第17話 道は月夜に交錯する

 ドミトリーさんが窓向こうを見て何かを呟いた。帝都の方から腹に響くような低い号砲が聞こえたのは食後すぐのこと。そして、二度目の砲声が不安を掻き立てるように響く。三度目の砲声がたった今。サーシャが眉間にしわを寄せている。

「砲声は三回。それもあまり間隔を開けていません。これは非常事態……なのでしょうか」

 海軍軍人の娘らしく、リーヤも砲声の意味を知っているらしかった。蝋燭の灯に挑むように月光が差す窓際には、恐ろしいほどの静寂がその身を横たえている。風の声も無いこの暗闇は、得体の知れぬ恐怖感を忍ばせるには好都合だろう。

「何でまたこんな時に……」

 夕食を終えての休憩時間に入ったかと思えば、いきなりの号砲である。不機嫌にブスッとした声のイーニャの声には、しかし、漠然とした不安が残っていた。

「……非常事態って」

 ヤマダの言葉にドミトリーさんが一歩進む。士官候補生の軍服を着ているとはいえ、彼にこのような経験は皆無なのだろう。

「首都で何かが起こったのだろう。おそらくは良くない事だ」

 私とイーニャは顔を見合わせて何とも言えないような表情になる。リーヤは窓に近付いて何も見えない夜闇を見通そうとする。少し丘陵を上った場所にあるスターリン本家は、昼間なら首都の方を木立越しに見ることができる。が、この時間なら余程明るい光源が無い限りは何も見えないだろう。

「何か……ですか?」

 ヤマダも窓に歩み寄ってみたものの、何も見えないようだ。ガラスに掌を置いたりして目を凝らしているが、雲をつかむような徒労だろう。

「まさか、戦争」

Нетいや……それはないだろう」

 最悪の想定を震える声で絞り出したヤマダを遮ったのはドミトリーさんだった。なだめるためではなく、あくまで論理的に彼は理由を説明する。

「仮に戦争なら、首都に緊急事態を予告なく布告することはない。相手の動きがあって、こちらの動きがある。少なくとも大公国は戦争を始めるという情報を聞いてはいない。それに、攻めてくるにしても準備が必要だ。外交的な動きもなく戦争というのは考えにくい」

 戦争は、外交という口喧嘩で埒が明かなくなって腕力に訴えるものだ。その前の口喧嘩の情報は大公国でも把握していないのだろう。それに外交部でもそれなりの地位にいる父が長期出張に出るなら尚更だ。戦争が始まる前には、父を含めた外交部がバタバタと忙しくなる。そんな時に、あぁ、始まるのだなと直感が告げる。が、今回はそれがなかった。

「予告なく首都に緊急事態を布告する理由……か」

 それが解決したのは、サーシャが立ち上がった時だった。ドアが激しくノックされる。振り返ったイーニャがドア向こうに問うと、息を切らせた声が返ってきた。

「イリーナ様、至急のご来客でございます。既にこちらへ」

「通して」

 背中越しでも分かる不信感が漂う。それでもイーニャは入れるように指示した。開かれた扉からはまずスターリン家の警備兵が顔を見せる。その後に続いた顔を見てサーシャが、次いでリーヤが目を見開いた。

「お姉様」

 その声はまっすぐサーシャに向けられた。少し紺めいた黒髪と、これも紺めいた黒い瞳。サーシャと違って、目つきは大人しげだが、輪郭は確かによく似通っている。

「アデリナ。舞踏会は」

「申し訳ございませんでした」

 サーシャの声を遮り、勢いよく頭を下げる。肩が震え、握られた両手に力が籠る。顔に影が差して表情は読めないが、声色からして今にも泣きだしそうだった。

「イヴァン殿。何があったのか」

 もう一人の警備兵に付き添われた陸軍服の青年に、ドミトリーさんが問いかける。彼は靴音を鳴らして敬礼すると、情況を説明する。誰もが予想外の事態に場は静まり返った。

「ハッ、ドミトリー様ドミトリー=セルゲーエヴィーチ。皇太子殿下がアデリナ様に対して謀反の疑いを。次いで、麾下の第一五連隊を動員し、アデリナ様とヴェレヌォフスキー家に対して兵を向け、首都に戒厳を発令されました」

