現実4

 学校が終わり、審はいつものように足早に校舎を後にしようとした。しかし、校門で背を凭れさせながら腕を組んでいる人物を視界に捉えて思わず足を止めた。

「あなたは……」

 審が声を掛けると、先日審に接触を図ってきた男が「おぉ」とまるで旧友の帰りを待っていたかのような愛嬌のある笑顔を浮かべた。

「この間ぶりだね」

「……はぁ」

「いやぁ、実は君に少し用があってね。良かったらこの後一緒にカフェにでもどうだい?」

「……また夢を見させてほしいんですか?」

「いやいや、ただのお礼だよ。言っただろ? お礼は必ずするって」

 男はこの間とは打って変わって気さくな笑顔を浮かべながら、審に近寄って来た。

「えっと……お名前が」

 審は男とのコミュニケーションを円滑にするべく、男に名前を訊ねた。

「おっと、こりゃ失敬。俺は暮見夕人。一方的に相手に情報を握られているのは不愉快だよな。すまない、配慮が足りなかったな」

「……いえ」

 審は夕人が以前とは随分乖離した陽気さで接してくることに困惑した。そんな審の心中にはお構いなしに、夕人は審の肩に手を回した。

「で、どうする? お礼をさせてもらえるか? 予定があるってんなら、またの機会にするが」

 夕人の言葉に、審はどう返答すべきか逡巡したが、やがて溜息を吐いて答えた。

「どうせ暇なんで。どこにでも連行してください」

 審の返答に、夕人は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「そりゃよかった」


 中高生に人気の洒落たカフェが、審が連れてこられた場所だった。人気ではあるものの、学生が頻繁に通えるような額が付与された商品が販売されているわけではないため、結局のところ利用客の年齢層としては社会人以上が半数を占めている。残りのもう半分はお年寄りで、残りの半分がおそらくはバイト代やらをはたいてやって来た高校生たちだった。その中で中年男と男子高校生が二人で同じテーブルを囲んでいるという様は、周りから見ればそれなりに奇妙な光景であると云えるだろう。

 審は周囲からの目線を少々居心地悪く思いながら店内を見渡した。しかし、夕人は気にしている様子でもなく、おしぼりで顔を拭った。頼むからやめてくれ、と審はカフェに似合わない下品な行動を取る夕人に心の内で咎めた。審の訴えかけるような視線に気付いたらしい夕人は、「すまない」と苦笑しながら詫びた。

「この歳になると、周りの目がどうにも気にならなくなるものでね」

「……いえ、まぁ、自分のことを気にしている人間なんていないことは理解しているつもりなんですが」

「ほう。やっぱり君は大人びているなぁ。俺が審くんと同じ年齢だったときは、自意識の塊だったけどなぁ」

「大人びてはいないと思います。ただ、時代背景的に、そういう思考になるのが普遍化しているだけだと思います。年齢に関係なく」

「ほほう。それは興味深い」

 そういった他愛のない話が進む中で、入店してすぐに注文したコーヒーが二つ、店員によって給仕された。審は夕人に礼を述べてからコーヒーを口にした。後から運ばれてくるだろうパンケーキ代も含めて、全て夕人の奢りである。

「美味しいですね」

「うん、確かに上手いな。誰かを取材するにはもってこいの場所だ。メモしておこう」

 夕人はそう言うと、胸元から取り出したメモ帳にペンを走らせた。夕人に悪意がないことは理解しているが、幼少期に散々見せられた記者の所作に、審は思わず身構えた。その様子を目の端で捉えたらしい夕人は、「すまない」と申し訳なさそうにメモ帳とペンを胸元にしまった。

