夢ⅱ

「梵、どうしたの?」

「……え?」

 風花が不思議そうに僕の顔を見つめて首を傾げている。風花の言葉を受けて周りを見渡すと、自分が今バスに乗っていることを思い出した。

「ごめん、やっぱり急に言われても困るよね」

 風花は申し訳なさそうに笑った。その言葉の意味を咀嚼するのに数舜遅れた僕は、さっきまで僕が置かれていた状況を思い出した。

 そうだ。僕は、風花に告白されていたんだ。

 そのことを思い出した瞬間、僕は急激に顔が熱くなるのを感じるとともに狼狽した。どう返事をするべきなのか皆目見当もつかない。

「いや、えっと、困るというかなんというか……」

 僕は漫画だったら汗の粒を大量に飛ばしているだろうと思えるくらい滑稽に慌てた。風花はそんな僕の様子を見てクスクスと笑った。

「いや、あの、突然のことで驚いただけで……」

「うん、分かってるよ。ただ、私の気持ちを知っておいて欲しかっただけ。だから、明日から私に話しかけられても無視しないでね。こう見えて、結構傷ついてたんだから」

 風花はそう言って僕にウインクした。

 それから目的のバス停に到着するまで、僕と風花が言葉を交わすことはなかった。けれど不思議と不快感や気まずさはなかった。途中のバス停で先ほどまで乗り合わせていた他校の男子生徒とサラリーマンが降車するのをむしろ好機と見た自分さえいた。いや、別にバスの中でどうこうするつもりはないけれど。

 僕はまるで現実味を感じることができないまま、バス停を降りた。もちろん風花も一緒に降りた。そこからしばらくは僕たちの帰路は重なっている。つまり、必然的に一緒に帰ることになる。なんとなく緊張していると、風花がもじもじしながら言った。

「一緒に帰りたいんだけど、ちょっとお手洗いに行きたいんだよね。待っててもらってもいい?」

 風花の嘘とも真ともとれる言葉に、僕は頷いた。ある意味ハーフタイムとも呼べる提案に、僕は正直安堵を覚えていた。風花は「ごめんね」と手を顔の前で立ててから、僕に背を向けた。小走りする風花の後ろ姿を呆然としながら眺めた。近くのデパートのトイレに向かったらしい。

 風花の姿が見えなくなったところで、僕は溜息を吐いて思わずしゃがみ込んだ。

「これも、夢なのか」

 頭を抱え込みながら、僕は独り言ちた。風花に告白されたあたりから、僕はずっとこれが夢だという警鐘が頭の中で鳴り響いていた。どこに矛盾点があるのかは分からない。もしかすると風花とこうやって昔みたいに話すことができていること自体おかしいのかもしれない。

 ただ、今回の夢に関して、今までにはなかった点がある。それは、今日一日の出来事について最初から夢だという自覚を持っていなかったことだ。僕が今見ている世界が夢だと自覚したのは、風花と一緒にバスに乗っている最中だった。それ以前の記憶は明確にあり、かつ夢を見ているときに抱く違和感は一切なかった。

「どういうことだろう」

 僕は独り言を呟きながら考えた。風花に声を掛けられて一緒にバスに乗るまでは現実だったはずだ。けれど、バスに揺られている最中にどういうわけか僕は居眠りをしてしまった。それを機に、僕は風花に告白されるという都合の良い夢を見始めてしまった。

 これが現時点で考えられる一番合理的な経緯の説明だろう。しかも、その夢は今尚続いてしまっている。

「どこまで図々しい奴なんだ、僕は」

 自分の願望丸出しの夢に思わずこめかみを押さえた。残念ながら夢から覚める手立てはない。目覚ましも掛けていないので、僕が目を覚ますには誰かが起こしてくれるのを待つしかない。だとすれば、風花が僕を起こしてくれるのが最も現実的だろう。バスを降りるまでにそう時間が掛かるわけでもない。現実世界と夢の世界の時間の流れにおける関係性は今一つ分からないけど、そのうちこの夢は終わる。それまで、僕の居眠りが招いた甘美なこの夢を堪能するのは、過去の罪を背負う僕にとって許されないことなのだろうか。

 しばらくして戻って来た風花と一緒に、僕は下校した。見慣れた地元の景色の中、風花とこうして二人で帰ることが妙に懐かしくて、僕は鼻の奥で何かが冷たく刺すのを感じた。積る話はたくさんあるし、風花も僕に訊きたいことが山ほどあるはずだった。けれど風花は、他愛のない話をすることに徹してくれた。話題は専ら、文化祭にまつわるものだった。

