夢ⅲ

 夢の中で三日が経った。これが夢であることは肌で感じているのだけど、突然駿河が登場すること以外に一体どこに矛盾があるのか、まだ判断できていない。駿河が風花を揺すり起こそうとすることを除けば、現実世界そのものに思える。

 この世界が夢であるという自覚を持ったのが一昨日で、その日に駿河は僕と風花の前に現れた。風花の肩を揺らして「起きろ」と絶叫していた光景は鮮明に覚えている。駄菓子屋のおばさんに匿ってもらった後、念のために僕は風花を家まで送った。その日は駿河が現れることもなく、幼馴染でありながら連絡先を交換していなかった僕と風花は、また何かあった時のためにと互いの連絡先を登録した。

 次の日になって、僕と風花は一緒に登校した。また突然駿河が現れた時に備えての対策だった。二人で教室に入ると、駿河は驚いたようにこちらを見てきた。僕と風花は身構えたけど、駿河は前日のような剣幕を浮かべることもせず、すぐに視線を逸らした。やはりあの時に現れたのは、この世界の外、すなわち現実世界から風花の夢に干渉して来た駿河だと解釈して間違いないようだった。教室の中でクラスメイトたちと談笑に興じている目の前の駿河は、この世界の、風花が見ている夢の世界の存在らしい。つまり、僕と同類ということだ。

 学校に居る間は特に何か問題が起きることはなかった。事が動いたのは、やはり僕と風花が一緒に下校しているときだった。放課後になると同時に校舎を飛び出した僕と風花は、急いでバスに乗り込んだ。二人で警戒しながらバスに揺られ、そして地元に到着して歩き出したときだった。目の前に駿河が立っていた。この前のように、ラフな格好をしていた。おそらく、駿河も今眠っている状態で、だからその恰好のまま僕たちの前に現れたのだ。

「風花、悪い。この前は一方的に急かしちまって」

 駿河はバツが悪そうに頭を掻いた。風花は僕の袖を握りしめながら、少し震えた声で訊いた。

「私に、何の用?」

 風花の怯えた声に、駿河は傷ついたような顔をした。

「お前に、目覚めてほしいんだ」

「どうして? そのうち目覚めるんだから、放っておいてよ」

 風花のいつになく棘のある声に驚きながら、僕は切実な表情を浮かべる駿河を見据えた。

「お前はもう、四日も目覚めてないんだ」

 駿河の言葉に、僕は思わず顔を上げた。

「お前が目覚めてくれなきゃ、困るんだよ」

「……何それ。四日も目覚めないとか、そんなことあるわけないじゃん」

 風花は苦虫を嚙み潰したような顔をして駿河から顔を背けた。

「違う、本当なんだ。信じてくれ。俺が他人の夢にダイブすることができるのはよく知ってるだろう? そうじゃなきゃ、俺が唐突に風花の前に現れる説明がつかないはずだ。つまり、俺は現実世界で風花が眠り続けていることをこの目で見たから、風花の夢にダイブしたんだ」

 駿河の懸命な説得に対して、風花は静かに口を開いた。

「……じゃあ、どうして私は四日も眠り続けてるの?」

 風花の指摘に、駿河は言葉を詰まらせた。

「それと、どうしてさっきから梵には目を合わせないの? 昨日だってそう。まるで梵がこの場に居ないように振舞ってる。駿河、言ってたのに。梵とまた仲良くしたいって。あの言葉は嘘だったの? まだずっと、昔のことを引きずってるの?」

 風花は目に涙を浮かべながら、駿河を睨んだ。風花の言葉に、駿河は苦しそうな顔をして俯いた。しばらく無言の時間が続く中で、その沈黙を切り裂いたのは風花だった。

「行こ、梵」

 風花は僕の手を取ると、大股で歩き出した。僕は風花に先導されながら、佇む駿河を振り返った。駿河は力ない様子で僕たちが遠ざかっていくのを眺めていた。

 それが昨日起こった事の顛末である。そして今日、僕と風花はまたしても一緒に下校した。昨日の一件があるからか、夢の中の住人として存在する駿河とも、風花はぎくしゃくしてしまっているようだった。

