第16話 鵺は月光に照らされて
跳ねるような感覚で、私は目を覚ました。飛び起きると言った方が正しいのだろうか。ベッドごと床が突き上げてくるような感覚。夢だったのだろうか?部屋は闇に包まれており、時間も分からない。カーテンの隙間からわずかに漏れる月明かりを頼りに窓に近づく。激しく脈打つ心臓に、息が切れる。夢ともつかない幻惑を振り払おうとカーテンに手を掛けようとした。直後に、入り口が激しく三度ノックされた。
「何事ですか」
間髪入れずに乱暴に扉が開けられる。ランタンの明かりが部屋に飛び込む。明かりの元にはイヴァン様がいた。彼もまた息を切らせている。余程の大事なのか。先ほどの激しい揺れとの関係は。など、詮索する余裕も彼は与えてはくれなかった。
「アデリナ様、すぐにお逃げ下さい。理由は後程」
時間が無いとまくし立てた彼がこちらに右手を差し出した時、先程と同じ轟音と振動が私の足下を激しく揺さぶる。バランスを崩した私の右手を彼が取る。これは夢ではない。ただそれだけで十分だった。私はすぐに彼の手をとる。
「お急ぎ下さい」
駆けだした彼に必死に追いすがる。走りながら、徐々に思考が戻ってくる。先程の轟音は大砲だ。緊急事態を知らせる号砲。先程が二発目なら、最後に三発目が撃たれるはず。それはまさに警告だ。
「まだ脱出できます。さぁ、早く」
彼は馬に飛び乗ると、私へ手を伸ばす。私がしがみ付くように後ろに着けば、彼はそのまま馬を走らせた。わずかに見えた視界の中で、先程まで居た宿舎の廊下を幾つもの明かりが動いている。あれらは私の追っ手なのだろう。
「経緯を聞いても?」
裏門の警備兵は彼の手の内のようだ。私達が門を突破すると同時に、背後で鉄が擦れる音と共に門が閉められていった。追いかけてくる騎兵の蹄が背後で不気味にこだまする。その後、門の向こうから怒号が反響する。気付かれたのだろうか。不安をよそに、彼はさらに速度を上げていく。蹄が地面を蹴る音はいつしか石畳を蹴る音に変わった。ここまで返事のなかった彼の背が、ようやく私に気付いたようだった。
「もう少し後で話します」
騎兵は追い付いてきたが、何もする様子はなく私達と並んだ。彼が左を向いて右手を上げると、相手の騎兵も敬礼する。どうやら仲間のようだ。暗闇でよく見えないが、彼の肩からは朱糸が織り込まれた飾緒が揺れている。制帽は紺の帝国軍人であり、それなりの地位の人間だろう。予め決められたかのように、両者は短く言葉を交わした。
「私はアデリナ様をお送りする。近衛本隊へ事態を報告せよ」
「承知した」
一跳ねすると、彼の馬は急に遠ざかる。何事か理解はできていないが、近衛軍は私を狙うつもりはないようだ。では、先程の刺客たちは? 疑問は幾らでも湧いて来るが、今はまだ尋ねる時ではなさそうだった。私たちはなおも速度を落とさずに大通りへとひた走っていく。道中、検問の柵を突破した。紺のシャコー帽に白の羽を付けた兵士たちは驚いたように私たちを見上げた後にこちらへ叫んだが、彼らの銃がこの軍馬を射程に収める前に、私達は角を曲がり視界から脱していた。
「そろそろ訳を聞いても?」
ようやく落ち着いたのか彼は速度を緩めた。運河沿いに風が流れる。周りの建物に明かりはなく、今は夜の遅い時間だとようやく理解できた。運河を超える橋を渡れば郊外であり、余程急ぎの命令でなければ、軍が封鎖するには時間がかかるだろう。
「皇太子殿下が麾下の第一五連隊を以て戒厳令を。大公国の人間が狙われています」
殿下の行動は、私の想像をはるかに超えて早かったようだ。私を捕らえれば事態は進展すると思われていたようだが、こうして脱出した以上は泥沼化するだろう。宿舎にて私を捕え損なえば、姉の許へ兵を向ける可能性もある。姉が殿下に捕えられれば、これ以上に厄介なことはない。それだけは阻止しなければ。姉の顔を思い浮かべた時、執事の言った言葉が脳裏をよぎる。
「姉様の元へ行かなければ」
あくまで可能性を込めて私がそう言うと、彼は勢いよく否定した。近衛軍の隊舎にて私を匿う予定なのだろう。私の予想通り、彼は今後の予定を話した。皇帝陛下直属の近衛軍は、あくまで陛下の命で動くものであり、いくら殿下といえども動員することは叶わない。故に殿下は、自身が名目上でも連隊長を務める第十五連隊を動員することに決めたのだろう。そこには“若葉の皇道派”も多数在籍する。
「アデリナ様には窮屈でしょうが、隊舎へご案内致します。現在、大公家の屋敷は第十五連隊の兵により包囲下にあるようです。現地に近付くのは危険です」
私は一つ頷く。それならむしろ好都合だ。今、あの屋敷には使用人と護衛の兵士のほかには重要な人物はいない。あぁ、なんと幸運なのだろう。不思議と口角が上がる。彼は運河口の近衛第一連隊隊舎へ向かっているのだろう。それならば、進む方向を少し変えるだけで姉の居場所へとたどり着く。
「それならなお都合がいいかと」
私がそう言うと、彼が怪訝な声で尋ねてきた。もっともだろう。彼の認識では姉は屋敷にいる前提だ。わざわざ死地に飛び込むようなことを言って、更に都合がいいと言うなど正気の沙汰であるはずもない。
「御安心なさいませ」
私は一息整えた。そして、姉の居場所を彼に伝える。運河の対岸は街路樹が邪魔して見えないが、今頃殿下の兵たちが駆け回っているのだろう。月明かりの中で、揺れ動く波間がより一層妖しく輝く。何者でもそこに潜むように。
「姉様はスターリン家の屋敷にいるはずです」
確か、出発前に執事から託った中では、今夜はスターリン家にて勉強会と会食をするとのことだった。姉は、侍従に今夜は戻らないので好きにせよと託けていたという。それならば、刺客たちが気付く前に姉と合流できるだろう。
「なるほど。確かにそれなら好都合です」
殿下の兵のほとんどは帝都中心部と屋敷に集中しているはずだ。帝都中心部の別邸と違い、工場の近くにあるスターリン本家は郊外にある。そこまで手を伸ばすには少々時間がかかるはずだ。それに、検問を突破して向かった先は近衛第一連隊隊舎の方角。ここから進路をさらに変えて郊外、それも軍事施設のない場所を目指せば、更なる攪乱になるだろう。彼は納得した様子で、馬を操り、通りを左に曲がった。
「アデリナ様。少々長旅ですが、郊外を目指します」
「えぇ、頼みます」
大通りをさらに右へ曲り、馬は街道へと向かっていく。船を使い検問を設置する予定なのだろう兵士たちを、交差点の遠くに置き去りにしながら私たちは駆けていく。蹄鉄が石畳を蹴る音が耳に心地よい。私の髪を、顔を撫でていく風は、この闇夜の中で何を話しているのだろう。風切り音が耳元で囁いているようだ。月明かりの中で、私達を乗せた軍馬は、ただひたすら走り続けた。見上げた空に輝く半月は上弦。あくまでその弓が引かれるにしても、それは鏑矢。これから時代が変わる事を告げる。その矢は誰も殺めず、ただ静かに世界を変えていくのだ。
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