第3話 名もなき男の最期

 中年の男は両側を里の者に挟まれ、身動きが取れないでいた。彼らは脇の下に手を差し入れ、軽々と男を宙に持ち上げている。確かに彼らは一般的に考えて背が高い部類であったが、それにしたって腕力が釣り合っていない。男は背丈こそこじまんりとしていたが、横幅は普通の大人の基準を大幅に超えていたからだ。男は時折手足をばたつかせてみたが、彼らにとっては赤子が暴れているようなもので、一切歯牙にかけることもなく突き進んでいる。


(なぜだ。リン=イルゾフ〈竜の一族〉と言っても、我々と何ら変わりない姿ではないか!)


 強いていうならば、彼らが会話している時に見える口内の牙が、普通の人間より長い気がする。その程度だ。


(あの小童もだ! 少しばかり珍しい色の目を持って生まれたからと、ここまで担ぎ上げられるとは。私が上にどれだけ『貢献』してきたと思ってるんだ。国に帰ったらこの横暴な振る舞いをネムロ様に細かく報告しなくては)


 一人鼻息荒く興奮していると、不意に足にだけ感じていた浮遊感が体全体に広がった。木の枝や青々とした葉っぱを映していた視界が、次第に地面へと移り変わっていく。ここでようやく、宙に放り投げられたことに気付いた。どさりという鈍い音と同時に、顔──特に鼻に強い痛みが走る。余りの衝撃に手で顔を抑えながら悶絶していると、里の男達はまるで何も見なかったようにさっさと踵を返してしまった。深い霧の向こうに彼らの影が溶けて消えていく。

 男はワナワナと体を震わせ、痛みも忘れて勢いよく立ち上がった。


「この化け物どもが! 私にこんな態度をとって、ただで済むと思うなよ!」


 相当声を張ったはずだが、霧が音を吸ってしまったのか、あまり遠くまで響いていないようだ。しんと静まり返った森に、植物の息遣いだけが密やかに囁かれる。怒鳴って上昇したはずの体温が、スッと背中から冷めていった。


「ふ、ふん。見てろよ」


 誰に言うともなく呟くと、男は一人森の中を歩き始めた。濃い霧が立ち込めているせいか、地面が湿ってややぬかるんでいる。男はその体の大きさもあってか、それとも感情に任せて雑な歩き方をしたせいか、何度も滑って尻餅をついた。その度に白い着衣は汚れ、ついには直接尻が冷たくなるくらい濡れてしまった。

 男はまたも拳をぶるぶると振るわせる。


「ええい! 迎えはまだか! 来る時は丁寧に道案内したではないか! こんな霧などなかったし、行きにしたなら帰りもせんか!」


 男は地団駄を踏みながら叫び散らす。足場の悪い状況なので、当然のようにまたこける。今度は背中が何か硬い物にぶつかった。腰をさすりながら振り向くと、そこには干からびた遺体が木の幹に寄りかかっていた。声にならない悲鳴をあげて、男は尻をついたまま後ずさる。荒い呼吸音が静かな森の中で何度も繰り返される。男の目は血走っていた。足腰に力が入らない。すっかり腰が抜けてしまったようだ。

 次第に辺りの霧はさらに濃さを増し、男の体全体を覆い尽くしていった。もうほんの一歩先も見通すことはできない。相変わらず肩を大きく揺ら

して息をする。


 ゼー、ゼー。


 男は少し違和感を覚えた。何度も深い呼吸を心がけているのに、一向に息が整ってこない。いやむしろ、苦しくなっているのでは。男は次第に焦り始め、動悸も早まってきた。心を落ち着かせるために胸に手をやろうとするも、今度はピクリとも手が動かない。足もだ。その内肺すらまともに動かせなくなって……。男の視界は霞んできた。意識が朦朧として、頭の中で過去の出来事が次々と蘇っては走るように流れていく。かろうじて記憶にある幼児期まで振り返ったところで、ブツリと頭の中の映像は途絶え、男の手は力なく地面に横たわった。

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