現実2

 砂田審は一緒に住む小野寺玲子からコーヒーを受け取った。

「ありがとう。叔母さん」

 玲子は審のお礼に微笑んでから台所へ向かい、食器を洗い始めた。

 審はコーヒーを片手にテレビを観始めた。番組はちょうど可愛らしい動物たちの特集を終え、ニュースにコーナーを移した。トップニュースは、二日前と同じものだった。

都内でバスの運転手が心筋梗塞を発症して車体が横転したという事故。周囲の車も巻き込んだ大規模な事故だったものの、それらの運転手は全員無事だったそうだ。バスに乗り合わせていたのは運転手を含めて五人で、うち運転手と男子高校生が死亡し、乗り合わせていた他の三人が意識不明の重体だというのが二日前のニュースだったが、少し進展があったらしい。意識を失っていた三人のうち二人が目を覚ましたというのだ。一人は昨日の午前に、もう一人は昨夜目を覚ましたという。

 ニュースはやがて経済の話になり、審はさっきのニュースで男子高校生が死亡したことについて思考を馳せていた。テレビで表示されていたその人物の年齢が、自分と全く同じだったからだ。もちろん、自分と同じ年齢の人間が死ぬことは当然起こりうることだと理解しているが、審はたった十七歳の自分が死ぬことがイメージできなかった。彼ではなく、自分だって等しく事故に巻き込まれる可能性はあるのだ。今日だけでも気を引き締めて通学路を歩こうと審は誓った。

 玄関に設置されたアンティーク鏡の前でネクタイを締めた後、審はリビングに居る玲子に向かって言った。

「行って来ます。叔母さん」

「行ってらっしゃい」

 玲子の返答を背に審は家を出た。

欠伸をしながら住宅街を縫って歩いていると、何やら後をつけられているような気がして審は振り返った。後ろ二十メートルほど離れたところで、三十代半ばか四十代前半だと思われる男が目に入った。だが、特に怪しい様子はない。ただ、多くの場合、その男の歳ならばこれから通勤するのが一般的だろう。しかしその男は、スーツではなくラフなシャツとジーンズというコンビニに買い物に行くような恰好を身に纏っている。審はそのことを不思議に思った。

やがて繁華街に突入して五分ほど歩いたところで、未だに男が同じ距離感で自分に後続していることに気付き、流石に違和感を抱いた。それというのも、時間に余裕を持って家を出たため、普通ならば通勤にも買い物にも適さないような方角に、あえて通り辛い路地を選んで歩いていたのだ。それなのに、男はずっと後ろに居る。審は自分が尾行されていることを自覚して、もしものことがあったときのために逃げ出す用意をしながら歩を速めた。

そのうち自分が通う高校付近に出て、自分と同じ制服を着た生徒たちが歩く通学路に差し掛かった。もともと朝という事件に巻き込まれにくい時間帯だったこともあり過度に警戒していたわけではないが、それでも何かあったら必ず目立つ場所に出たことに少し安堵した。それでも懲りずに自分をつけてくる男に辟易して、審は立ち止まった。男も審が立ち止まるのを見て足を止めた。が、審が動き出さない様子を見ると、男は審に近づいて来た。そして、周りに不審がられない程度に審と会話できる距離まで近づくと、男は立ち止まり審に目線を合わせた。

「なんすか」

 審はイライラしながら男に訊いた。

「いや、悪いね。ちょっと君から聞かせてほしいことがあったものでね」

 男の言葉に、審はやられたと舌打ちした。どうやら男は、突然声を掛ければ審が警戒することが目に見えていたため、あえて審から声を掛けてもらう状況を作り出したらしかった。おそらく、朝の時間帯を狙ったのも、審の警戒心を解くためだったのだろう。昼の間は、審は高校生として学校で授業を受けており、接触できない。だからといって夕方以降に尾行でもすれば、当然怪しまれる。だから、あえてこの時間帯に審を尾行したのだ。

 審の中で警戒心が募っていくのを横目に、男は胸ポケットからボールペンと手帳を取り出した。審は男の意図が読み取れずに目を細めた。

「砂田審。七歳にしてテレビ番組に出演。他人に自分の見せたい夢を見させることのできる超能力者。番組の特集で呼ばれた研究者が砂田審と被験者に実験を行ったところ、精度百パーセントで成功。砂田審は、本物の超能力者として一躍有名になった」