「今の時代携帯で済ませてしまえばいいものを、アナログ人間の我々はついつい紙を所望してしまうものでね」

 夕人はそう言ってコーヒーを飲むと、先ほどまでとは表情を変えて言った。

「今日、君をここに呼び出したのは他でもない。この間のお礼をさせてもらうためだ」

「……もう十分ですよ。コーヒーも頂いていますし、後からパンケーキが来ますから」

「いいや。それでは俺の気が収まらない。どうか、これを受け取ってほしい」

 夕人は鞄から茶封筒を取り出した。そして、それをテーブル上で滑らせ、審の目の前で静止させた。

「……これは?」

「現金さ」

「え、いや、受け取れないですよ。いくら入ってるんですか?」

「十万円」

「は? なら、尚更受け取れないですよ」

「おや? 高校生なら喉から手が出るほど欲しい額だと思うが」

「俺、そんな大したことしてないんで」

「俺からすれば、救われるようなことをしてくれたんだ。これくらいの感謝は受け取ってくれ」

 封筒を返そうとする審に、夕人は強引にそれを突き返した。

「……でも」

「君がその能力を授かったのは、必ず意味がある。現に、人の役に立ったしね」

 夕人はそう言って白い歯を見せると、茶封筒を審の胸元に押し付けた。審は観念してそれを受け取ることにした。どうしたものかと茶封筒を眺めていると、夕人が鞄からまた何かを取り出す音が聞こえてきた。審は思わず顔を上げた。

「それと、君にはもう一つ渡しておきたいものがある」

 そう言うと夕人は、徐に何かの紙を取り出した。

「これは君が持っておくべきだろう」

 夕人は審にそれを手渡した。よく見ると、手紙のようだった。

「何の縁か、今日、俺が記者をしていた頃の知り合いと話す機会があってね。ちょうどそいつが、君が昔に出した本の出版社に勤めている奴なんだ。どういうわけか、今は話題に上がらなくなった十年前に出版された君の本のファンレターが今日になって届いたみたいでね。そいつ曰く、今更になって著者である君に渡すのも憚られるから処分するつもりだったそうだ。実はその話を聞いて、お礼を兼ねてこの手紙を君に渡そうと思ったんだ。安心してほしい。中身は見ていない」

 審は夕人の言葉を聞いて、手紙に視線を落とした。自分の能力は偽物だと世間には公表しているはずであり、そもそもSNSの普及が盛んなこのご時世に読むような本でもない。世間では、審の両親がお金欲しさに本の出版を取り計らったと認識されているはずであり、事実でもある。当時七歳だった審に本の執筆ができるはずもなく、そもそも書き手が違った。審は訳も分からないまま、本にまつわるインタビューをテレビで受けた記憶がある。そうやって大人の裏側を見てきた審は、だから何もなくなった自分を拾ってくれた玲子には感謝している。

 今更なぜ、手紙の主は自分の元に手紙を寄越そうと思ったのか。大方の予想はついている。審をペテン師扱いしたい輩が十年という歳月をもろともせず悪戯の手紙を送って来たのだ。それしか考えられる理由はない。

 そう解釈している裏側で、審はどうも手紙に興味を惹かれてならなかった。もしかすると、夕人のように自分の能力を必要とする人間がいるのかもしれない。この間の件で、審は自分の能力に対して抱いていた嫌悪感が少し和らいでいた。本来人のために使うと決意して披露していた能力が、その本懐を全うすることができて、審は驚くほどの満足感と高揚感を得ていた。そうした熱にあてられて、審は手紙の中身を見たくて仕方なくなっていた。

審はただ、友達を喜ばせたくて夢を生成する能力を使っていた。悪夢によくうなされる友人の目覚めが少しでも良くなるように、友人の記憶の中から楽しい記憶を引っ張り出した。やがて悪夢に悩まされることのなくなった友人から感謝されて喜んだ審は、それを両親にも披露してあげようと考えた。決して夫婦仲が良くなかったことは、当時の審にも理解できていた。友人の件で自分の能力は人の役に立つものだと知って、審は両親の幸せを願った。しかしそれは裏目に出て、やがて家族の崩壊を招いた。審はただ、純粋に人の役に立ちたかっただけなのに。

