2章 戒厳令
第15話 鏡の迷宮が割れる時
衝撃を受ける。それは単純な語にして、言い表しようのない巨大な恐怖と不安を心に刻み付ける。私の見開かれた目は、確かにそうとしか言えない状況を目の当たりにしていた。体は震えることすら止めてしまったようだ。無意識に薄くなる呼吸。少しでも力を抜けばこの場にへたり込んでしまうだろう。目の前にいた数多の貴人たちはたちまち群衆と化し、どちらもの出方を、固唾を呑んで見守っている。有利な方の肩を持とう。その意思がありありと見透かせるようで、私はそちらにも半ば嫌悪感に近い衝撃を受けていた。
「私はこの場を以て宣言する。アデリナ=イヴァノヴァナ=ヴェレヌォフスカヤ。父同様に謀反の疑いありとして貴様を断罪する」
たった数秒前の言葉が幾度もこだまするような感覚。あらゆる方向から無実の罪があたかも実態を持つかのように私に覆いかぶさる。父は謀反など。私の心はそう叫んでいるが、この体のはずの口も喉も、その声を通してはくれない。
「お待ちください、殿下」
パーヴェル皇太子殿下は最近イライラされているようだ。そんな噂を聞いたのはつい先日のこと。父である皇帝陛下との確執が目に見え始めたのはさほど昔のことではない。何がそんなに殿下を焦らせているのだろう。私はこのパーティーの中で殿下にさりげなく尋ねてみようかと思っていたのだが、あろうことか殿下の矛先は私に向いていたのだ。
「黙れ、賊臣!」
やっと絞り出した、掠れるような声は殿下の一喝の下に叩き伏せられた。飲み込んだ言葉が、喉の底から心臓へ深々と突き刺さる。殿下がここまで乱心された理由も分からず、私はただこの場に立ち尽くす事しかできない。陛下の忠臣の娘までもが変心。あらぬ疑いは、そのまま私への中傷となった。しかし、殿下がこの場で宣言した以上は確たる証拠があるのだろう。一方で私はといえば、無実を叫ぶことしかできない。そう、無実の証拠を挙げることはできないのだから。身動きもできずにただ立ち尽くす私は、この場で裁定が下るのをただひたすらに待つことしかできない。脳裏をよぎった顔を振り払おうと目を閉じる。心では頭を強く振っているが、実際の私はただここにいるだけなのだ。あぁ、姉様。違う。現状で姉を頼ってはならない。まだ早すぎるのだ。
「何という事を」
普段の私ならば何と言うのだろうか。殿下と政について語らった私が、ずっと遠い存在になっていく。聡明なる殿下は、私が投げかけたどんな質問にも理路整然と答え、また、私の主張にも意を介すことなくすべてを受け止めて頂けた。そんな殿下の顔がよぎる。走馬灯のような光景を映し出す脳は熱っぽく、不規則に揺れるような感覚すら起こす。揺れる視界が霞み再び殿下を捉えた時、その表情はこれまでに無いほど怒りを含んでいた。私をまっすぐに刺突する視線は、私から言葉を奪い去るに十分だったろう。
「私にそれを言うのかアデリナ。帝室に手をかけようとする貴様が」
一体どこでそんな計画が進められていたのでしょう? 私は、単に都合の良い人形だったのでしょうか? 重なっていく疑問も殿下からの圧には耐えられない。私はただ、震えもしない足を頼りに、揺れる視界を保つことが精一杯だった。殿下からその言葉が出るまでは。
「神すら畏れぬ姉の次に、意図せず謀反を起こすとは。大公家はどうなっている」
「殿下」
思わず飛び出した言葉に、殿下は少しぎょっとした顔をした。私とて、こんな威嚇するような声が出るとは思ってもいなかった。姉はそんな人ではない。ただ、自分を表現することが非常に不器用なだけだ。姉の信心は確かに常人とは異なるのだろう。無意識に神の存在を信じ崇めようとする私たちと違い、神の存在を確認したい。その上でひれ伏す。それが姉の信仰の仕方なのだ。
「我が姉は、長女アレクサンドラは、仰せになるような人間ではございません」
「うるさい、黙れ!」
雷鳴のような叫び声だった。が、私の声は今度こそ圧をはねのけた。姉に対する侮辱。たったそれだけの理由が私の声を殿下に届けさせる。殿下の両手が、指先が、震え始める。この方はなぜ私を目の敵しなければならなかったのか。
「確かに姉の信仰は常人とは外れたものがありましょう。ですが、姉は神を理解したうえでひれ伏そうとしております。それは咎められることではありますまい」
怒りに震える。その言葉が今の状況を表すのだろう。殿下の口調はさらに激しさを増し、先程の雷鳴のような一喝すら霞むほどに、声の端々から憤怒の表情をしている。吹き上がった感情が、行方すら知らずにただひたすらに突き進んでいく。