 男の言葉に、審は思わず固まった。もうとっくに過ぎた話で、日常生活の中でもそのときの記憶を思い出すことはなくなっていたのに。どうしてこの男は、今更そんな話を持ち出してきたのか。もう十年も前の話だ。

「……まだ俺に感心がある人が居るんすね」

「まあね。むしろ、昔あったことを掘り出すことで再度ブームになることもあるだろう?」

「あんた、記者の人か」

「おいおい、そんなに睨まないでくれよ。元、だよ。それに、こうやって君に接触したのは、別にマスコミに売ろうだとかそんなもののためじゃない。個人的なものだよ。そうだな、気休めが欲しいといったところかな」

「気休め?」

 審は記者という職業をこの世で最も憎悪している。記者がきっかけとなって、審は家庭が崩壊した過去を持っているからだ。

「七歳だった砂田審は、自身の持つ超能力が嘘であったと告白。息子自慢が激しかった母親は失望して君を置いて家を出た。君の父親が浮気していたこともあって、自分の家族に価値を見出せなくなって君を残したんだろうね。で、君の父親は元々君たちに思い入れはなかった。それでも離婚しなかったのは、タイミングよく君の超能力の存在に気付き、テレビで取り上げられたから。君がテレビに出ることによって発生した出演料が目当てだった。結構な額だったんだろう?」

「…………だから、なんだよ」

「なるほど。君は、随分と大人なようだね。私の喉笛に飛び掛かってもおかしくはないだろうに」

「話はそれだけですか? 学校に遅れるんで、俺はこれで」

 審は内心、動揺と怒りで気がおかしくなりそうだった。自分に制御が利かずに暴れ出してしまう前に、審はこの場を去ることにした。しかし、続く男の言葉で審は思わず立ち止まった。

「一度だけ、君の能力を私に使ってくれないか?」

「……どういうつもりで訊いてるんですか?」

 男の表情が、さっきまでとは打って変わって真剣なものになっていた。審は男の真意が掴めず困惑した。

「頼む」

 男は、審に頭を下げた。自分と男を横目に通り過ぎる生徒たちがこちらを振り返って何やらひそひそと話している。

「……あの、よく分かりませんが、やめてくれませんか」

 審の言葉に、男は顔を上げた。

「あんたも言ってた通り、俺の能力は嘘っぱちなんです。俺はあの時のことを思い出したくない。俺をペテン師扱いしたいなら好きにすればいい」

「君の能力が本物であることは、俺が一番よく知っている」

「何を根拠に」

「例のテレビ番組での被験者の一人が、俺だったからだ」

 真っ直ぐ視線を繋いでくる男の目は、言葉がなくとも信じるに値するものだった。

「……どういうことですか?」

 審は困惑しながら男に訊いた。

「当時記者だった俺は、上司と番組のコネで数人の被験者に紛れ込んだ。俺としては別に興味があったわけでもなかったし、君の能力を信じているわけでもなかった。それもそうだろう? たった七歳の子どもに何が出来るんだって話だからね」

「…………」

「でも、実験に参加して思い知った。昔飼っていた犬と散歩に行く夢を見た。死んだお袋と公園で遊ぶ夢を見た。初めて付き合った女の子とデートに行く夢を見た。最初に私が君に指示した内容の夢を、君はピンポイントで提示してきた。それではっきりと分かった。君は、自分の思うがままに他人に夢を見させることができるんだって」

 何か懇願するように男は審を見据えた。

 審には、男の列挙した夢を見せるように指示された記憶が残っていた。男の顔は流石に覚えていないが、その犬の名前は憶えている。夢の中で男が嬉しそうに犬の名前を呼んでいるのが、印象に残っているからだ。

「クルミ」

 審が呟くと、男は驚いた後、微笑んだ。

「覚えていたのか」

「うっすらとですが」

「だったら、話が早い」

「言っておきますが、俺は、思い通りに夢を見させることはできない。あくまで俺は、その人間の記憶の範囲内からでしか夢を作り出せない。いや、正確には夢じゃなく、思い出を再現させるのが、俺の能力だ」