 それ以来、審は自分の能力を憎悪し、それを使用することはなくなった。しかし、今になって、夕人との一件で審は自分の能力を正しく評価された気がした。その気持ちが審の手となって、審は無意識のうちに夕人から手紙を受け取っていたのだ。

「まぁ、どういった内容にせよ、目を通しておくことを推奨するよ。俺みたいに、救われる人間が増えるかもしれないからさ」

 夕人はそう言ってコーヒーを飲み干すと、大げさに音を立てながらカップをテーブルに置いた。

「さて、そろそろパフェが来る頃かな」


 また会おうという言葉を置いて、夕人は審に背を向けて去って行った。カフェの前でしばらく佇んでいた審は、改めて十万円という大金を受け取ってしまってもよかったのだろうか、と思い悩んだ。しかし、お金を受け取った際の夕人の表情が柔らかくなるのを見た審は、素直に謝礼金として懐にしまっておくことにした。

 審は落ち着かない気持ちで帰路に就き、まだ玲子が帰って来ていないことを確認してから自室に閉じこもった。なんとなく、夕人からもらった手紙は一人で見るべきだという予感がした。審は緊張を覚えながら、慎重に手紙を開けた。

手紙の内容は以下のようなものであった。


砂田審様


初めまして、姫乃風花と申します。

以前、と言いましても、かれこれ十年以上前のことですが、テレビであなたの能力を拝見させていただきました。

能力というのは、他人に人工的な夢を見させることができるというものです。

突然の手紙に戸惑っておられるかと思いますが、さらに無礼を極めることを承知であなたにお願いしたいことがあります。

どうか、あなたの能力を私に使用してくれませんでしょうか?

初めての手紙でこうも無礼講な文面を連ねる私にさぞかし呆れられたであろうことは想像に難くありません。申し訳ありません。

ですが、私がこうも配慮ができていないのには理由があります。

私にはあなたと同じように、夢にまつわる能力が備わっています。詳細についてはここでは省きますが、端的に言いますと、自分が見たい夢を創ることができるのです。

ですが、現在、奇妙な縁ではありますが、同じく夢に関連した能力を持つ知人によって、安らかな睡眠を阻害されてしまっている状態です。

知人の能力は、他人の夢に侵入することができるというものです。幸い制限時間はありますが、それでも私の安眠を阻害するのには十分な時間、彼は私の夢に潜伏することができます。

そこであなたにお願いしたいのが、夢の形成です。

先日、あなたの書籍を購入し、どういった原理であなたが夢を形成するのか、拝読させていただきました。

私の理解不足でしたら申し訳ありませんが、あなたはどうやら他人の記憶にアクセスし、その記憶をスリーパーに追体験させることができるようですね。それが、他人から見れば夢を形成しているように見えるのだとか。

書籍を読み進める中で私の目に留まりましたのが、「オリジナルの夢を囲うようにして夢を形成することができる」というものでした。

あなた曰く、スリーパーが見ている夢に膜を張るように新たな夢(記憶)を形成することができるらしいですね。その文言を目にした私は、これだ、と思いました。

私が眠って夢を見ている間にあなたが夢を階層的に形成してくだされば、知人による私の夢への侵入を防ぐことができるのではないかと。

つまり、表面的に形成された夢で知人は立ち往生し、コアとなる私のオリジナルの夢には到達することができなくなるのではないかと思い至ったわけです。

この理屈が成り立つのかどうかにつきましては、私よりもあなたの方が検討がつくことかと思われます。

ですが、私の仮説が間違っていようと一向に構いません。どうかあなたの能力を私に行使してくださいませんでしょうか?

あなたの能力を行使するにおいて必要な住所につきましては、手紙の裏に記載してあります。また、手紙を読むにあたってすぐさま気付かれたとは思いますが、手紙の最下部に私の顔写真を貼ってあります。書籍内で夢の形成においてもう一つ必要となる条件として顔の認知を挙げられていましたが、写真でも大丈夫でしょうか?

