第18話 明日を求める道

 半月は既に天頂を超え、西の丘陵を照らしている。私はアデリナ様とスターリン家の馬車で郊外のパリカールパフスキー邸を目指すこととなった。そのアデリナ様が、スターリン家の使用人へ手紙を渡すのが見えた。この深夜に人を訪ねるのは本来であれば大変な失礼。であれば、直前になっても文で火急の用事を知らせるのが最低限の礼儀であろう。

「火急に託けます。頼みました」

「ハッ!我が命、承りました」

 彼はスターリン家の私設郵便員として、パリカールパフスキー家へと速達便を預かったことになる。文字通り早馬を走らせ、私達が付く前には、所用を理解させる。それが彼ら郵便員の役割だった。戒厳令の折に外出するものは皆、誰何される。若葉の皇道派にこの動きを悟られぬよう、彼に持たせた封筒はスターリン家からの軍事郵便であるとされた。

「では、エカテリーナ、行きましょうか」

 取扱いとして、私はアデリナ様の補佐として同行することとなった。家格があまりにも違い過ぎるために、公式な場においてサーシャのような関係になるわけにはいかない。そのために、ドミトリーさんを推薦者とした格好である。

「只今」

 イーニャが託けた家令によって、彼女の家族には何も伝えられていない。出入りする馬車の音や警備主任の報告から何事か凡そ察しは付いているだろう。それでも気付かないふりをされているなら、暗黙の内に見逃してくれているとはならないだろうか。私は見送りに出たイーニャを視界の端に捉えながら、アデリナ様の鞄を持って馬車に乗り込んだ。踏み台が外され、扉が閉じる。イーニャが用意したもう一台にはリーヤが乗り、イヴァン様先導の下で既に出立した。ヴェレヌォフスキー家の馬車前では、サーシャとドミトリーさんがヤマダを交えて何やら話し合っている。

「パリカールパフスキー邸まで」

 アデリナ様が告げれば御者の声と共に馬車が動き出す。イーニャがこちらへ会釈し、アデリナ様が窓越しに右掌を見せる。早馬の騎手が駆けていった後を追うように馬車は門を潜り、灯の無い夜の道へと繰り出した。工場へと連なる道と違い、邸宅街への近道は山を迂回するために明かりは何もない。この先に希望などないと宣言されているようで、冷や汗をかくようだった。道を覆うように聳える赤松と樺のために、月明かりもまばらである。

「アデリナ様?」

 彼女の輪郭が窓の方へと向いた。何もない、松の細かな針葉がわずかに漏れた月明かりを反射して細かな白黄として星空のように輝く。そんな様子を見ていると、ずいぶんと暗闇に目が慣れてきたことに気付いた。

「いえ、何でもありません」

 こちらを向いたのだろう時、梢を抜けてきた月明かりが彼女の目に反射して黒い瞳は刹那に色を変える。金色に輝いた瞳は、しかし、瞬きの後には闇に紛れて頬の輪郭を残して何もなくなってしまった。幻想、夢かと思う浮ついた感覚を、馬車の車輪は葉型バネを通して引き戻す。

「期待していますよ、副主査」

 彼女は笑っているのだ。少なくとも、微笑んだ声交じりに私に冗談を飛ばすくらいには。月明かりも届かない森の底だからこそ、本心すら押し隠した彼女はこうして私にも強がりを言うのかもしれない。そうでなければ、微動もせずに鼻先すら見えないほどに光の無い世界で佇んでいられるものだろうか。

「御冗談を仰いませ」

 主人に対して助言や取りまとめを行う役人。彼女は私のことをそう表現した。もちろん、そこにはパリカールパフスキー伯に対して一助になることへの期待感もあるのだろう。だがそれ以上に、微かな羨望のようなものが見え隠れする気がした。

「姉上は良いご学友を持たれました」

 消え入るような呟き声で聞こえた言葉は、姉への尊敬なのか、それとも。手入れのほとんどされていない石畳を走る馬車は、上下へ左右へと不規則に揺れる。そんな中でも、窓から差すわずかな光に浮かぶ彼女の輪郭は、髪が振れる以外に動きはない。そのものがただ座っているかのように。

