第10話 凪の図書館に知は集う

 夕方も近くなった図書館に人気は少ない。今日はサーシャもいないのだろうか。静まり返った室内で、目当ての本を抱えた私は、席へと歩いている。自習という事で、私が読んでいたのは通商共和国に関する本だった。リーヤに対してあれだけ言った手前、もっとよく知っておきたい。だからこそ、私はここに来ていたのだが。

「カーチャがいれば、はかどりそうです」

 同じ考えだったリーヤとばったり会ってしまったのだ。本棚を挟んで目が合い、それから机に隣り合って勉強している。リーヤは私が訳したノートを見て目を丸くした。共和国語は帝国語とは文字からして違う。それに、文法自体もかなり異なっている。その為、読むにはある程度の慣れが必要だった。

「カーチャは読めるのですか?」

 私が共和国語の本をめくっていると、リーヤが手元を覗き込む。三つ編みがずれて、肩から滑っていく。彼女の手元には共和国の通商史があった。

「部分的に、くらいかな。お父さんに結構教えてもらったんだ」

 私を見上げた宵闇のような濃い紺の瞳は、声に出さずとも尊敬の色が浮かんでいる。そういえば、ヴェレヌィと違って、川を遡った先にある彼女の領地には外国の商人の姿は少ないという。時折聞こえる列島王国語は辛うじてわかるが。彼女は少し悔しそうに言う。

「海を越えていくのが海軍なのに、超えた先の相手が何を言っているのか分からなければ意味が無いように感じて」

 元をたどれば、彼女の家は大河の水軍が起源だ。漁師の総括役だったサーシャの家とはそもそも毛色が違う。外に出るのではなく、外から来たものを防ぐ。それが本来の役目だったのだから。

「大丈夫。リーヤはもう海軍の価値に気付いてる。それに勉強なんて後からいくらでもできるから」

 お荷物という言い方はまだ優しい方で、溺れるロバなんて言われ方をする海軍だが、彼女の父親の改革は少しずつ実を結びつつある。それに、共和国の海軍ではなく通商史に目を向けるあたり、彼女の感性は間違っていないと思う。

「ほら、この人」

 私が指したのは、共和国語で埋め尽くされたページにあって挿絵として大きく描かれた肖像画だった。黒い鎧を身にまとった姿だが、袖口、襟には白のフリルが付き、兜には金の線がいくつも走った豪勢な作り。肖像の彼こそ、通商共和国が競合する複数の共和国を併呑して支配的な力を持つに至る過程を作り出した人物だった。黒旗の雄将ことジョヴァンニ=フェラーラ。通商共和国で最も尊敬を集める勇敢な人物だったという。

「彼は船と重装歩兵、そして騎兵を上手く使って競合する島々を攻略していったの」

 今聞いても思いつかないような奇抜な方法。文章は共和国語だが挿絵の中には当時の戦闘の経過図がある。リーヤは一枚の図を丁寧に追っていく。そしてゆっくりと頷いた。

「確かに考え付かない方法です」

 彼は船団を二つに分け、一つに重装歩兵を、もう一方に騎兵を乗せた。敵が待ち構える島へ弓で援護された重装歩兵を上陸させると、わざと上陸に手間取っているように見せかけたのだ。実際、彼自身が鎧のまま海に落ち、溺れたふりをしたこともあったらしい。そうすれば敵は、このまま海岸から追い落とそうと出撃してくる。敵主力と海岸で防戦を繰り広げているすきに、別に移動していた船から騎兵が出撃し、敵を挟撃することで撃破する。彼はこの戦法でライバルだった近隣の島を次々に撃破すると、一つの共和国としてその成立を宣言したのだ。

「最後に、彼は大陸に進出しようとして帝国と戦い戦死した。でも、彼の遺志は今でも共和国に生きている」

 彼が後継者として指名したのは、かつて最大のライバルだった豪商ジュゼッペ=ヴェネティ。彼は最後まで能力による采配を捨てなかったのだ。フェラーラから執政官の地位を譲られたヴェネティは特に艦隊の整備と東方への進出に力を入れた。帝国を含む大陸との通商的な友好関係を築いたのも彼の成果といえる。

「この男性ですね」

 次のページには白を基調とした色とりどりの装飾に包まれた大柄の男性が肖像として描かれている。見た目に似合わず、温和で決して怒鳴ることのなかったその人柄から、俗に聖人僭王と呼ばれたのだという。彼こそ、統一された共和国を海軍強国として押し上げたその人だった。

「巨大な経済力を背景に、強力な海軍は成り立つのですね」

 現在の父の姿と重ね合わせたのだろうか。確かにロジェストヴェンスキー家の経済力を見れば、自ずと納得できてしまうかもしれない。それほど、海軍整備にはお金がかかるのだ。

「今は、もうヴェネティ公も亡くなっていますね?」

 ヴェネティの治世末期に、巨大化した政府を議会と共にコントロールするには、一人では負担が大きいと判断したのだろう。彼は、後継者として三名を挙げ、それぞれに執政官の役割を分散した。ここで、現在の共和国の姿が誕生する。当時三羽烏と呼ばれた三人は、現在では三賢人、三賢老と呼ばれるほどになった。今は、共和国の伝統に沿って、後継者を選ぶ途中だといわれている。