実際に対面する必要がありましたら、また手段は考えておきます。

私事ではありますが、とにかく今は時間がありません。

個人情報を躊躇なく提示していることから、私が焦りを抱いていることは感じられたかと思います。どうか、見ず知らずの人間の頼みではありますが、ご協力願えないでしょうか?

一先ず、もしも夢の形成が可能でしたら、今晩実行していただきたく思います。

協力してくださった暁には、必ずお礼はさせていただきます。

是非とも、よろしくお願い致します。

また、今後の円滑なコミュニケーションのため、大変お手数ですが、顔写真の横に記載してある名義でツイッターアカウントを作成していただけると助かります。作成していただいたアカウント名とユーザー名から、私の本垢でDMを送らせていただきます。

あまりにも図々しいお願いを重ねてしまっていることは重々承知しておりますが、何卒よろしくお願い致します。


P.S.あなたの人間性を見越して個人情報を提供させていただきました。どうか悪用は避けていただけると幸いです。


「……なんだこれ」

 審は呆気にとられた気持ちで手紙を机に置いた。なんとなく立ち上がってみて、もう一度座った。自分でもどういった感情を抱いているのか把握できていないが、とにかく落ち着かない。審はもう一度、手紙に目を落とした。

 文面から悪意が漂ってきたわけではないが、少なくとも俄かには受け入れることができるような内容ではない。手紙の主はおそらくやばい人間だ。それが、審が手紙を読み終えて最初に抱いた印象だった。

 極めつけは住所と顔写真を平気で晒していることにあり、写真を見るに自分と同じくらいの年の瀬の女だと審は見受けた。一瞬出会い系詐欺の類かと思ったが、それにしては手が込んでいるし、何より出版社に送る意図が分からない。

 そして、主が手紙でも述べている通り、わざわざ個人情報流出のリスクを負ってまでこんなことをする必要がない。一方的な自身の情報の提示のみで、審の個人情報を引き出そうとするような意図は汲み取れなかった。つまり、純粋に審の協力がほしいといったところか。

「いや」

 そこで審は、自分がすでに情報網の餌食となっていることに理解が至った。

この手紙の内容を咀嚼してみるに、相手が一方的に情報を提供しているように見えるが、そうではない。審は実質、個人情報を世間やネットに晒しているようなものだ。幼い頃にテレビ出演し、ましてや本まで出版されている。影響力は微々たるものかもしれないが、もしも審を悪く形容するような書き込みがあれば、誰の目に触れたものか分かったものではない。

以前校内で審に話しかけてきた人物がいた。そいつによると、公には囁かれていないが、同じ学校の何人かが、審がテレビ出演した人物だと知っているらしい。そのうちの誰かは、もしかすると審がテレビの出演経験があり、同じ学校に在籍していることをSNS上で公開しているかもしれない。そうなると、手紙の主にもその情報を握られる可能性があり、もしかするとすでにそれを掌握されていることも考えられる。

 それが火種となってまさかマスコミに詰め寄られることなどないはずだが、それでもあの時のことが思い出されて良い気分でいられるはずもない。それに、今は玲子と同居している。彼女に迷惑を掛けるわけにはいかない。

「やられた」

 審は呟いた。協力しなければ、必然的に自分の身が危険に晒される恐れがある。ここまで審は、手紙の主が悪質な人間である可能性に焦点を当て続けてきたが、一方で、本当に手紙の主、姫乃風花が助けを求めているのではないかという気持ちに囚われていた。手紙の内容自体は荒唐無稽であるものの、やはりその文面からはこちらを貶めようとする悪意が見受けられない。

 そして、審には手紙の内容についてもう一つ、気にかかっていることがあった。それは、自分と同じ夢能力者が存在するらしいことだった。しかも、他人の記憶にアプローチを掛ける