「なんとなく分かっていたよ。君が私に見せた夢は、寸分の狂いなく事実に則ったものだった。つまり、君は他人の記憶をその本人に夢という認識の下で追体験させることができる」

「俺の能力で一つだけ制約があったことを覚えていますか?」

「一番最初に見る夢には干渉できない、だったかな」

「そうです。自然に見る夢がそもそもなければ、俺は夢を作り出すことはできない。つまり、眠ってもらわなければ俺の能力は使えない。まぁ、そのことを承知の上でなら、少しだけ話を聞きます」

「……恩に着るよ」

 男はほっとしたように溜息を吐いた。それから、審に向き直って背筋を伸ばした。

「二年前に、私の妻と娘が死んだんだ」

 男はそう言って、唇を噛んだ。

「…………」

「これが妻で、これが娘だ」

 男は携帯の写真から、男と女性、そして小さな女の子が並んだものを見せてきた。

「……奥さんは美人で、娘さんは可愛らしいですね」

「そうだろ? 私の自慢の妻と娘だった。本当に、愛していた」

 男は鼻を啜りながら「すまない」と目頭を押さえた。

「記者だった時代に張り込みの出張があって、同じ地域に一ヶ月滞在することになったんだ。だが、私の不在で娘がえらく嘆いたみたいでね。一日だけ、私が泊まるホテルに、妻と娘は電車で来ることになったんだ。しかし、二人が乗っていた電車は脱線して多くの犠牲者を出した。その中に、妻と娘も含まれていた」

 男は一度深呼吸してから、ゆっくりと審に目を合わせた。

「私が君に頼みたいことは、分かったかな?」

「……奥さんと娘さんに、夢の中で会わせてくれと?」

 審が確認すると、男は頷いた。どこか緊張した面持ちで審の表情を窺っているように見える。

「……分かりました。ただし、あなたが俺の能力を必要としている動機が不純なものだと気付いた際には、一切の弁明を聞かずに立ち去ります」

「あぁ、それでいい」

 男は安心したように頷いた。

 審はまだ、この男に対して警戒心を抱いている。どうして男の突飛な頼み事に首肯したのかというと、本人にもその正確な真意は分かっていない。今まで自分の能力が原因で他人や自分に不幸をもたらしてきたため、この男の役に立てばその罪を拭うことができると考えたのかもしれない。あくまで予想の域を越えないが。

 男は放課後にまた落ち合おうと提案してきたが、審は首を振った。夕方になると事件性が高くなってしまうからという懸念もあったが、どちらかといえば早くこの男の役に立ちたいという思いが審を急かしていた。

 男は審の反応を見届けると、「ついて来てくれ」という言葉を審に投げかけ、どこかに向かい始めた。審は男より一歩下がって歩いた。

 それから十分ほど歩き、男はある公園に足を踏み入れた。審もその後に続く。公園には誰もおらず、男は給水場で蛇口を捻ると、ポケットから取り出した何かを大量に口に押し込んで水道水を飲んだ。男は口元を拭うと、横長の長方形のベンチに向かった。木製のベンチを軋ませ、男は唸りながらベンチに寝転んだ。

「……あの、今のは?」

「睡眠薬だよ」

 男は気分が悪そうに目を細めながら言った。

「それより、今のうちに希望の夢を言うぞ。そうだな、妻と娘と遊ぶ夢を見せてくれ」

「……シチュエーションは?」

「それは任せる。それとも、指示した方がいいか?」

「いえ、記憶には自由にアクセスできるんで、機転は利かします」

「頼む。それと、夢は一つじゃなくてもいいか?」

「はい。ただ、稀に戻って来たくないと思う人も居るみたいなんで、大量に夢を作るのはおすすめしません」

「分かった。じゃあ、あと二つオーダーを追加する」

「分かりました」

「そうだな、一緒に飯を食ってる夢を頼む。場所は家で、妻と娘と三人だけで食卓を囲んでるんだ。そしてもう一つは、娘が小学校を卒業する夢を見させてくれ。できそうか?」

「あなたの中にその記憶があるのであれば」

「そうか。なら、安心だな。一日たりとも、忘れたことはない」

 男はそう言って、目元を腕で隠した。それからしばらくすると、男が寝息を立て出した。審は男の手に握られた睡眠薬をいくつか取ると、水道水で喉に流し込み、男が眠るベンチの隣で仰向けになった。太陽が眩しい。光が強いのにも関わらず、睡眠薬の効能ですぐに眠気が来た。審はそれに抗うことなく、男の顔を思い浮かべながら意識を手放した。