「あのさ、風花。今日も送っていくよ」

「……うん」

 やっぱり不機嫌らしい風花は、今朝から何か考え込んでいる様子だった。僕は気まずく思いながら頭を掻いた。すると突然、風花が立ち止まってこちらを振り返った。

「ねぇ」

 不意に呼びかけられた僕は、「え?」と困惑した声を上げた。

「久しぶりに上がっていきなよ。私の部屋」

「うん……え?」

「決まりね」

「え、え? ちょっと!」

 僕の呼びかけには無視して風花はずんずんと先を進んで行く。僕は軽くパニック状態になりながら風花の後を追った。

 風花の家に到着するまで、駿河が現れることはなかった。僕は安堵した気持ちと同時に、あれだけなりふり構わず訴えかけてきた駿河が今日は現れないことを気掛かりに思った。

 風花は靴を脱ぐと、「どうぞ」とスリッパを出してくれた。僕はそれを履いて、風花を先頭に二階に上がった。

「お母さんまだ帰って来てないから、声の大きさ気遣わなくていいよ」

 風花の何気ない言葉に、僕は急激に緊張し始めた。分かっている。間違いなく今はそんな場合ではないし、風花にもその気はないはずだ。

 僕は邪な衝動が鎌首をもたげてくるのを宥めた。そんな僕の葛藤を気にしているはずもない風花は、自分の部屋のドアを開けて「どうぞ」と中に通してくれた。

「……懐かしいな」

 最後に風花の部屋に入ったのは、それこそ小学校を卒業する直前くらいだ。それから随分と時間が経ってしまったけど、部屋の様子はあまり変わっていない。風花の匂いが部屋中に漂っていて、当時の記憶が脳裏をかすめた。無自覚のうちに泣きそうになっていることに気付いて、僕は慌てて鼻を啜った。

 僕は部屋の端に鞄を置いた。風花は机の横に鞄を掛けて、座布団を敷いてくれた。座るように促されて、僕は落ち着かない気持ちのまま従った。

 改めて部屋を見渡すと、前には見かけなかった化粧品やドレッサーが机の横にあった。高校生にもなったのだから、化粧の一つや二つするのも当然か。

「飲み物取って来るから、ちょっと待ってて」

「あ、お構いなく!」

 僕が慌てて答えたのに笑いながら、風花は部屋を出て行こうとした。けれど、すぐに引き返して机に並んだ参考書群を漁った。そして、見覚えのあるものを僕に手渡してきた。

「小学校の卒業アルバム。暇だろうから見てて」

 そう言うと風花は、今度こそ部屋から出て行った。階段を下る音が聞こえた。

 僕はアルバムを捲った。昔を思い出すのが嫌で、僕は意図的にアルバムを見ないようにしていた。卒業前に一度見たことがあるきりだから、当然内容はほとんど覚えていなかった。目に入ってくる写真全てが懐かしくて、ページを捲る手が止まらなかった。

 しばらくページを捲っていると、なんと低学年の頃の写真が現れた。その中に、僕と風花が二人で写っている写真に目が留まった。

「白雪姫の劇かぁ。懐かしいね」

「うわっ」

「ふふふ、随分と見入ってたね」

 風花は僕の反応に満足気な笑みを浮かべると、オレンジジュースとクッキーが乗せられたお盆を床に置いた。

「この時は、王子様役が梵で、白雪姫が私だったよね」

「……そうだね。あの時は、駿河が違うクラスだったから」

「ううん。きっと、駿河が同じクラスでも、梵が王子様になってくれてたよ」

 風花のどこか力強い言葉に、僕は思わず目を見開いた。風花はオレンジジュースを一気に飲み干すと、息を吐いて言った。

「写真に撮られた時期の私、いじめられてたでしょ?」

 風花が突然そう言ったことに、僕は狼狽した。

「え、あ、うん……」

「いじめられてたせいで、クラスメイトたちが口裏を合わせて私を白雪姫にした。きっと、誰も王子様役が出ないことを見越してそうしたんだろうね。事実、誰も私の相手役に立候補しなかった」

 風花は視線を遠くに置いて、過去を振り返りながら話した。その口調は淡々としていて、過去に負った痛みをまるで感じている様子もない。

「いよいよ先生も困ってたときに、梵が手を挙げてくれた。その時の光景は、今でもはっきりと覚えてる」

 風花はそう言って微笑みながら僕を見つめた。

「人前で目立つようなことするのが苦手なくせに、無理しちゃってさ」

「し、仕方ないだろ。あの時は、そうするしかなかった」

「うん、ありがとう」

 風花はそう言うと座り込んだ。そして、僕に目線を揃えて言った。

「なのに、今は王子様役に立候補してくれないんだね」

 風花は顔をぐいっと近づけて来た。

「え、いや、そりゃあ、あの時とは状況が違うし、何より駿河が立候補してくれたし」

「私は、梵に立候補してほしかった」

「そ、それはまた、次の機会に」

「……次なんてないよ」

 風花は寂し気な表情を浮かべながら俯いた。それからしばらく無言の時間が続き、僕が痺れを切らして何か話そうと口を開きかけた瞬間、風花は何かを思いついたみたいに顔を上げた。「ねぇ、今ここで練習しない? 白雪姫を眠りから目覚めさせる練習。梵が王子様役ね」