自分とは違って、本当の意味で夢が絡んだ能力が存在するらしい。いや、あくまで文面通りに受け取るとすればだが。

 一人は夢を創作することができ、もう一人は他人の夢に関与することができる。随分と奇妙な能力だ。

 審は自分が人にはない能力を持っているせいで、手紙で書かれてある能力が確かに存在し得るのではないだろうかという考えに及んでいた。他人の記憶にアクセスできるという特殊な能力が審に備わっている以上、自分と同じように不可思議な能力を有している人間がいてもおかしくはない。むしろそう思うことによって、自分だけではなかったのだという疎外感や孤独感といったネガティブな感情が消化されていくような気がした。

 はっきりと言おう。審はこの手紙の内容に惹かれている。それが信じるに値するものであろうとなかろうと、審はその可能性に思考を馳せることに心地良さを覚えていた。

手紙の内容が姫乃風花という女の虚言癖にせよ何にせよ、協力してやることで彼女の不安を軽減することができるかもしれない。審は夕人との一件で、自分の能力を人の役に立てることの快楽を覚えてしまった。その興奮に踊らされたのかもしれない。

気付けば審は、姫乃風花に従って、ツイッターアカウントを開設していた。即席で作ったメールアドレスで登録したため、ここから個人情報が洩れることはないはずだ。いずれにせよ、協力しなければ望まない未来がやって来る可能性が高い。ただの悪戯だと一笑に付せばいいだけかもしれないが、審にはどうしても、この手紙を無視することができなくなっていた。

「何やってんだか、俺は」

 審は自分の短絡的な行動を自覚しつつ、その浅はかさに笑った。審はもはや、自分が騙されていてもいいとさえ思うようになっていた。


「どうしたの、審。そんなにそわそわして」

 玲子の言葉にはっと顔を上げた審は、どう取り繕おうかと狼狽えた。

「今日のご飯、美味しくない?」

「いや、そんなことない。いつも通り美味しいよ」

「それならいいんだけど」

 審は笑顔を顔に貼り付けて玲子に答えた。

 あの手紙を読んでから、ずっとその内容について考え続けていた。話に乗るべきではないことは一目瞭然だったが、審は手紙に従ってみてはいけないだろうか、と何度も迷っていた。

 今夜、もしもあの手紙の住所と顔写真が本物であれば、審はすぐにでも姫乃風花に記憶を見させることができる。それで彼女が本当に審が施した夢を体験したのであれば、審の能力が必要だという彼女の言葉に信憑性が生まれる。

 審はちらりと玲子を見た。家族が解散して以来、自ら審を引き取ることを申し立て、女手一つで育ててきてくれた。そんな玲子に迷惑を掛けるようなことがもしも起きてしまったら。

 審が素直に手紙に従うことのできない一因として、やはり玲子の存在が大きかった。ただ、玲子には常々言われていることがある。それは、困っている人がいたら助けてやれ、というものだった。玲子はその言葉を、審を引き取るという大きな行動とともに実行している。そのこともあって、審は訝しんではいたものの、夕人に協力した。夕人に協力を依頼された時と同じような胸騒ぎがしているのを、審は無視することができていない。そして審がこうも誰かの役に立とうとするのは、過去に犯した罪の意識を払拭したい想いが強いからだ。

「ごちそうさま」

 審はそう言って、玲子に手を合わせた。食器を台所で水に浸し、そのまま風呂に入った。

 やがて部屋に戻り、もう一度手紙を読み返した審は、「よし」と一言呟いてから電気を消してベッドに潜り込んだ。手紙のことに気を取られて自然に寝付くことができるのか懸念していたが、むしろ手紙のことで頭を悩ませたことで疲労が蓄積していたのか、いつも以上に早く眠りに就いた。

審が他人の夢に介入する際、顔と所在地を把握しておく必要があるのは、無数に存在する各人の夢を区別するためだった。

幼い頃、審が知り合いに自分の能力を披露したとき、何故か自分の能力を使える人物とそうではない人物に分かれたことに、審は首を捻った。そして、自分が能力を使用できない人物全員に共通して、審が彼らの住所を知らないという事実が浮上した。正確に云えば住所というよりも、当該人物が夢を見る際の寝床を知る必要があることに審は気付いた。その仮説を裏付けるように、やはり彼らの住所を押さえた審は、平常通り能力を行使できるようになった。

