第11話 零れた記憶の残滓

 時は進んで、水曜日。私とイーニャ、それにリーヤはサーシャの馬車に相乗りしていた。最初に見た時と変わらず、天井には見事な銀細工。柱には、金糸で縁取られた水晶がはめ込まれている。御者の後姿を覗く窓上には羽を広げた双頭の鷲が鎮座していた。

「水曜日なのに、こんなのんびりしてていいのね」

「えぇ、私は家の代表ではないから。あちらには妹が行くわ」

 宮廷で開かれるパーティーのことを言っているのだろう。サーシャは気にも留めずに軽く笑い飛ばしてしまう。その胆力が羨ましいとも思う。

「まぁ、別荘くらいあるとは思ったけど」

 窓からは、三階建ての建物が生垣の向こうに見えた。鉄柵と共に内外を隔てるその壁はよく手入れされているのだろう、葉一枚も柵からはみ出してはいなかった。やがて馬車は止まり、鉄の門が重苦しい音を立てて開く。門番は陸軍の制服を着ているが、帽子には青の線が入る。大公国の兵士なのだろう。

「うちって庶民なんだなぁ」

 六本の柱が並ぶ玄関前の広間は、馬車の転回場になっている。巨大な屋根を見上げる私に、イーニャは苦笑いした。

「ウチよか小さいけど、これが別荘ねぇ。さすがアレクサンドラ大公令嬢殿」

 帝国でも一二を争う財閥だけあって、イーニャの家は宮殿のような造りだ。祖父と父親が長期にわたって増改築を繰り返した結果だそうだが、広すぎて管理するのも大変なのに。とイーニャは零している。まだ拡張する気だそうだが、イーニャはそこでも呆れている。

「これも政治レースの結果よ。お金を貯め続けると、謀反を疑われるでしょ」

 皇帝に反旗を翻す気は毛頭ない。そのアピールをするためには、出費をして軍事力に回す財力を削ることが必要なのだそうだ。こうして目に見える形で資金を投じることができる別荘は、そのアピールには格好の機会だという。貧民に施しを与えて民の信頼を得たなら、それと同じ金額を使って馬鹿なことをしなくてならない。経済を回すこともあるが、それ以上に他の貴族から讒言される事ほど馬鹿馬鹿しいことはない。サーシャは自嘲気味に笑う。

「お貴族様も大変ね」

 どこもそんな話ばかり。そう零すイーニャにも思い当たる所があるらしかった。

「中も外も敵だらけ。大公家だってイーナが思っているほど優雅な生活ではないわ」

 もう止めましょ。サーシャが言ったとき、馬車が止まった。扉が開くと、既に踏み台が用意されている。御者二人が扉を支え、その先には使用人が左右に並ぶ。

「おかえりなさいませ、お嬢様」

 執事と思しき人物がサーシャを出迎える。サーシャが下りると、私たちに対して深々と頭を下げた。イーニャは手慣れているのか、降り立つと腰を落としてあいさつする。マーリャも慣れているようだ。私もその様子を見ながら、ぎこちなくあいさつした。

「ようこそお越し頂きました。私共一同、精一杯の歓迎をさせて頂きます」

「私たちには勿体ないほどのご歓待、感謝いたします」

 儀礼的にだろうが、当然ながらイーニャの声は普段とは違う。サーシャと執事の先導の下、私たちは使用人の並ぶ間を抜けて屋敷へ入っていった。

「ミーシャは離れに?」

 玄関を入ってすぐ、大広間とでもいうべき空間には二階三階へと抜ける階段、そして、吹き抜けの天井には贅を凝らした金色に輝くシャンデリアが三つ並んでいる。床には大公家の色、青の絨毯が敷かれ、私たちの歩く先を示している。両脇に階段を見ながら先へ進めば、広い廊下の両側に甲冑が並んでいる。見とれる私をよそに、サーシャは奥へ奥へと歩みを進める。廊下を歩く中で、サーシャは執事にいくつか確認をしている。

「はい。それに、お嬢様が仰せになった方もいらっしゃいます」

「あら、Ямадаヤマダもいるのね」

 先日、インペラトール広場の地下室でサーシャが拾い上げた彼だ。資料として引き取ると言った彼は、あの牢から離れて既にここに来ているようだ。

「ヤマダ?聞きなれない女性ですね?」

 リーヤが首を傾げる。それはそうだろう。別な世界から来た。そんなことを軽々言ったところで信じる人がいるとは思えない。

「はるか東方から来た異邦人、と言うべきかしら。それによ」

 イーニャも信じ切れていないといった風だ。リーヤが反対側に首を傾げる。そりゃそんな反応にもなる。なぜか流暢な帝国標準語を器用に操る東方人なんて、私も本人を目にしなければ信じられなかっただろう。いや、本人を目にしたって絶句した。