 気が付くと審の周囲には、男が過去に体験してきた記憶が一面にひしめき合っていた。記憶の一つ一つが長方形に切り取られた断片になっていて、まるで無数の写真が壁一面に飾られているように見える。これは、男の記憶にアクセスできる状態になったことを意味している。能力を行使するにおける特徴として、対象と審との距離に比例して夢を見させる時間と個数が減少していくことが挙げられる。つまり、対象と近ければ近いほど、より鮮明かつ多くの夢を見させることができるのだ。そういった条件により、男は審の絶好の被験者となる。審は空中に手をかざした。男の要望として挙げられた家族と遊んでいる様をイメージしながら。

 審は集中しながら手をかざし続けた。ホログラムのような男の記憶が映画のフィルムのように流れ続けていて、審の前を横切って行く。やがて、いくつかの記憶が他の記憶の流れを無視して審の前でピタリと止まった。やがてそれらは、審の下に迫って来た。その映像に意識を向けると、誰かが楽しげにはしゃぐ声が聞こえてきた。

「家族と遊んだ記憶……」

 家族で海に行った記憶、花火をした記憶、遊園地に行った記憶、スキーに行った記憶。そこに映るどの男も、満面の笑みを浮かべている。娘ははしゃいだ様子で男に抱きかかえられ、妻は男の肩に手を乗せて笑っている。

 審はいつの間にか、自分が泣いていることに気付いた。およそ自分が体験することのできなかった家族の時間をまざまざと見せつけられて、自分とは無縁だった幸せを想像して思わず涙を零したのだ。この世の中でこうも無条件に愛されることがあるのかと、審は驚愕したのだ。

 審は男が所望した三つの記憶を追体験し、それを具現化する意志を持つことで夢の生成が完了する。男は今見ているオリジナルの夢を見終えた後、この三つの層を一階層目から順に審が設けた夢として追体験し、各階層全てを意識が通過すると目覚めることになっている。当事者は、各階層の夢の中にある自分と完全に同期するため、自分が夢を見ていることには気付かない。つまり、体験者は明晰夢を見ることができないのだ。

 審は他人の夢を覗くことはできないが、記憶を具現化して夢に変換する際、当事者視点から夢を追体験する。審はさっき、記憶の保有者である男の視点から記憶を追体験し、その記憶を具現化することで人工的な夢の層を作り出した。今頃男が体験しているだろう夢の内容を、審は思い浮かべた。

 一層目の夢は、男が妻と娘と公園で遊ぶというものだ。

 男は蝶々を追いかける娘をベンチに座りながら眺めていた。娘が転んでも怪我をしないように、妻が腰を屈めながら娘の背中に手を添えて背後から追いかけている。やがて蝶々は娘の背丈では届かないほどの高さで飛行し始めた。それでも娘は諦めずに飛び跳ねた。

 蝶々は娘に脅威を抱いたのか、こちらに向かって飛んできた。男はゆっくりと人差し指を差し出した。すると、蝶々は指に止まった。その様子を見た娘は、「パパずるーい」と頬を膨らませた。

 娘はこちらに駆け寄り、ベンチから立ち上がった男の太ももに抱き着いた。男は娘を見下ろし、蝶々が逃げないようにしゃがんだ。そして、羽を休ませる蝶々を娘に近づけた。

「指を出してごらん」

 男の言葉に娘は素直に従った。娘が人差し指を出すと、そこに自分の指を傾けた。蝶々は娘の指に懐を移した。

「すごいすごい!」

 娘ははしゃいだ。男はその光景に思わず笑い、娘の頭を撫でた。

 娘は興味深そうに蝶々を顔に近づけて観察していた。しかし、数分が経つと蝶々はどこかへと飛んで行った。娘はすでに満足していたのか、その様子を見届けるだけで何も言うことはなかった。娘は蝶々が見えなくなるのを確認すると、こちらに視線を寄越してきた。それから満面の笑みを浮かべると、男の手を引いた。