「先生やクラスのみんなも言ってたけど、劇の主役が風花と駿河で良かったよ」

「……そうかな」

「そうだよ。二人とも、なんか主人公にぴったりな感じがするし。幼馴染として誇らしいよ。ま、ついさっきまで幼馴染二人から距離を置いていた僕が言うのもなんだけど」

 自虐的に笑って頭を掻いてみたけど、風花は無反応だった。もしかすると、今のノリは間違いだったのかもしれない。風花や駿河とはおろか、同級生とまともに話すことさえなかった僕の錆びついたコミュニケーションには仇となるような地雷がわんさか埋まっていそうだ。

 不機嫌そうに正面を見つめて歩いていた風花が、不意に口を開いた。

「どうして梵は王子様役に立候補しなかったの」

「……え? どうしてって、僕なんかに務まるわけないじゃん」

「そんなの、やってみなくちゃ分かんないじゃん」

「いやいや。風花や駿河みたいな人種しか無理だって」

「昔みたいに、私が白雪姫を演じるってなったら、梵も手を挙げてくれるかもって期待してたのに」

「……それは、昔のことだよ」

 風花は唇を尖らせながら歩調を速めた。もしかすると風花は、僕と話すきっかけが欲しくて白雪姫になったのかもしれない。僕と風花が演者になれば、当然関わる機会が増えることになる。風花はいつも、僕との関係を修復するために、色々と画策してくれているのかもしれない。

 それにしても都合の良い夢だと我ながら呆れた。けれど、もしかすると現実もこうなのかもしれないという希望も少し湧いた気がした。不機嫌に前を歩く風花には申し訳ないけど、僕は今上機嫌だ。

 しばらくすると機嫌を直した風花と、久しぶりに駄菓子屋に寄った。昔、風花と駿河と一緒に足を運んだ思い出のお店だ。ただ、残念なことにそこに居たおばあちゃんは亡くなって、今は娘さんが後を継いでいる。まさにその当人である愛想の良いおばさんに会釈をしてから、僕と風花はソフトクリームを買った。

 蒸し暑い日に食べるアイスは格別だ。さっきまで不機嫌だったことを忘れてしまったかのように、風花はソフトクリームを堪能している。

 再び他愛もない話をしながら、僕たちは家までの道を歩いた。道中で靴紐が解けてしまい、僕は結び直すために風花にソフトクリームを持ってもらった。時間にしてほんの数秒だった。僕は紐を結び終えて立ち上がり、風花にお礼を言ってからソフトクリームを受け取ろうとした。けれど、風花は口を小さく開いて前方を凝視していた。風花の視線に合わせて僕も前を向いた。そして、思わず一歩後退った。

 そこには、駿河が立っていた。しまった、と思った。まだ駿河には謝ることもできていないのに、風花と仲睦まじく下校している姿を見せたことで顰蹙を買ってしまうのではないかと身構えた。けれど、その緊張感はすぐに霧散した。というのも、今の状況がおかしなものだと気付いたからだ。駿河は何故か上が半袖のシャツに下がジャージというラフな格好だった。学校帰りなのだから、制服か少なくとも部活のユニフォームを着ている必要があるはずだ。そして、最も不可解なのが、僕たちよりも先回りしてここに居ることだ。僕は確かに教室に駿河が居ることを確認して学校を出た。風花はそんな僕を追いかけて来た。二人してかなり早い時間帯でバスに乗った。途中で風花がトイレに立ち寄ったり、駄菓子屋でソフトクリームを買ったりした時間を考慮しても、駿河が今ここに居るのはおかしい。僕たちが乗ったバスと次に来るバスの間には、二十分の幅がある。つまり、僕たちと一緒のバスに乗らない限り、現時点でここに到着することは不可能なのだ。

 僕は、これが夢による矛盾なのか、と思った。そのヒントを基に、僕が夢の矛盾点をさらに探そうと腕を組んだ瞬間、駿河がずかずかとこちらに歩み寄って来た。

 おそらくは風花も僕と同じ疑問を抱いたのだろう。駿河がこちらに向かって来ることにどこか緊張した面持ちをしている。

 やがて駿河は風花の目の前で立ち止まった。そして次の瞬間、駿河は風花の肩を掴んで揺らした。

「風花! 起きろ!」

 駿河は物凄い剣幕で風花を揺らし始めた。突然のことに、僕は呆気に取られてその光景を眺めることしかできなかった。風花はソフトクリームを二つ手に持ったまま駿河に揺らされている。

「これは夢なんだ! 頼むから起きてくれ!」

 駿河は周りの人間にはお構いなしに叫んだ。徐々に風花の表情が恐怖に歪んでいくのを横目に見た僕は、思わず駿河に言った。

「やめろよ、駿河! 一体どうしたんだ!」

 駿河は僕の言葉に気付いていないのか無視をしているのか、構わず風花に「起きろ!」と訴えかけている。

 風花はやがて、「嫌! やめて!」と駿河を突き飛ばした。ソフトクリームが二つ地面に落ちた。風花の目には涙が浮かんでいる。僕は咄嗟に風花の手首を掴んだ。

「逃げよう!」

 風花の同意を待たないまま、僕は風花の手を引いて駆け出した。バスケ部で元々運動におけるポテンシャルが高い駿河のことだ。すぐに追いつかれることは分かっていた。けれど、今の駿河には何を言っても通じそうにない。だとすれば逃げるしかない。