「お茶とお菓子を運ばせて。後の話は私がするわ」

「承知いたしました。お嬢様」

 渡り廊下を抜け、離れと言われた建物の前に立つ。とはいえ、私の家と同じか少し大きい位の建物。装飾の費用を入れれば、私の家など三軒は建つに違いない。執事を母屋に戻させてからサーシャはノブに手をかける。

「これが離れ、ねぇ」

 分かっていたけど。そう言うイーニャもため息をつくくらいだ。一方でサーシャは何の感慨もないと言った風に、ドアを開けて私たちを中に誘う。

「ミーシャ」

 中に入れば、階段の前で兵士たちと打ち合わせをしているドミトリーさんの姿が目に入った。正門を警備していた兵士と同じく青い制帽の大公国兵だ。

「おかえりなさいませ、お嬢様」

 ドミトリーさんが跪くと、兵士たち六人は、カーペットの両脇に整列する。隊長らしき兵士の捧げ銃の号令とともに、銃を顔の前に持ってくる敬礼で私たちを出迎える。閲兵式で見た帝国近衛兵を思い出した私は、さすが大公国と心の中で拍手する。

「彼は?」

「二階に」

 掌で階段を指すと、ドミトリーさんが先導して上っていく。階段の先、吹き抜けを挟んで反対側に、二人の兵士が守る部屋が見える。私たちが近づくと、一人は敬礼、もう一人はドアノブに手をかけた。ドミトリーさんの指示でドアが開けられると、部屋の真ん中に件の彼の姿があった。

「ミーシャも中に」

 サーシャはそのまま部屋に入っていく。白い壁で覆われた明るい部屋だ。レースのカーテンは小鳥たちが遊ぶ細かな装飾に覆われている。厚手のカーテンは、やはり大公国色の青で統一されている。部屋の中央にはガラス細工の丸いテーブル。テーブルには八脚の椅子が囲むように配置されていた。彼はそのうちの一つに座っている。困った表情だった彼は、私たちの姿を見るなり勢い良く立ち上がった。

「ずいぶん面白い話を聞かせたそうね」

 好奇心にあふれた目は、新しいおもちゃを買ってもらった子供のようだ。散々焦らされた後のように、すぐにでも面白いものが見たい。その声はそう訴えかけていた。

「正直に申しまして、信じるに値するとは思えません。彼は見てきたように語りますが、そんな世界が実在するとはとても」

 サーシャの椅子を下げながら、彼は困惑した声で言った。

「しかし、基礎知識と思考力は本物です。磨き上げれば参謀将校にも比類するかと」

 全員の視線を集めた青年は陸軍の制服だ。深緑のダブルジャケットには胸ポケットに帝国の紋章。飾り襟は金ボタンと共に引っ掛けられている。ズボンは白。その姿は帝国新兵、それも将校候補の学生といった姿だろうか。牢にとらわれていたみずぼらしい姿の囚人は既に存在しない。

「僕も、こんな話されたら信じられないでしょうし」

 困り顔のヤマダ青年は、ぽつぽつと元居た世界の話を始める。陸に海に、そして空にも羽ばたいた人々の姿。彼はその姿を鋼鉄と火の文明。そう呼んだ。

「鉄と火を扱う技術が世界を変えたのは間違いないと思います」

そう語る彼の世界は夢のよう、いや、幻想のようだった。あらゆる距離がなくなり、例え世界の反対側であろうと、その場所の情報が即座に手に入る。世界は広いが、ずいぶん小さくなってしまった。彼はそう例えた。文明を維持するために、多量の鉄が生産される。何万トンの鉄が一日で生産される。単位がよく分からないが、船の積載ラストと同じとしたら、相当の量だろうか。そして燃料も。見上げるほどの石炭の山でさえ、一日あれば燃やし尽くしてしまうという。私たちとは桁違いの資源の消費量。猛烈な勢いの経済活動は、確かに矛盾をきたし確実に世界のバランスを崩し始めているらしい。それでも彼の世界の人々は、矛盾を修正しながらこれまで通りの生活を続けるだろう。いや、もはや流れを変えるには遅すぎるのかもしれない。

「僕もその世界のすべてを知っているわけではないです。でも、僕が体験して、そして知っている世界はそうなっていました」

彼が最後にそう言えば、確かに作り話というには出来過ぎている。本当にある世界でなければ、どこかで辻褄が合わなくなっているだろう。が、それが無い。価値観も何もかもが違う世界だが、確かに彼らの常識でいえば矛盾は起きていなかった。紅茶とお茶菓子を手に話を聞く私たちは、その途方もない世界観にただただ圧倒された。