「そんな馬鹿なっ!」

 ドミトリーさんの声を最後に、場には沈黙の帳が降りる。誰もが想定したより斜め上の非常事態に、最悪の考えを巡らす。

 皇太子蜂起。その知らせは直後に発せられるであろう箝口と、連動した憲兵隊の情報統制にもかかわらず首都圏を混乱させるのに十分な威力に違いない。バルチック大公国の謀反の疑い。皇太子殿下が発したその言葉はあまりに衝撃が大きすぎる。このまま明日を迎えれば、近いうちに各国で常備軍が非常枠に切り替えられ、大陸は急速に不安定化していくだろう。殿下の行動は、各国との間で保たれた微妙なバランスによって成り立った帝国の平和を自らが溜め込んだ歪みによって崩そうとする行為だ。そうなった経緯を私は知ることもできないが、今ここにいるアデリナ様はその目撃者、いや当事者なのだろう。

「申し訳ございません、姉様」

 必死になってサーシャに頭を下げ続けるアデリナ様に、いたたまれなくなる。サーシャは不機嫌そうに口を結んだまま、身動ぎ一つせずに机の木目から視線を動かさない。サーシャが妹に対して怒っているわけではないことは明らかだが、普段よりも厳しい目付きが私達を余計に威圧している。

「サーシャ?」

 私の呼び掛けにもまるで反応はない。青ざめた表情のアデリナ様が、泣きそうな目をしながらこちらに頭を下げる。完全に血の気が引いた真っ白な手を添えて、頭を上げる気配はない。震える両肩が、いかに混乱しているかを物語っている。

「あ、アデリナ様!?」

 思わず口を突いて出てきた言葉に彼女はそのままの姿勢で首を振る。殿下を導けなかった責任は全て自分にある。そう言いたげな心情を吐露するには、ここでは遅すぎたのかもしれない。

「申し訳ございません、エカテリーナ様。私は不出来な妹でございました」

 外交において各国間の利益を誘導し、この奇跡的な安定を作り出したのは紛れもなく帝国外交部だ。アデリナ様は、外交部の必死の努力を水泡に帰す可能性のある殿下の行動を止めきれなかった自分を責めているのだろう。

「違います。あなたではありません」

 言い終わる直前に、サーシャの一声がアデリナ様の謝罪を終わらせる。全員の視線がサーシャに集まる。アデリナ様は肩を跳ねさせて、恐る恐る振り返った。顔を上げたサーシャは相変わらず視線を上げただけで、その先は誰もいない壁だ。大きく息を吐き出して、彼女は続けた。

「上手くいきすぎている。殿下だけでここまで事を運べるでしょうか?」

 背後にいる何者か。サーシャは既に殿下以外の誰かを疑っている。部屋の一角に置かれた柱時計が重苦しく時を奏でる。そろそろ日付を越える頃だ。首都で何が起きているのか、私の想像は全くの白紙だった。何も描けない。殿下がこの時期に動いた理由は?サーシャは朧気でも輪郭が見えているのだろうか。

「殿下は誰かに騙されている、と?」

アデリナ様は僅かな希望を見出だそうとする声だ。この方は殿下が本当に好きなのだろう。微かに生気を取り戻した瞳は、ここにはない殿下の姿を追い求めているようだった。あくまでも殿下の無実を追い求めているのだ。

「そう単純な話でもないでしょう。殿下が指揮下の軍を動員したのなら、そこには殿下の意思があります」

 サーシャはアデリナ様の希望をあっさりと切り捨てた。騙されているとしても、殿下は自身の指揮下の兵士たちに動員をかけた。そこには逃れられない責任と、彼らに対する義務がある。騙されていた、では言い訳になりえないのだ。