 僕と風花は必死に駿河から逃げた。振り返ると、駿河は猛スピードでこちらに迫って来ているのが確認できた。このまま直進して逃げても振り切れるはずもない。僕は風花の手を引いて、先ほどの駄菓子屋さんに駆け込んだ。

「おばさん、すみません! ちょっと匿ってもらってもいいですか?」

 突然そう叫ばれておばさんは驚いた様子だったけど、僕と風花の切迫した表情を読み取ったのか「おいで」と奥の居間に通してくれた。僕と風花は息を切らしながら、居間と駄菓子の販売スペースの間に設けられたパーテーションから顔を覗かせた。駄菓子屋さんの前で、駿河はじっとこちらを見つめている。けれど、しばらくして諦めたのか、どこかに姿を消した。僕と風花は思わず座り込んだ。そこへ、おばさんがお茶を持って来てくれた。

「さっきここでソフトクリームを買ってくれた子たちよね」

 おばさんの確認に頷きながら、僕と風花はお茶を受け取った。

「すみません、突然」

「いいえ。でも、大丈夫なの? さっきお店の前に居た男の子に追いかけられてたの?」

「あぁ、はい」

「二人とも、随分と慌てていたようだけど、何かよっぽどのことがあったんじゃない?」

「……ちょっと悪ふざけが過ぎたと言いますか。怒らせてしまって」

僕は咄嗟に嘘を吐いた。

「あらあら。あなたたちが原因だったのね」

「はい。後で謝っておきます。本当に、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

 僕が頭を下げると、風花も習って同じ動作をした。

「見たところ、二人とも良い子そうだから、他人に迷惑を掛けるつもりじゃなかったのは分かるわ。若いんだから、衝突の一つや二つ、あって当然よね。私のことは気にしなくていいのよ」

「すみません。ありがとうございます」

 おばさんの人柄に助けられて、僕と風花は気持ちを落ち着かせることに専念した。おばさんは気を使ってくれて、しばらく僕と風花を居間で二人きりにしてくれた。

「風花、大丈夫?」

「うん。でも、駿河は一体どうしちゃったんだろう」

 風花は心配そうに呟いた。

 さっきの様子を見るに、駿河から敵意を感じたわけではなかった。ただ、現実における物理法則を無視したようなパフォーマンスに恐怖を覚えたのだ。そしてそれは、この世界が夢であることに起因しているのだろう。確か駿河は、「起きろ」と風花に訴えかけていた。その意味を鑑みるに、

「この世界は、風花の創り出した夢」

 僕は呟いた。風花は僕の言葉にゆっくりとこちらを振り返った。

「私も、同じことを思った。だけど、昨日眠る前にこんな夢を見ようとした記憶はないの。ずっと、現実が続いている感覚が確かにある」

「でも、その感覚さえ、風花が眠る前にプログラムしたものだとしたら……」

「……駿河が私の夢に干渉して、私を起こそうとしている説明がつく」

「実は、さっきからずっと、僕はこの世界が夢だと気付いてた」

 僕が言うと、風花は驚いたようにこちらを見た。

「それなら、この世界は梵の夢じゃない?」

「僕の絶対夢感が働いているということは、この夢の創造主は僕だってことだよね。だけど、一番可能性として高いのは、やっぱりこの世界が風花の夢だってことだね。僕も今まで知らなかったけど、誰かの夢の住人として存在する僕は、他人の夢に居ながら自分が夢の世界に居ることを認知できるのかもしれない。つまり、僕が夢を夢だと認識できるのは、自分の夢だけじゃなく、他人の夢もその対象としている可能性がある。あるいは、風花が僕をそういう風にプログラムした夢を創っているのかもしれない」

 この世界が風花の夢だとすれば、突発的にバスの中で僕が居眠りをしたという無茶な状況も説明がつく。いや、だとしても、風花が僕の隣で突然居眠りを始めなければならないわけで、どちらにせよ不自然な状況が現実世界で起きていることになる。まずい、混乱してきた。

 必死に頭を働かせていると、着ていたカーディガンの袖を引っ張られた。

「どうしたの?」

「……どうして、私はこんな夢を見ようとしたんだろう」

「どうしても思い出せない?」

 僕が訊くと、風花は首を振った。声といい表情といい、風花が不安に思っていることは明らかだった。

「仕方ないか。風花はこの世界を初めから続いている世界として創りあげたんだから。自分自身も含めてね」

「……うん」

 風花は一層袖を掴む力を強めると、潤ませた目を僕に向けてきた。僕は思わず風花の頭を撫でた。落ち着かせるためだ。

「とりあえず、家まで送るよ」

 僕が言うと、風花は小さく頷いた。

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