「……は?」

「今からベッドで眠るから、梵は王子様としての役目を果たして」

「役目って?」

「分かってるでしょ」

 風花はそう言うと、本当にベッドの上に寝転んだ。突然の展開に頭が追い付かず、僕はただただ茫然としていた。それから時間が経っても、風花は一向に目を開ける様子はなかった。本当に毒リンゴを食べてしまったかのように、息をしているかどうかさえ判別できない。それはきっと、風花の演技が上手い以上に、僕の精神状態がまともではないからだった。

「ほ、本当にするの?」

 僕の問いかけに答えることのない風花を見て、僕は恐る恐るベッドに手を掛けた。そして、風花の上に跨った。ベッドの軋む音がしたけど、風花は一向に反応を示す気配がない。

「マジかよ」

 息を吐くように呟いて、僕は高鳴る鼓動を押さえた。落ち着け。これからどうすればいいのか考えろ。風花は王子様の役目を果たすように僕に指示した。王子様の役目とは、考えなくとも分かる。キスだ。この間の時点ではこの夢が僕の夢である可能性も考えられたが、昨日の一件でこの夢の創造主が風花であることはほとんど決定したようなものだ。つまり、風花は今、僕とこんな状況に陥る夢を見ているわけで、かつ、それを望んで見ていると云える。それなら、いいんじゃないだろうか。このままキスしても、一線を超えても、それで。

 僕が葛藤していると、風花がゆっくりと目を開いた。

「意気地なし。あの時は、キスしてくれたのに。じゃあ、私が梵の王子様になってあげようか?」

 そう言うと、風花は僕の首に腕を回してきた。そして、僕を風花の方へと抱き寄せた。僕と風花の顔の距離がセンチメートル未満になったところで、僕は正気に戻った。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 風花の腕を振り払って、僕はよろけるようにベッドから避難した。

「ご、ごめん。なんか、このまま進んじゃうと、取り返しのつかないようなことになりそうで」

 僕が頭を下げると、風花が突然笑い出した。

「あははは。ごめんごめん。からかい過ぎちゃった」

「……え?」

 風花は目に涙を溜めて指でそれを拭った。

「梵が私の家に来たのが久しぶりで舞い上がっちゃった。それで梵をからかっちゃおうと思って。まさかそんなに真剣になられるとは思わなかったから。どう? 私の演技。白雪姫務まりそう?」

「……名女優だよ」

「やった。梵にお墨付きもらえた」

 風花は満面の笑みでVサインした。僕は全身から力が抜けるのを感じて頭を抱えた。

「なんだよもう、本当にびっくりした」

「ごめんごめん。ちょっと雰囲気に呑まれそうになってなかった?」

「…………さあね」

 僕は少しムッとして風花から顔を背けた。

「ごめんごめん」

 風花は謝ると、「まあ飲みなさい」とまだ手をつけていなかったオレンジジュースを差し出した。僕はそれを受け取って一気に飲み干した。少しは冷静さを取り戻せた気がした。

 僕は口元を拭ってから、本来ここで風花と話したかったことについて言及した。

「あのさ、駿河のことなんだけど」

 僕の言葉に、風花の表情がシリアスなものに変わった。若干身体が強張っているように思えた。

「やっぱり駿河があれだけ必死になってるのには、何か理由があると思うんだ。駿河は風花が嫌がるようなことはしないはずだから、無意味に風花の夢に潜り込んでるわけじゃないと思う」

「……うん。それは、分かってる」

「駿河は、風花がもう四日も目覚めてないって言ってた」

「…………」

「何か心当たりはない?」

「……ない。本当に、思い出せないの」

 風花は力なく首を振った。

「駿河の言葉が本当だったとして、四日間も眠り続けてるのは只事じゃない。何が原因で風花は現実世界で眠り続けてるんだろう」

 僕が腕を組むと、風花は言った。

「駿河は四日って言ってるけど、私たちが過ごしているこの世界はまだ三日しか経ってない。私の夢は、現実世界と呼応した時間の長さが流れてる。つまり、私がこの夢を見始めたのは、眠り始めてから一日以上が経過していることになる」