「そう、ですよね」

 アデリナ様の声はすぐに萎んでいった。強い人だ。私はそう感じていた。彼女は殿下が誤解して自分を遠ざけていることに困惑しているのだ。殿下の意思が明確なら彼女は戸惑うことなく自分というものすら押し潰してしまう。彼女は徹底して、皇后になるための令嬢なのだ。

「パーヴェル殿下。なぜなのですか」

 祈るような声。そこにあるのは偽りない忠誠心。閉じた目蓋に包まれた瞳は、それでも信じる人を追い求めている。仮に殿下の言う通りヴェレヌォフスキー家が帝室に反旗を翻したとするならば、この国はあくまで帝室に忠誠を誓う古くからの大貴族ら権威墨守派と陸軍改革派や海軍を中心とする権威統制派に割れる。軍事力で劣る墨守派が形振り構わずに外交力にて統制派を抑えようとしたら?大陸の西側において血で血を洗う長い戦争が始まるだろうことは想像に難くない。ヤマダの言う数年では終わらない大戦争。落としどころもなく、ただ互いの思想を糾弾して争うなら結末は悲惨なものにしかならない。

「待って」

 イヴァン様が一通り状況を話し、部屋に静寂が降りる。沈黙を破ったのはイーニャの声だった。何かが引っかかっている様子だ。怪訝な表情をしたのはサーシャ。おそらく私も似たような表情に違いない。

「殿下はあくまで麾下の第十五連隊を動員したのよね?それも舞踏会での糾弾から時間を置いている。どうせ拘束するなら控室へ戻っている途中にイヴァン様と共に捕えればよかったのに」

 首都防衛のための直轄軍の主力は近衛第一・二連隊と帝国第一連隊だ。ここに街道防衛を兼ねる旅団と河川砲艦等を運用する陸軍水運旅団を加えて首都即応部隊を編成している。首都には各貴族たちが自国の兵隊を多少なりとも駐留させているため、直轄の兵力はそこまで大きくはない。もちろん、戦時となればこれらの兵隊は全て帝国軍に組み込まれるため、首都防衛兵力は倍増する。

「第十五連隊は二個大隊が常設されていますが、多くは殿下を信奉する若葉の皇道派が自領の兵を動員することで充足されます。そのため、動員が遅かったと考えるべきですが……」

 そこまで言ってドミトリーさんは言葉を切る。思わず漏れた溜息。こちらも何かに気付いたらしい。

「殿下は言うことを聞く兵隊を集めるためにしばしの時間を犠牲にしましたが、その兵隊は言う事を聞けない可能性もあると?」

 ドミトリーさんの言葉にイーニャは頷く。何のことだか分からない私は、ポカンとした表情をしていたのだろう。補足するようにリーヤが言葉を足す。

「つまり、殿下は身内にしか声を掛けていません。はこの話を知らない可能性が高いのです。加えて、若葉の皇道派が動員する兵隊も事態を知らない可能性があります」

「最初に引っかかったのは、なぜ第十五連隊だけを動員したのかということよ。近衛部隊は無理でも、第一連隊には話を通さないと大混乱になる。でも、イヴァン様が言ったわ。近衛部隊に伝令に向かったのはだって」

 名前を出されたイヴァン様が深く頷く。そうだ。第一連隊に話が通っているなら、なぜ彼は門を閉めさせ、挙句にアデリナ様を逃がしたのか。

「えぇ。彼は私の同期で、第一連隊附属の憲兵大尉です。最初の号砲の折、慌てて飛び出してきて馬に乗ろうとしていたので、おそらくこの騒ぎには無関係だろうと判断しました」

 いくら何でも、軍事統制に必要な憲兵が何も知らないというのはあまりにもお粗末だ。だとするならば近衛部隊はおろか第一連隊すらこの計画は知らないことになる。ドミトリーさんの言う通り、動員された第十五連隊でさえ末端の兵士たちは何も知らされていない可能性すらあるのだ。