「黙れと言っている!」
今の殿下は冷静さを欠こうとしている。そう見えるならば、私自身も今の殿下を直視できていないのだろう。誰よりも殿下の傍に。いつでも、殿下を支えるのが私の役目のはずだった。それがこんな形で不信を買うとは。
「殿下、何故なのです。乱心されましたか」
できるだけ宥めるような声で言ったはずであった。が、私の口は、姉への言葉の当てつけという選択肢を取ったようだった。飛び出した言葉をすぐに否定しようとするが、間に合うはずもない。飲み込もうとした言葉は、私の喉には大きすぎた。吐き出すような勢いで殿下へと飛び去る。
「貴様あぁ!」
私の中で先程まであれほど恐れていた殿下からの断罪は、姉への侮辱という殿下の言動により勢いを失いつつあった。殿下の叫び声は、あらぬ個所から飛び火した私の怒りへの混乱。より平易に言えば狼狽なのだろう。焦り。それは即ち人を過ちに誘う罠。取り消すために叫んだ声はその場に落ち、忽ち虚空に消えていく。声が出ていないことに気付くのが遅すぎた。私の心にすぐさま根を伸ばすのは後悔。
「殿下」
私の声に、怒りに震えた殿下の手が動く。刹那、先程の恐怖は数を増して私の周りに集まる。再び足がすくむ。景色が眩しく輝くのは瞳孔が開いているからに他ならない。死の使者は、私を処刑台に縛るがごとく自由を奪っていく。景色が遅い。ゆっくりとした悲鳴。それは殿下の腰から、妖しく輝く刃が少しずつ現れた瞬間だった。鞘から抜かれた剣。私がそれらを理解したのは殿下が一歩踏み出してからだった。
「帝室の敵は討たねばならぬ」
狂気で以て剣を振り上げた殿下は、その怒りのままに私に突進している。避けることもできずにただ茫然と剣先を視界の端に眺める私は、無意識に姉へ謝罪していた。
「姉様、申し訳ございません。私は家の言いつけを破りました」
声も出ない。まして体は言うことを聞かない。迫りくる殺意に私はただ身を委ねるしかなかった。いや、違う。ただ私は怖かったのかもしれない。殿下に対して翻意するくらいなら、いっそここで斬られよう。私は殿下を恨むことはできない。殿下は帝室を守る義務があるのだ。何かの手違いで父が陛下を裏切るのだとしたら、私はそんな父に付いて行くことはできない。それは、初めて殿下に出会ったときに交わした言葉だった。殿下が帝室を守られるのなら、私もお供させてください、と。
「悪い妹でございました」
私が死んだら姉は悲しみ、泣いてくれるだろうか。母の葬儀で一切の涙を見せずに気丈に振舞った姉は、私には泣いてくれるだろうか。いや、未練を断ち切るように私を見送るだろう。姉はそういう人だ。悲しみも苦しみもすべて一人で抱えてしまう。どこまでも完璧で、どこまでも不器用な姉のことだ。私の魂が心を見られたなら、姉の優しさに驚くことだろう。誰よりも慈しみ深く、人を愛しているのが姉という人なのだから。
「殿下」
いよいよ鋼刃が迫りくる。蝋燭の灯を赤々と反射する刃面は既に返り血を浴びたようだ。私の口から洩れた言葉はもう届くことはない。怒りと焦り。殿下は少し急き過ぎたのだろう。それが殿下の決めごとなら、私はもう口を挟むことはない。殿下がもう少し落ち着かれるためならば、私がしばらく時間を稼ぐことも無駄ではないだろう。振り下ろされた剣は、迷いなく私を死に至らしめる。心音があと数度でも響いて聞こえれば、あの剣先が私の胸を引き裂くだろう。それなのに、不思議と私は落ち着いていた。あぁ、死ぬ直前というのはこんなにも世界を受け入れられるのだろうか。足元が浮いているような感覚。目の前にはありありと見ることができる殿下の姿。殿下の皮をかぶった憤怒の悪魔さえいなければ、こんな夢は覚めてほしくもない。
「なりません殿下!」
直後に私の耳に響いたのは金属同士がぶつかる音。視界を横切った剣同士が火花を散らす。私は誰かに守られているのだろうか?その後姿には見覚えがある。翻る短尺マントを従えた陸軍のコートに輝くのは士官学生の証たる燕をあしらったエポーレット。何度目かの驚きに見開かれた私の視界には、同じく驚愕の表情を浮かべる殿下の姿があった。何が起きたのか、理解できなかった。
「貴様、逆臣に味方するか」
後戻りはできない道。踏み込んでしまった殿下から洩れたのは、少し上ずったような震え声。底の見えない怒りの中に、怯えという新たな感情が姿を見せ始めていた。
「いいえ、殿下。真に忠臣たる者は、命に従うだけでなく、時に諫めることも必要でありましょう」