「副主査。一ついいかしら」

 しかし、彼女はそこにいるのだ。松の針葉に閉ざされた深い夜の底から、光ある場所に導かれるように祈る姿。それは、数多の槍が地面に突き立った夜の野で朝を呼ぶように聖キリルに祈る修道女の物語に似ている気がした。

「何なりと」

 山道を下り始めた馬車は、そのまま邸宅街を見下ろす位置に出た。普段はほとんど明かりが落ちている邸々は、号砲の為か衛兵の松明が見える箇所が多い。そのために、馬車内には月とは別の、赤々とした光が差し込む。

アデリナアーダと呼んではくれないかしら」

「御前」

 と同じだった。先ほどの影の中から現れたのは、押しつぶしたような笑顔をしたアデリナ様だった。心の奥底では、皇太子殿下に対する喪失感に似た行き場のない哀しみを湛えながら、それを押しつぶそうと取り繕うような笑顔をしている。物言わぬ瞳はただ押し黙っている。それでなぜ、真に笑顔ではないと言えるのかと言えば、その瞳はただ静かに、笑ってさえいないのだ。感情豊かに饒舌な瞳でありながら本心には背を向けて、ただの一言も触れようとしない姉と同じだった。どこか遠く、遠い過去を見返してはすぐに忘れ去ろうとする悲哀のような色。その色に阻まれて、アデリナ様の瞳はどこか震えているようだった。

「姉上は略称を許したではありませんか。であれば私も同じでしょう?」

 からかうような言葉と裏腹に、きつく縛られた声。おそらくは感情を押し殺すことに、自分というものを閉じ込めることに慣れているのだろう。それでいて、姉への憧れから姉と親しい人間になら少しだけでも感情を見せられると期待しているのだろうか。器用に隠す人間ほど、人前に出すときは不器用になるものなのだ。

「えぇ、承知いたしました。無理をしなくてもいいのですよ、アーダ?」

 彼女の喉から微かな笑い声が覗く。驚いた表情は瞳に掛けられたカーテンを破って外へと飛び出した。開かれた口から白い歯が不安そうに姿を見せた。その後に、クスクスと咳払いのような笑い声。彼女は何も言わない。窓から松明が点々と灯る邸々を見下ろす表情は、そこには無い遥かな過去をみて懐かしむようだ。泣き出しそうなほどに遠く、そして儚い記憶。ゆっくりとした瞬きの内に、彼女の内にこみ上げる感情の名を私は知らないでいる。

「もう誰にも呼ばれないと思っていました。父はもう子ども扱いできないと言い、姉は手の届かないほど遠くへ。パーヴェル殿下が呼んで下さらなくなれば、一体、私というものは何者なのでしょうか」

 将来の皇后として、アデリナ様は何人かの候補の中から見初められたという。大公家という途方もなく重い名を背負いながら、今度は皇后という比べ物にならないほどの称号の下に生きることになる。その重圧に耐えるために、彼女はいったいどれほどのものを犠牲にしたのだろう。これ以上ないほどに潰れておかなければ、その重圧には耐えられないのだ。それこそ、私では支えるにしては誤差の範疇でしかない。

「私はあなたに略称を許しました。いえ、これからも略称で呼んでくれますか?」

 殿下の支えなき彼女の杖に、この瞬間でもなれるなら。命じる体を取りつつも、彼女の声はわずかに震えている。もう散々に迷った。迷うことに慣れた彼女に、一筋でも光が差せば。ただ、その手をとりたかった。

「私的な場であれば、という条件を付けても構いませんか?」

「十分です」

 不安に裏打ちされた、機械のような微笑ではない。少しは安心できたのだろう。気の抜けたように頬が下がり、その表情は自然と笑いだす。

「一つ誤解を正しておかなければならないと思います」

 先ほどのアーダの言葉だ。少なくとも一つ、伝えておかねばならない。

「サーシャは、遠くへは行っていませんよ」

 スターリン家の応接間で、アーダの姿を見たサーシャの驚きようは私も初めてだった。あのサーシャが、取り乱す寸前まで表情を変えたのだ。その後も、不機嫌そうな言動ではあったが、アーダへの視線は常に変わっていなかったように見える。サーシャとして、アーダを気に掛けているのではないだろうか。

