第4話 母の存在

 有毒植物の蔦に全身を締め上げられた男の最期を見届けて、少年は瞼を閉じた。頭上を仰ぎ、一つ大きなため息を吐く。遠くのものを見るためには、焦点の合わせ方が大切だ。おおよその方角、距離、そして誰……あるいは何を見たいのか。よりはっきりと定まっている方が鮮明に、そして負担なく見ることができる。そういう意味では、今回は楽に達成できた方だ。それでも、この小さな体に感じる徒労は何だろう。少年は額に手を当て俯いた。


「リンガル=ジュ〈竜の眼を持つ人〉」


 いつの間にか輿は彼の屋敷に辿り着いたようだ。しわがれた声に我に返り、顔を上げる。御簾が開かれ、担ぎ手の一人が輿の前で両掌を重ね合わせて跪いている。少年はごく当たり前のようにその掌を踏み台にして地面へと降り立った。門をくぐって建物の入り口へ向かって歩くと、父が音もなく斜め後ろをついてくる。屋敷の世話人達は両脇に綺麗に整列して頭を下げている。いつもの光景だ。扉の前までくると、少年は一度父の方を振り返った。今日の祭祀の首尾がどうであったか尋ねるためだ。父は腰を曲げたまま応える。


「今日も素晴らしき所業でした。あのような無礼な輩を見過ごすわけには参りません。皆口々に貴方様を讃えております」

「そう……か」


 ほっと胸を撫で下ろす一方で、どこか心に靄のかかった感覚が残る。頭の中に先ほどの光景が思い出された。きっと今頃は身体中から養分を抜き取られ、干からびた抜け殻が残っているだろう。胃の辺りがむかむかした。


「我々の存在を蔑ろにする者を許してはなりません。我らは誇り高き竜の子の末裔。何の恩恵も受けぬシムツー=ジュ〈普通の人〉とは異なる存在なのです。それを、いついかなる時でも、示していかねばなりません」

「そう、だな」


 父親の強い口調に、曖昧な笑みを返す。腰を折りながらもその表情を盗み見た父は、一瞬眉を潜めたもののすぐに無表情を取り繕った。


「少しお疲れのようです。ごゆっくりとお休みくださいませ」

「ああ、そなたもな」


 少年は振り返ることなく屋敷へと入っていった。



 空に真っ青な月が登った頃、少年は被っていた布団をそっと剥いで部屋を出た。呼吸を整え、建物内の人の気配に意識を向ければ、たちまち黄金の瞳には壁が透けて見える。どの世話人もぐっすりと寝ているようだ。物音を立てないように注意しながら、植物の茎で編まれた履き物に足を入れる。

 少年は里と森の境目にある小さな小屋へ赴いた。淡く輝く星見草の花が風に揺れて、闇夜の中をまるで生き物のように小さな光がふわふわと漂う。『あの人』が好きな花だ。少年は竜の眼を生かして暗闇さえも透かし見る。そこここに咲き誇る星見草を踏みつけぬよう、慎重に足を進めた。

 やっと小屋の前まで来ると、はやる気持ちを抑えて小さな声で囁きかける。


「お母さん」


 木でできた引き戸が立て付け悪くガタガタと揺れ、一度トンと叩く音がした後、スーッと横に開いた。


「ジュナン」


 穏やかな笑みを浮かべた女性が姿を表すや否や、ジュナンは彼女の胸に飛び込んだ。柔らかな温もりに頬を擦り付けると、母・ヨムトは笑いながら彼を両手で包み込む。木の葉の優しい香りがした。


「さあ、入って」


 ヨムトが松明に火を灯すと、手作りの座布団が二つ浮かび上がり、その横にひびの入った湯呑みが添えてある。二人は互いに向き合って腰を下ろすと、まずは茶を一口啜った。ほんのりと舌を刺激する苦味と共に、微かな甘い香りが鼻腔をくすぐる。星見草の実を砕いて茶葉に混ぜると得られる香気で、ヨムト独自の配合であった。


「今日は祭祀だったわね。何かあったの?」


 ジュナンはピクリと肩を揺らした。湯呑みで口元を隠しながらチラリと上目遣いで見ると、ヨムトは優しげに目を細めてこちらを見ている。軽く肩を窄めながら湯呑みをおろすと、ジュナンは今日の出来事を語って聞かせた。中年の竜官の件で、ヨムトの眉が僅かに動く。ジュナンは母の目を見ず小声で呟いた。


「私は、あの者を害してよかったのかな」


 湯呑みを握る手に力がこもる。会話の合間に僅かに訪れる間さえも、責められているようで居心地が悪い。ヨムトは湯呑みを受け皿に戻すと、膝の上で丁寧に手を重ね合わせ、真っ直ぐにジュナンを見た。


「ジュナンはどう思ったの?」

「……あんまり、いい気分じゃない」


 さらにか細くなる声。すっかり肩も縮こまってしまって、このまま体全体が萎んでいきそうだ。それを和らげたのは、やはり母の一言だった。


「なら、その気持ちを大切にすればいいわ」


 ヨムトの言葉に、ジュナンはパッと顔を上げる。全てを包み込むような彼女の微笑みに、目が潤んでくる。ジュナンは湯呑みが倒れるのも構わず、勢いよく母に抱きついた。


「お母さん!」


 母の服を固く握りしめ、体を小刻みに振るわせる。ヨムトは何度も彼の背中をさすってやった。


「ユグは肯定的だったのね」


 ジュナンは何も答えなかったが、ヨムトにとってはそれが答えだった。


「人によって、色んな考え方があるわ。お父さんが正しいわけでも、お母さんが正しいわけでもない。あなたが感じるままに進めばいいの」


 ジュナンの呼吸が落ち着いていく。母の膝は温かかった。


「お母さんともっと一緒にいれたらいいのに。祭祀にもきてよ」

「……ごめんね」


 ヨムトはジュナンの頭を撫でた。肩まで伸びた白みがかった金髪が、さらりと彼女の指の隙間を通る。彼は母がこの髪を愛でる時間が好きだった。父も、他の里の人々も皆この色を美しいと褒め称えてくれる。でもそれはきっと、竜の鱗の色に似ているからだ。彼らの祖先を産んだ竜は、氷の結晶のように白く澄んだ輝きを持っていたらしい。里の人間にとって、その白竜に似たジュナンは誇りなのだ。けれど、母は違う。十歳の少年には細かい心情は分からないが、きっと母は彼の髪だから好きなのだ。たとえ何色であっても。。頭部に感じるぬくもりに意識を委ね、ジュナンはそっと目を閉じた。

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