「パパ、ブランコ!」

 娘が手を引くのに合わせて腰を屈めた。妻は男を見ると笑った。娘はブランコに座ってチェーンを握ると、「押して! 押して!」と無邪気に笑った。男は娘の背中を片手で支え、手に温もりを感じながら押し出した。

「きゃー」

 娘は楽しそうに大声で叫んだ。

「もっと強く押して!」

「おいおい、いいのか?」

「全然平気だもん!」

 男は懸念したが、こちらを振り返る娘の笑顔に逆らうことができずに、もちろんある程度の加減をしながらも娘の背中を押す力を強めた。娘はきゃっ、きゃっ、と嬉しそうに笑った。

 娘はブランコに飽きると、今度は妻のもとに駆け寄り、今度はシロツメクサで遊び始めた。妻と娘は器用に冠を作って頭に乗せて笑い合っていた。男はまた、ベンチに座ってその様子を眺めていた。

 数十分経つと、娘は両手を重ねて「パパー」と笑いながらこちらに走って来た。

「どうしたんだい?」

 男は娘の頭を撫でながらしゃがんだ。

「はい、これ」

 娘が両手を男の手に重ねると、恥ずかしそうに「きゃー」と顔を覆った。娘が渡してきたのは、シロツメクサの白い花が一つついたリングだった。

「これは?」

「指輪だよ。鈴葉、将来パパと結婚するから」

「……そうか。パパも、いつか鈴葉に指輪プレゼントするな」

「うんっ」

 男は娘からもらったシロツメクサの輪を指にはめて、娘を強く抱きしめた。

 娘は以降もはしゃぎ続け、夕方になるとベンチで男と妻に挟まれながら眠ってしまった。男と妻は顔を見合わせて笑った。男は娘を肩に担ぎ、妻と一緒に並んで歩いた。ここまでが、一つ目の階層だ。

 二つ目の階層では、男と妻と娘の三人で食卓を囲んでいる記憶が再現されている。

 男は妻に呼ばれてリビングに向かった。リビングのドアを開けると、甘酸っぱいような匂いがしてきた。妻は男の顔を見ると、「ご飯できたから座って」と言った。すでに娘は椅子に座って足をぶらぶらさせている。

 席に着くと、テーブルに並んでいるハンバーグが目に入った。大きめの白い皿の真ん中にハンバーグが、サイドには小さく切り分けられたじゃがいもとにんじん、そしてブロッコリーが添えられている。妻は白米と味噌汁を三人分リビングのテーブルに運び、座ったところで男と娘に目配せした。

「いただきます」

 手を合わせてそう言うと、妻は男の方をチラリと窺った。意図が掴めずに首を傾げると、妻は娘に目線をチラッとやった。妻の目線に合わせて振り向くと、娘はこちらをぼーっと見つめている。なるほど、父親が礼儀を重んじないと娘が「いただきます」を言わなくなってしまうことを懸念しているのか。

 妻に頷くと、男は手を合わせた。

「鈴葉、一緒にいただきますしよう」

「うん」

 娘はパチンと鳴らしながら手を合わせた。

「「いただきます」」

 男は娘の頭を撫でてから味噌汁を啜った。

「うん、うまいな」

「うふふ、でしょ」

 妻は男の感想に微笑んだ。

 男はハンバーグを食べた。デミグラスソースの甘酸っぱい舌触りと香りが口の中に広がった。妻特製のものだろうか。ハンバーグの硬さも焼け具合も申し分ない。男は味わいながら食べた。