「……ふふふ。そうですね。姉は昔から……とても優しいのです」

 もしかしたら、サーシャの方からわざと遠ざかっているのではないか。いつかサーシャも言っていた。私に降りかかる火の粉を払うのは私だけで十分だ、と。

「サーシャもアーダも不器用なのです」

 困ったように彼女は笑う。馬車は邸宅街に入り、整えられた石畳を整然と進んでいく。先ほどのように荒れた道ではない。私は一つ深呼吸した。いよいよだ。アーダも同じように深く息を吸う。

「もうすぐです」

 馬車は衛兵の立つ門をいくつも過ぎ、目的の場所へと足早に駆けていく。御者が速度を落とすと、目的の門は近い。陛下の忠臣たる巨人の住まう屋敷。パリカールパフスキー家の首都別邸であった。

「何用か」

 殿下布告の戒厳令下ということもあり、衛兵の声が窓越しに飛ぶ。私は、下窓を上げると、紺の制帽に答えた。

「スターリン家より、火急の問題でございます」

私が答えるとほぼ同時に上官と思しき兵士が、控小屋から飛び出してくる。私と馬車の紋章を確認すると、そのまま行けの合図をした。

「確かにスターリン家だ。連絡の通りだ。御通しせよ」

 門が開く前に、伝令と思しき兵士が脇戸から屋敷内へと駆けていく。鉄製の黒く塗られた門は、蔦を生やしたような網目状の装飾が走っている。門上のアーチには月桂樹を模した枝編が鉄で再現されている。聖キリルの祝福の場面をデザインしているのだろう。門両端の蝶番は低い音を響かせながらゆっくりと開いてゆく。

「頼みましたよ」

 アデリナ様は誰にも聞こえないように呟くような声でひっそりと吐き出した。兵士たちの声でガヤガヤと騒がしいはずの車内は、それでも静かに聞こえたのだ。邸宅内には各所に篝火が焚かれ、各所で二名の歩哨が立っている。紺の制帽に深緑の陸軍コート。腕章には若緑の二本線が巻かれており、これで、パリカールパフスキー伯爵の兵士だとわかる。やがて三角帽を被った士官の合図で馬車が止まり、御者は下車し、踏み台の用意をする。

「行きましょう、アデリナ様」

 私が鞄を持って先に降り、士官へ挨拶をする。彼は敬礼と共に傍の兵士に対して下がるように指示した。鞄を御者に預け、ドアを支える。奥からアデリナ様の靴音がするとともに、士官がサーベルを抜く音がした。

「夜分の御勤め、誠に恐れ入ります」

 気付かぬうちに外に出て来ていたアナスタシアアーニャが声を掛けたのと、アデリナ様の靴が確かに地面を踏んだのはほとんど同時だった。二人の視線が交差し、数秒の沈黙が場を埋めていく。

「アナス……」

「アデリナ様。お話は先に伺っております。まずは中へどうぞ」

 私の声を遮るように彼女は玄関へ左手を指した。アデリナ様は何も言わずに一歩を踏み出した。続いで、私も後ろに付く。アーニャは動かない。士官の前を過ぎると、アーニャは向きを変え、アデリナ様と並ぶ形となった。私の背後から、サーベルが鞘に収まる金属同士が擦れるような甲高い音がした。

「夜分のお出迎え、痛み入ります」

「いいえ、これも私どもの義務でありますので」

 国の大事に馳せ参じることこそ、至高の栄誉。特に戦争で活躍する軍人らがよく答える言葉だ。寝る前に起こされたのだろうか。アーニャの髪は手入れはされているが、いつもの前に流す格好ではなく、首下で束ねて腰に流している。篝火の赤が流れる黄金色に反射して、銅を流したような色になっていた。いや、イーニャと見た、流鉄の輝く色だろうか。

「では、こちらへ。御通しなさい」

 アーニャが玄関口の衛兵に扉を開けるよう指示する。私の後ろからは、士官に続くように兵隊たちが整った足音で付いてきている。扉向こうの玄関ホールには、蝋燭明かりが赤々とついている。夜風に吹かれるアデリナ様とアナスタシアの髪がゆっくりと左右に揺れていく。この夜の底から朝日の明るさを想像するのは、やはり難しいだろうか。夜が早く明ければよいのだが。私は二人の背中を見ながらそう願っていた。

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