近衛軍司令官が子息、イヴァン=ピョートリヴィーチ=バグラチオン。勇名を馳せる猛将の令息で、彼もまた馬に乗れば負け無し。騎兵の指揮では現役の指揮官に並ぶ実力を発揮する、次世代の軍人として評価の高い人物。殿下の剣を止めたのは、紛れもなく彼であった。それは同時に、殿下に対して剣を抜いたことを意味する。
「何たる無礼な!」
殿下の後に控えていた取り巻きが一斉に殿下の後背に並ぶ。いずれも高級貴族や軍幹部の子息たちだ。殿下に心酔した、いわゆる若葉の皇道派と呼ばれる集団だろう。
「無論、無礼は承知の上。ここで
息を切らせた殿下の刀下で彼は静かに剣を鞘へ納める。我が命よりも国益を。彼の父はその功績と爵位を以て、軍部ではわが父ほどに大きな影響力を持つ。彼が私との間に立てば、殿下は忌々し気に剣を下げた。
「イヴァン、アデリナと共に退席せよ」
息を切らせながらも、殿下の声は冷え冷えとよく通った。普段の朗々とした声はそこにはないものの、凛とした存在感はそのままだろう。
「殿下」
イヴァン様は私を右手で庇いながら、殿下に呼びかける。まだ諫めるのを諦めてはいないようだ。対して殿下は、未だ剣を右手に持ったままだ。剣先こそ床に落ちているが、力を込めれば、イヴァン様も私も斬るのは容易いだろう。
「イヴァン、聞こえなかったのか」
吠えるような声で、殿下は返答した。歪んだ口元。俯いた顔は灯の陰に隠れて、表情を見ることは叶わない。殿下の後ろで、皇道派の諸氏が一斉に柄に手を掛ける。小さく首を振った彼は、殿下へ跪いた。
「御意」
振り返った彼の顔は、失意と後悔が色濃く見えた。蝋燭灯の下には、遊牧民族譲りの彼の髪は一層赤さを増して見える。彼が静かにこちらへ向き直り、跪く。ようやく私の足は一歩下がることを思い出したようだった。
「アデリナ様。ご無礼ながら、共にご退席くださいませ」
「先導を」
私は逡巡して彼の手を取った。殿下と若き皇道派は身動き一つせずに、私たちの一挙一動に警戒している。遠く、集まった貴人たちもまた同様だった。私が軍人の介抱を受けながら退場する様は、彼らには敗走と見えるのだろうか。足取りはいたく重いが、彼の歩みを止めさせるわけにはいかない。
「殿下。なぜこのようなことに」
私一人なら、ここから退場することすら困難だったろう。実際に斬られる寸前までいってなお、私の心には殿下が残る。呟いた私に、先導する彼の背中は何も語るなと言う。静かに二度首を振った彼は、振り返ることなく私に警告する。一切振り返るな、一切の迷いはこの場に置いてゆけ。私は、後ろ髪を引かれる思いながらも、心残りをしてはならぬとその指示に従った。
「アデリナ様、大変なご無礼をお許しください」
会場を出て長い回廊で並んだ時、彼は私に許しを乞うた。私は、謝ることは何もありませんと頭を振ったが、彼は身分差を酷く気にしているようだった。あの場でアヒルのように的にされるだけだった私を救ったのは彼だ。そこに感謝はあれど、彼への拒否などできるはずもない。
「私はあなたにお救い頂きました。命永らえたのは、あなたの働きに他なりません」
こちらに視線を向けた彼は、大げさに否定する動きをした。優秀学生を評した飾緒の金具が軽い音とともに揺れる。その様子がおかしくて思わず彼から視線を外した。
「勿体なきお言葉を頂戴してしまいました」
真面目な顔に戻った彼は、ただ前を向いて歩いている。立場を失った私からすれば、陸軍のエリートたる彼の姿は見上げるような存在感だ。私の持つ何もかも、彼の実力と功績の前には霞んでしまうだろう。陛下への忠誠心を押し上げる自信に、私は改めて敬意を感じた。何事も恐れずに正しく上申できる彼のような軍人こそ真に必要なのだろう。
「では、失礼致します」
私の控室前で、彼は恭しく一礼して去っていった。一つ息を吐き出して扉を閉める。控えの侍女には、屋敷に戻るよう託けたので部屋には誰もいない。薄暗い部屋に漂う空虚を今の私に重ねて、頭を抱えた。何度目かのため息の後、仮眠用のベッドに腰かける。そのまま横に倒れていけば、静かに涙が零れた。何かが喉元まで上がってきたような気がして、抑え込もうと深呼吸する。こんな所で泣くなんて。声を上げるまいと深呼吸を続ける。静かに流れる涙は少しずつ枕を濡らしていくが、そこにはただ静寂のみがあった。
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