感じにパニクってたのだろう。


 相変わらず、緑が絡むと思考がポンコツと化すようだ。


 緑は頭を抱える。


(……そこで、関係無いはずの俺の名前をピンポイントに出すなんて)


 逆に疑ってくれと言ってるようなもんじゃないか?


 ……なんだか、休み明けに学校に行くのが怖くなってきた緑だった。




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