「……それってつまり、どういうことなの?」

「私の平均睡眠時間が八時間で、基本的にはそのうち数時間夢を見るの。眠る前に夢を思い描いて。その時に、私の能力には一つ特徴があるの。私が思い描いた夢が長ければ長いほど、夢を見始める時間が遅れてしまう。例えば一時間程度の夢を見ようとしたら、眠り始めてすぐに夢を見るの」

「え、自覚できてるなら、いつから風花がこの夢を見始めたのか分かるんじゃ」

「あ、ごめん。そういうわけじゃなくて、お母さんが私の寝言を聞いて知ったことなの」

「え、寝言?」

「うん。私、結構寝言がはっきりしてるらしくて、お母さんに指摘されたことがあるの。眠ってすぐに寝言を言うこともあれば、深夜に寝言を言うこともあるらしいの。ちょうど私が見ていた夢の内容を口にしていたらしくて、そこから法則性を見出したんだ。眠り始めてすぐに夢を見るときは、決まって短い夢を見るとき。眠り始めてしばらくして夢を見るときは、長い夢を見るときだって」

「寝言、大きいんだね」

「……い、今はそんな話してない!」

「さっきのやり取り、もしかして誰かに聞かれてる可能性ない?」

「……あ」

 風花は僕の指摘に顔を真っ赤にした。その様子がおかしくてつい笑ってしまった。風花はぎろりとこちらを睨んできた。

「とにかく、これだけ長い夢を見続けてるってことは、駿河が言ったことは本当なんだと思う。私はきっと、数日間眠り続けてる。睡眠のサイクルは一般の人と同じだから、結局八時間以上の夢を構築したところで、全てを見終えることのないまま目覚めてしまう。駿河の言っていた時間と私たちの世界の時間にズレがあるのは、あまりにも長い夢を私が思い描いたからで、その夢を今も見続けることができているのは、私がどういうわけか長い眠りに就いているから」

「一時間あたりの夢で、実際に夢を見始めるのにどれくらい遅延があるのか分かれば、おおよそこの夢がいつまで続くか分かるんだけど」

「現実世界と夢の世界のズレが一日だと仮定した場合だよね。ごめん。流石にそこまでのデータは取れてないなぁ」

「要するに、夢の内容量に応じて、夢が発現する時間が遅くなる。このことからやっぱり、風花は数日前から今も眠り続けてるんだね」

「……そうみたいだね」

 風花が表情に陰りを落とした気がした。

僕は風花と話していてずっと気に掛かっていることがあった。僕はそのことについて、思い切って訊いてみた。

「ねぇ、もしかして、風花は夢から覚めたくないの?」

 風花は僕の指摘に、ゆっくりと顔を上げた。何故か泣きそうな顔をしながら風花は頷いた。

「……うん。どうしてかは分からないけど、目覚めてしまえば何かを失ってしまうような気がするの。とても大切な何かが。もう、取り返しのつかない事態になってしまうような、そんな予感がする」

 風花は身震いするように自分の身体を抱き寄せた。

「何かって、一体……」

「私、普段こんなにも長い夢を見ることなんてない。駿河が現れるまで、これが夢だなんて全く気付いてなかった。どうして私は、こんなにもリアルな夢を創ったんだろう。どうして、こんなにも長い夢を見ることにしたんだろう。ずっと、この間から考えてた。私はきっと、自分が長い眠りに就くことを予期して、予め長い夢を思い描いていたことになる。それが何か、とても重要なことに思える」

 風花は神妙な面持ちでそう言った。

「でも、よっぽどのことがないと四日も眠らないよ。僕は現実世界で風花の身に何があったのか、心配なんだ。僕は、風花は目覚めた方がいいと思ってる」

 僕の言葉に、風花は頷いた。

「分かってる。でも、なんだか、今こうやって梵と話している時間がすごく大切なものに思えるんだ」

 その後はしんみりした空気になって、僕たちは無言でクッキーを食べた。風花のお母さんが帰って来ないうちにお暇する意思を提示すると、「実は今日、お母さん友達の家に泊まるんだ」と風花は返した。僕は再び鼓動が高鳴るのを感じながら、「何かあったら連絡して」とだけ言い残し、風花の家を後にした。それから自宅にたどり着くまで、駿河が現れることはなかった。

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