「それなら最も早い解決方法があるわ」

 イーニャがそこまで言うと、サーシャがゆっくりと立ち上がる。アデリナ様がサーシャの方を向くと、襷を受け取ったように続ける。

「陛下からお言葉を賜れば身動きは取れなくなるでしょうね」

 頷いたイーニャは横目にサーシャを眺めて、自信ありげに口角を上げる。軍の統帥権は最高指揮官たる皇帝陛下にある。殿下が命じることとは桁違いの権限がそこにはある。

「そして、陛下に上奏できる地位にある人物の娘であり、私達もよく知る至極変わり者のお嬢様がいるじゃない?」

 全員の視線がイーニャに向いて、虚空へと持ち上げられる。そこには、秋の小麦畑に囲まれ笑う彼女の姿がある。不敵な笑みを浮かべる彼女は、それでもどちらの味方とも公言しないだろう。彼女の家は皇帝陛下にのみ忠誠を誓っている。それなら、私達にも皇太子殿下にも味方しないだろう。

「それだからいいのよ」

 私の考えを読み取ったような答えをサーシャが言う。

「パリカールパフスキー家は私達とは違うわ」

 予算という手綱を握る彼らに、軍は様々な思いを抱えて当たってきた。時には恐怖、時には怒り、憎しみ。皇太子殿下は隷下の部隊を動員したが、それも彼ら大蔵官僚が良しとしなければすぐに行動不能に陥る。普段は知の巨人伯爵とそのあまりに落ち着いた態度と重すぎる腰を揶揄されているが、その気になった時に放たれる一撃はあまりに重い。その為に皇帝陛下も予算という矛を振りかざし、各部門を制御するわけである。予算無くして軍事行動なし。戦争を起こす際に、陛下よりもまずは腰の重い平和主義者を説得せよとは道理なのである。

「私が説得いたします」

 アデリナ様が覚悟した表情でサーシャを見上げる。その瞳に光を宿すのは、やはり殿下への強い想いだろうか。ちらりとイーニャへ視線を向けると、彼女は何も言わずに頷き瞼を閉じる。

「私もアデリナ様に同行させてください」

 驚いた表情のアデリナ様が振り返り、納得した表情のサーシャが並ぶ。その横でリーヤも頷いている。

「武官の息女が行くよりも、カーシャが行く方が適任でしょうね」

 議会の長たるヴェレヌォフスキー大公と海軍の幹部たるロジェストヴェンスキー伯爵では、行政の主格たるパリカールパフスキー伯爵に話を届けるのは難しい。同じ行政の一端を担う父の娘なら、アーニャへ届くかもしれない。

「好きにしたら。私はここから動かない。いえ、何かあったらここまで逃げてきなさい。父や祖父が反対しても、私は受け入れる」

 爵位なき家は、爵位を持つ家とは隔絶された権威差がある。間違いなく私よりイーニャの方が弁は立つのだが、その身分ゆえに受け入れられないことが多い。端役とはいえ、男爵の地位は相手が高位貴族の際には役に立つのだ。

「私は父を通じて海軍を説得します。今回の殿下の行動に正当性があるとは思えませんので」

「妥当ですね。僭越ながら、自分も同行させて頂きたい。ロジェストヴェンスキー伯なら、どちらに理があるかは判然としているはずです」

 状況を見たイヴァン様がリーヤに同行し陸軍の立場から同時に説得に当たることとなった。私とイーニャとリーヤを順に見たサーシャは最後にアデリナ様で顔を止め、少し唇を噛んで頷く。

「カーシャ、イーナ、リーヤ。頼みましたよ。アデリナ、私は別に行くところがありますので、パリカールパフスキー令嬢へは私の名と共にお届けなさい」

 サーシャは襟元へ侍らせていた知の蛇を外すと、アデリナ様へと手渡した。長女の代弁者として、その意思を託すこと。各人がそれぞれの役割を受けもって、動き始める。深まる夜闇の中で、ただそれだけが、未来への灯を掲げるようにここにある。聖キリルが放つ火矢のように闇夜を切り裂き、後に人々が持った松明が朝日を以て輝き闇夜を煌々と照らし続けた聖火となったように、今の私たちはアデリナ様という灯りを絶やすべきではないと考えていた。

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