「こら、鈴葉。野菜も食べる」

 突然妻が娘を窘めたのを聞いて、男は娘に視線を移した。娘は「だってぇ」と口を尖らせながらブロッコリーとにんじんをフォークで端に寄せている。

「まぁ、そう怒らなくても」

「もう、あなたは甘いんだから。栄養が偏ったら可愛くなれなくなるよ」

「もう十分可愛いから、少しくらいブサイクにならないとな。男が群がって仕方なくなる」

「私が言うのもなんだけど、あなたって本当に親馬鹿ね」

「なんとでも言うがいいさ」

 男はその後、口元をデミグラスソースで汚す娘を微笑みながら眺め、妻が娘を窘めながらティッシュで拭うのを見て笑った。

結局、男は娘のブロッコリーとにんじんを半分食べ、妻に睨まれながら涙目で訴えかけてくる娘に成す術なく頭を下げた。妻と一緒になって娘を応援し、娘が野菜を食べ終えるのを見届けた。娘が咀嚼を終え、苦々しい顔をしながら野菜を呑み込むのを見届けた視界が濁ったのは、男によるものなのか自分によるものなのか、審には判断がつかなかった。

最後の階層では、男が娘の卒業式に立ち会う記憶が再上映される。この夢を追体験すれば、男は夢から覚めて現実世界に戻って来ることになる。

視界はすでに、学校の体育館の中にあった。無数のスツール椅子に凭れかかる背中が並んでいて、子どもたちが舞台上で表彰状を受け取っている最中だった。

男の手にはビデオカメラがあり、娘の晴れ舞台をコンマ一秒たりとも見逃すまいと張り切っているように見える。隣からすすり泣く声がして振り向くと、まだ娘の表彰状の授与さえ終わっていないのに妻がハンカチを口元に押さえている。男は妻の肩に手を置いてさすった後、再び舞台上に視線を戻した。

タイミングよく娘の名前が呼ばれ、娘が椅子から立ち上がった。卒業式用に用意された黒を基調とした衣装を身に包んだ娘の姿は、今まで見たどの姿よりも大人びて見えた。

娘は緊張した面持ちで「はい」と大きな返事をし、舞台に上がった。ゆっくりと大げさに手の振る角度と歩幅を広げ、表彰状を手に生徒の到着を待つ校長の下に向かった。娘はこちらに背を向けて校長と対面した。

校長が表彰状に記された文字を読み上げ、微笑みながら「おめでとう」と娘に手渡した。丁寧な所作でそれを受け取った娘は神妙な表情のままこちらに振り返り、舞台を降りた。

他の生徒も娘に続いて表彰状を受け取り、いよいよ最後のプログラムに移行した。それは、卒業生全員が「旅立ちの日に」を合唱するというものだ。

 緊張した様子の卒業生たちは、何度も練習してきたであろう立ち位置につき、小さな舞台上の台に乗った指揮者に目線を合わせた。やがて指揮者が手を振り上げると、全員が後ろ手を組み、足を肩幅に開いた。指揮者がピアノの伴奏者に視線を配って手を振り始めると、それに合わせてピアノから音色が響いてきた。

 いよいよか、と居住まいを正したところで、娘がどこに立っているのかを把握していないことに気付いた。どうやら気付かぬうちに緊張が超過していたらしい。歌い始める前になんとか娘の姿を捉えると、男は慌ててビデオカメラを娘に合わせた。

「白い光の中に」

 卒業生たちの神妙な歌声の中、娘は仲間と一団となって歌っている。昔、家族でカラオケに行って好き放題叫んでいたときとは違う、周りと歩調を合わせた歌い方だった。

 サビに行く前だというのに、隣に座る妻は既に嗚咽を洩らしている。ただ、それは異様な光景ではないらしい。他の保護者たちも妻と同様に鼻を啜り、口元を押さえて我慢するような呻き声がそこかしこから聞こえてくる。男はその光景から再びビデオカメラに視線を移し、娘の姿を捉えた。もう卒業する歳になったのか、と改めて驚いた。ついこの間まで、娘は哺乳瓶を口にくわえて立つのもままならなかったはずだ。

社会の勝手が分からずにくすぶっていた自分に手を差し伸べた妻と結婚し、父親になる自覚のないまま娘を授かった。転職を繰り返し、やがて記者になって人の影や汚さを何度もこの目で見てきた。せめて娘は、こんな世界を目にしないように祈った。

自分なりに大切に育ててきたつもりだ。会社に行くときには駄々をこねられながら玄関で泣きつかれ、連勤で体力の限界を迎えているにも関わらず休日には娘と出掛け、娘の養育費に頬を引き攣らせながらがむしゃらに生きて来た毎日が、走馬灯のように目の裏を駆け巡った。