「確かに、想像もつかない世界ですね」

 絶句するイーニャの横で、しかし、手を合わせて喜ぶリーヤがいる。馬車なんて目じゃないほどの速度で鉄の道を走る鋼鉄馬車。そして、小さな町ほどの大きさの貨物船。確かに海運を担う者なら注目もするだろう。一方で、空を飛んだ人間に注目したのがサーシャだった。金属の翼が空を舞い、世界のどこへでも飛び去っていく。それでは飽き足らず、人々は雲を抜けた先へと思いを馳せた。彼が言う宇宙という存在。月も太陽も霞むほど遠くの世界に希望を託した人々は一体何を考えていたのだろう。

「それにしたって、初めて空を超えて飛んだ人間が、ユーリィ=アレクセーエヴィーチ=ガガーリンねぇ」

 その男は漁師だったのかしら。なんて言うサーシャの横で、ようやく思考が戻ってきたイーニャが頭を抱えながら言う。既に思考が飛んでいるような状態で、やっと戻ってきたような感じだ。彼女がここまでの呆れ声を出したのも久しぶりではないだろうか。

「きっと、空へ打ち上げろってうるさい男だったんでしょうよ。ガガーラなんてあだ名を付けられるくらいよ?」

 ガァガァと鳴く海鳥のアビが語源というなら、どちらもありえそうな気がする。ガガーラなんてあだ名を付けられる人は、大抵は大笑いして騒がしい人。一方で、大型の魚の居場所を伝えるので、漁師にはありがたがられている。彼が言う空の探求者たちにとってはとてもありがたい存在だったのだろうか。

「いや、ガガーリンは農家出身だったらしい。確かに笑ってる写真は多いけど」

 父親は大工。そんな身分の人間が、時代を変える偉業を行う。普通は軍人だとか、もっと身分のある人間がすることじゃないのか。イーニャの質問はもっともだと思う。

「彼は農家から軍人になった。そして、空を超えて飛ぶことに選ばれた」

 身分制度はずっと緩いようだ。一つの地位に縛り付けられた私たちとは違う。

「でも、皇帝陛下はさぞかし誇らしかったでしょうね」

 リーヤの言葉に彼は言葉を詰まらせた。続けて出てきた言葉に私たちは何度目かの衝撃を受ける。二度目だというドミトリーさんは、それでもかなりの衝撃を受けていた。

「もう王族はいないんだ。その国は確かに君たちに似ているけど、帝政じゃない」

 労働者が自ら国を律し導いていく理想を掲げた政治のことを共産主義というらしい。農奴も支配階級もすべて廃止され、あらゆる人々が平等に全てを為せる時代。正直私たちには想像もつかない社会体制がそこにはあったのだ。

「でも、実際には理想通りにいかなかったけどね」

 労働者の労働者による労働者のための政治を掲げた共産主義は、しかし、自己に内包する矛盾のために倒れた。限りなく続く軍拡競争に、無くしたはずの市場原理が耐えられなくなったのだという。そしてその国は、現実的に民衆が国を導く民主主義へと舵を切る。

「僕がいた世界では、王様はいても権威だけ。統治はしない」

 最善ではなくても、許容範囲内で政治が決まっていく。そこには国民の声があり、統治者もまた国民から選ばれる。そのための代表選挙が国を挙げて行われ、国政を担う人々が送り出されていく。そんな社会だという。

「だから僕も、家は農家だけど大学まで行けた。身分は自分で選べるんだ」

 すべての価値観が違う世界。そこからこの国へとやってきたなら、その差を自己が受け入れるまでにかなりの時間がかかるだろう。互いの常識すら違う状態では、本能がそれを受け付けない可能性だってある。私だって、仮に彼の世界へ行ったなら、戸惑うどころでは済まないだろう。

「それと、ガガーリンはサーシャみたいなことを言ってる」

 サーシャの視線がきつくなる。私たちも彼を一層強く見た。

「空を超えて飛んだ先で、地球が丸いことを確認したガガーリンは言ったんだ。周りを見回しても、姿ってね」

 サーシャが大きく息を吐く。全員が言葉をなくした。彼の世界ではそれが真実だ。もし世界の仕組みが同じだとしたら、私たちの世界でも神は幻想となってしまうのだろうか。

「もちろん、神がいないかどうかは分からない。自分を律するために信仰を持ち続ける人もいる」

 まさにサーシャと同じね。悪態をつくイーニャの横で、彼女は何も言わなかった。ただ頭に手を当てて、じっと目を閉じている。零れるような笑い声は彼女から洩れた。頭を振ると、再び頭に手を当てる。後に残るのは沈黙が残す余韻だった