夢の世界は物理法則が作用していないため、当該する人物の顔と所在地までの経路を脳内で反芻することで一気にその人物の記憶にアクセスできる。そのため、事前にスリーパーのいる場所を知っている必要がある。審は眠る前にストリートビューで自宅から姫乃風花の居る所在地までを確認しておいた。幸い同じ都内に在住しているらしいため、審はその日のうちに姫乃風花の所在地を把握することができた。ただ、その時に気掛かりだったのが、手紙に記されてあった姫乃風花の所在地は、ストリートビューで辿ると病院に行き着いたことだ。姫乃風花は病人なのだろうか。

審が能力を行使する際の原理に基づいて、審は姫乃風花の顔写真を思い浮かべながら眠った。その結果、目の前に無尽蔵の記憶が目の前に広がっている。どうやら、手紙には嘘っぱちの住所や顔写真が用いられていたわけではなさそうだった。姫乃風花は間違いなく、今は眠っている最中だ。

審とスリーパーの物理的距離に応じて創れる記憶の階層数と夢の長さは変化する。姫乃風花の所在地からして、創れる夢の階層数は一つで、夢の長さは八時間ほどだろうか。

審は早速、記憶を追体験し、具現化しようと手をかざした。しかし、審は手紙でどの記憶を流用するか指示がなかったことを思い出した。

「どうするか」

 しばらく考えてみて、審は思い至った。審は、夢を見ている本人が特に印象に残っている記憶を感知することができる。その能力を利用して、審はランダムで大量に貯蔵された記憶の海から一つ、記憶を抽出しようと考えた。抽出されたそれらのうち、楽しい思い出を夢として選んでやろう。

 そう考えた審は、早速実行に移した。手をかざし、記憶にこもった思い入れの強いものが目の前にやって来るようにイメージをした。すると、真っ先に出てきたのは真っ白い風景を映し出した記憶だった。審はそれに意識を馳せると、吸い込まれるように追体験が始まった。

 寒い。とにかく、寒い。どこか現実感がなくて、自分は本当に生きているのかどうかも分からない。暗い洞窟の中に、姫乃風花の視点はあった。洞窟の外は一面が真っ白で、どうやら雪が降り注いでいるらしい。かなりの猛吹雪と見えて、積雪量も激しい様子だ。側には誰か分からないが、小学校高学年か中学生くらいの男がいる。

「風花、大丈夫?」

 男が心配そうに顔を覗き込んできた。

「もうすぐ駿河が大人たちを連れて来てくれるよ」

 男はそう言って、姫乃風花の額を撫でた。姫乃風花と同期している審は、男の所作が姫乃風花に与えた安心感を察知した。

「ありがとう」

 どうやら姫乃風花が発した言葉のようだ。

「ねぇ、手繋いでもいい?」

 今にも凍えそうで声を出すのもやっとな姫乃風花は、か細い声で男に言った。男は神妙な面持ちで振り向くと、静かに頷いた。そして、分厚い手袋を嵌めた手で、姫乃風花の手を握った。互いに手袋をしているせいで直接的な体温は感じられないが、姫乃風花は十分な安らぎを得た。

 審はこの記憶における一連の流れで理解した。姫乃風花は、この男に恋をしているらしい。姫乃風花は不安な気持ちを繋いだ手に託しながら、必死に歯を食いしばった。今にも眠ってしまいそうだが、そうしてしまうと命はないと本能的に理解していた。