 そんな娘がいつの間にか自分の手から独立して、仲間とこうやって協力することができるようになっていたらしい。誰かと歩幅を合わせる、まさに社会の生き方を、自分が知らないうちに娘は体得していたのだ。人に気を使うこともできるようになったのかもしれない。

 そういえば、最近娘に無理を言われることがなくなっていた。休日は特に邪魔されることなく眠ることができているし、妻に手伝ってもらって健康に良い料理を振舞ってくれたりもした。つまり、娘は自分に気を使っていたのか。

「今別れのとき。飛び立とう。未来信じて」

 娘は既に涙を流しながら指揮者を必死に見つめていた。気付けば卒業生全員が目を赤くしている。涙を流すということは、娘にとって学校生活は充実したものだったのだろう。それは親冥利に尽きるというものだ。

これからもっと色々なことがあるだろう。中学生になったら、今までとは違った向き合い方で同級生に接していかなければならない。受験だってある。高校に入学して部活をして、いよいよ人生の進路選択が始まる。専門学校に行くのか、大学に行くのか、就職するのか。

そのうち伴侶を見つけて、気付けば自分の下に挨拶をしてくるのだろう。娘を渡してたまるものかとむきになる気持ちを抑えて、まずは一杯酒を呑み交わそうじゃないか。それよりも前に、自分と妻と娘の三人、家族団欒で呑んでみたいものだ。

「この広い。大空に」

 目が熱い。視界がぼやけている。せっかくの卒業式なのに、娘の姿をまともに見ることができない。何度目元を拭っても涙が溢れて止まない。後でビデオカメラに収められているはずの映像を見るしかなさそうだ。

 周囲から拍手が聞こえてきた。視界の中で歪む娘に向かって、男は小さく呟いた。

「どんな形だっていい。どうか幸せになってくれ、鈴葉」

 男とシンクロしていた審は、記憶の追体験が終わった後も涙が止まらなかったのを思い出した。赤の他人である自分でさえ、こうも感情を揺さぶられたのだ。男にとって二人を失ったことは、当然あるだろうと見据えていた未来が途絶えたことは、何と例えられるほどの絶望なのだろう。

 審は男よりも一足先に目が覚めた。視界の先に広がる空はすっかり夕焼けに覆われていて、随分と長い間眠っていたことを悟った。審は睡眠薬が体質に合わなかったのか頭痛を覚えながら身を起こした。ベンチを軋ませながら立ち上がり、水道の蛇口を捻って水を飲んだ。目前に広がる風景の輪郭がはっきりしていくのを感じてようやく現実に戻って来れた気がした。

 審は腕を目元に被せて眠る男を見下ろした。ちゃんと目覚めるのか少し心配になった。自分よりもさらに多い睡眠薬を口にした男の健康を確かめるため、審は男の顔に耳を近づけようとした。すると、男は掠れた声で呟いた。

「ありがとな」

 審は驚いて男から顔を離した。

 男は呻きながら身体を横にして縮めた。そして、うっ、うっ、と呻き声を上げた。

「目覚めたく、なかったなぁ」

 男はそう言うと、堰を切ったように嗚咽を洩らし始めた。審は何も声を掛けることができないまま、ただ男が泣き止むのを待った。


 男は泣き止み落ち着くと、審に頭を下げた。

「久しぶりに幸福を感じることができたよ。君には感謝する」

 そう言って上げられた男の顔には泣き腫らしたあとが残っていた。しかし、審と最初に出会ったときとは違って、何やら吹っ切れたような表情をしている。

「最初、無礼なことを言って済まなかった。記者だった頃の癖でね、つい」

「あぁ、いや」

「この礼は後日、改めてさせてもらう。済まないが今日はくたびれた」

 男は申し訳なさそうに謝った。

「いえ、お礼を受けるようなことはしてないんで」

「いいや。本当に君には救われたよ。それじゃあ、今日はこれで」

 男は審に頭を下げると、公園から出て行った。審は男の後ろ姿を見送ってから呟いた。

「……役に立ったんだな。俺の能力」

 審は少しだけ、過去の自分を赦せた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る