「あ、あなたの国も海軍は強かったのでしょうか」

 この沈黙を打ち破ろうと声を上げたのはリーヤだった。私の時と同じだ。尊敬する父が選んだ路線が間違っていないことを確認したい。彼女の言葉はまっすぐ彼に届く。虚を突かれた彼はしばらく考え込んだ。

「僕の国じゃないけど、たぶん世界が束になっても勝てないような海軍を持ってる国があるかな。うん、いくつか例外はあるけど昔から強い国は海軍が強かったと思う」

 彼は私たちの知らない国をいくつか挙げると、二つほど例外を挙げた。陸軍が強かった国は、航路の入る余地のない内陸の街道を支配したのだという。が、航路が拡大し船の性能が上がるにつれて没落を余儀なくされていく。巨大な輸送力を持つ鉄の馬は、しかし、船の弱点を補う形で存在するのだ。彼はそう答えた。

「この世界には銃がある。だとしたら、鋼鉄を扱う技術が発展して船が巨大化するまでそう時間はかからない」

 彼は、扉の向こうの兵士を指しているのだろう。火薬と鉄が出会った結果の銃は、種々の変化を起こしながら騎士たちが支配した戦争を少しずつ変えていった。彼は、この変化がやがて世界を一変させる鉄と炎の嵐に代わるという。誰かがそれを発明さえすれば、世界はものの十年で一変する。後戻りはできない一方的な変化。たとえ大国であろうとも、変化に耐えきれなかった国は消滅していく。彼の世界でも、そうだったらしい。

「その発明は何なのよ」

 身を乗り出すような勢いでイーニャが聞く。彼は驚いたように仰け反ったが、やがて、頭を振って、彼女の質問を制した。

「ここで僕が言うべきじゃないと思う。この世界には、たぶんこの世界の流れがある。それを変えてしまうのは良くないと思う」

 イーニャは不満そうだったが、鍛つには早し、か。と渋々納得したようだ。その代わり。イーニャは条件を出した。

「うちの工場を見に来なさい。そこでヒントを貰うわ。あなたは遠回しに言い、私たちが理解できるか試せばいい。それならいいでしょ?」

 じっと話を聞いていたサーシャが口を開く。口元を見るだけで興奮しているのがありありと分かる。その目に灯る未知への興味は、夜空へ吹き上がる火山のようだ。膨大な燃料が投入された彼女の探求心は、例に無いほど燃え上がっているに違いない。

「いいわ、次はイーナの工場で話をしましょうよ」

 二人の後ろでめらめらと燃える炎。リーヤとそれを見ていた私が軽い恐怖心を抱いたことにもはや説明は要らないだろう。

「やはり海の時代ですか」

 その声はおそらく周りには聞こえていない。熱を上げる二人の間に溶けるように消えていったリーヤの言葉は、二人からすれば何の感慨も無いように聞こえるだろう。しかし、私の耳に聞こえた彼女の声は、何かを方向付けるための決意をはらんでいた。何か確信を得たに違いない。私が彼女の名を呼ぶと、彼女は、これまでよりも少し凛々しい声で返事をした。

「父は間違っていませんでした」

 リーヤの声は私の胸を打つのに十分だったろう。これまで散々な言われようで蔑まれ、戦争でもあまり注目されなかった海軍は、まだ巻き返すことができる。彼女にその確信が得られただけでも収穫だったのかもしれない。

「ミーシャ、出かけるわ。馬車の準備を」

 サーシャが一言発すると、ドミトリーさんはすぐに扉へと歩み、衛兵に声を掛けた。立ち上がったサーシャに続いて、一通りお茶とお菓子を食べてしまった私達は、ヤマダの言葉を確認するように再び出かける用意を始めた。

「お嬢様、お出かけに?」

 執事がサーシャに確認すると、カバンを受け取ったサーシャは頷く。

「えぇ、イーナの所に。夕飯は運ばせて」

「いいわ、うちで用意させる」

 イーニャが続けて言えば、サーシャは執事に向かって二度右手を扇いだ。

「承知いたしました。すぐに馬車をこちらへ廻させます」

 緊張した面持ちのヤマダはドミトリーさんに続いて階段を下りていく。馬車を先導するために先に軍馬に向かうようだ。さて、ここから忙しくなりそうだ。私は息巻くサーシャとイーニャを交互に眺めて思った。

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