 しばらく手を繋いだまま、一言二言、男は姫乃風花が眠らないように話しかけていた。しかし、突然男は「あっ」と声を上げた。

「今、そこで何かが光った! 僕たちを探してくれてる人かもしれない!」

 男は興奮した様子で捲し立てた。

「どうしよう、呼びに行った方がいいのかな」

 そう言いながら男は、洞窟の外と姫乃風花の顔を交互に見た。姫乃風花は、男が一刻も早く助けを呼ぼうとしているが、自分が足枷となってそのチャンスを失いそうになっていることを理解した。

 姫乃風花にとっては命綱とも云える男が側を離れることに不安を抱いたが、自分はおろか男にまで危険が及ぶと判断した。姫乃風花は勇気と力を振り絞って、男に言った。

「梵、私のことはいいから、私たちがここにいることを教えに行ってあげて」

 姫乃風花は白い息を目の前に散らしながら、朦朧とする意識の中で男に言った。

「でも……」

 男は躊躇う素振りを見せたが、姫乃風花は微笑み頷くことで意思を示した。男は迷った挙句に、

「分かった。すぐに戻って来るから。待ってて!」

 と言い残して、洞窟から去って行った。

 自身が梵と呼んだ男の温もりが洞窟から消え去ったような気がして、姫乃風花は自分の身体が急激に凍えていくのを感じた。そして、今まで必死に留めてきた意識が薄れていくのを自覚した。

「怖い。寒い。側にいて、梵」

 姫乃風花はうわ言のように呟きながら、意識を手放した。


 記憶の追体験が終わった審は、姫乃風花の過去に絶句した。まさに生と死の狭間という窮地に追いやられた体験をしたのだ。審は思い出すだけでも身震いした。

「流石に、この夢を具現化するわけにはいかないな」

 審はそう呟いて、他の記憶を探した。すると、今度はさきほどとは打って変わって夏の記憶が目の前で静止した。その記憶に焦点を当てると、再び追体験が始まった。

 目の前で綺麗な川が流れている。涼しい音に耳を澄ませていると、眠気が誘発される。蝉の音が絶え間なく鳴っていて、今が夏であることを体感気温以外の判断材料として用いることができる。

 川のほとりに立っている木の陰で、姫乃風花は座っている。左右には、さきほど姫乃風花に梵と呼ばれていた男と、もう一人は知らない男が眠っている。二人とも、姫乃風花の肩に頭を預けてすやすやと眠っている。顔と体格を見るに、さきほど雪景色の中で見た梵と一致している。姫乃風花は十二、三歳なのだろうか。だとすれば、姫乃風花がまだ幼い頃にテレビ出演をした審を認知していることがより不自然となるが。

 姫乃風花は眠っている梵の鼻をつまんだ。「んがっ」という声を上げた梵を起こさないように、必死に口元を押さえて笑うのを我慢した。

 それからしばらく、眠っている二人の顔に悪戯をしながら、やがて姫乃風花も睡魔に襲われた。自然の心地良さを感じたまま、姫乃風花は眠りに就いた。

 ここで記憶は途切れている。審はこの記憶を採用することに決めて、具現化する意志を持った。すると、その記憶が何かを覆うように広がる感覚があった。詳細は審にも分からないが、眠った瞬間に自分の意識が姫乃風花の所在地に赴き、そこで記憶を具現化することで姫乃風花の夢に被せられるというのが自身の見解である。実際に夢に記憶が重なっていることの証明としては、かつて被験体となった友人の言及や、テレビ番組における実験が挙げられる。体験者はオリジナルの夢を体験した後に、審が用意した記憶から構成された夢を体験し、目覚めるに至る。例外なくこうした現象が起きることから、その仮説は事実だろうと審は解釈している。

もしかすると他人の海馬にでも侵入して、そこで発生している夢に記憶を階層的に重ねているのではないだろうか、とも考えたことがある。だが、実際のところはやはり謎のままである。

 審は自身の役目は終えたと肩を下ろし、姫乃風花の記憶から意識を外した。その瞬間から、審は自身の夢に身を置いて、一般人と何ら変わらぬドリームライフを満喫することになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る