「うん。後を継いだ三賢人も年老いて、後継者を選んでいるとか」

 東方との通商を以て莫大な富を得て、それを交易船に、海軍に変えていく。そして、さらに莫大な富を築き。共和国が行っているのはずっと未来への投資なのだ。金色に彩られた宮殿の挿絵をめくれば、次のページには全く違う景色が映し出される。

「ものすごい数の船ですね」

 フェラーラが登場する以前に行われた、列島王国と通商連合国間で行われた海戦。小さなページ一杯に、大小数多の軍艦の姿が描かれている。この海戦で両軍は多数の戦闘艦を失い、協調路線へと舵を切っていく。それは伸び行く帝国を警戒してのことだっただろう。

「たぶん、リーヤが思うのはこういう海軍じゃないかな」

 時代を経るごとに海軍の需要と姿は少しずつ変わっていく。当時は純粋に雌雄を決する立場にあった海軍は、大砲の発達によってその威容で国力を示すものへと変わりつつある。一隻に何門の大砲を積むことができるか。徐々に巨大化していく戦列艦に、一貴族が対応していけるのはごく短い期間かもしれなかった。

「はい。でも、今の軍艦をここまで揃えるのは、当家の力だけでは無理でしょう。悔しいことではありますが、伯領一つでは限界があります」

リーヤの言葉に私は首を振る。少なくとも彼女は海軍改革に賛同して、しかも、他国海軍の在り方に興味を示せる稀有な存在だ。それだけで、彼女がを変えていく資質があると思う。

「大丈夫。ロジェストヴェンスキー伯爵の改革は十分な成果を上げてるし、リーヤもそれを受け継げるわ。協力者も増えていくはずよ」

 少し自信無さげだが、リーヤは私に笑いかけた。少なくとも父は海軍を評価している。このまま大陸の均衡を守るには海軍の力が必要だと。私がそう言えば、リーヤは目を細めた。窓辺から落ちる柔らかな日差しが、私と彼女の髪を撫でていく。暖かな部屋が心地よい。それからしばらく、私達は共和国語を訳しながら本を読み進めていった。

「随分と楽しい勉強をしているのね」

 後ろから掛けられた言葉に、私とリーヤは同時に振り返る。そして、リーヤは椅子から落ちる勢いで跳ね上がった。私もその姿に心臓が波打つ。

「ごきげんよう、エカテリーナさん、リリーヤさん」

 黒髪を金のリボンで結び、襟元に知性の蛇を侍らせた大公国の長女。少しイタズラじみた声と目に、私の心臓は再び跳ねた。

「アレクサンドラ大公令嬢、大変ご無礼を」

 慌てて立ち上がろうとしたリーヤをサーシャは右手で制した。刹那、私と目が合う。何も言わずとも、その深い紺色の瞳は私に略称を使えと命令していた。

「さ、サーシャ?」

「結構」

 至極落ち着いた声。私は安堵するが、目の前のリーヤはその目を白黒させている。どうやっても状況が読み込めないに違いない。手袋をはめ直したサーシャは本番とばかりにリーヤに視線を向けた。

「リーヤはいつも私の願いを聞いてくれませんね?」

 脅迫だ。無意識に乾いた笑いが喉から漏れ出す。種々の感情が入り混じった笑顔に対して、頬が引き攣るのが分かる。怖い。真っ先に浮かんだのはそんな感情だった。

「いえ、そんなことはございません。さ、サーシャ」

「上出来よ」

 サーシャは一度目を閉じると、一切の感情を消してしまった。何も語らない目。それは安堵感と共に先程以上の恐怖を巻き起こす。

「私も必要以上に疲れたくはないの」

 鼻を鳴らしてそう言えば、先程のわずかな笑みが彼女の表情に戻る。赤みを帯び始めた陽光に照らされた顔は、いつも以上に感情を語っているようにさえ感じる。

「サーシャは本を返しに?」

 私の質問に彼女は無言で頷く。抱えられた本を少し持ち上げると、彼女は窓向こうを見た。傾き始めた太陽が、ポプラ並木の白を松のような赤い木肌へ染めていく。

「その途中で面白そうな話題を見つけたものだから」

 机の向かい席に座った彼女は、私の手元を人差し指で示す。リーヤにちらりと視線を向けると、私に戻ってきた目は飼い犬を見るような楽しげなものだった。

「サーシャはリーヤとは知り合いで?」

 言い終わらないうちに、私の隣から椅子が跳ねる音がした。顔を真っ赤にしたリーヤを見て、サーシャは思わず吹き出したようだ。私は訳が分からず、二人の顔を代わる代わる見るだけになった。

「えぇ、そうね」

「いえ、そんな畏れ多い!」

 サーシャの肯定を勢いだけで否定したリーヤの顔を見るに、私がサーシャに初めて声を掛けたあの日の感覚に似ているのだろう。慕うほどに尊敬する人から、友人と言われることは確かに畏れ多いのかもしれない。

「我が父と伯爵閣下は盟友ではなくて?」

「それは……そうですが」

 サーシャの父ヴェレヌォフスキー大公は、陸軍元帥バグラチオン公爵と共に陸軍の改革を進める中で、これまでにない勢いで海軍改革を推し進める海軍中将ロジェストヴェンスキー伯爵に目を付けたのだという。多少強引にも見えるそのやり口は、陸軍保守派の反発を招いていたが、先の大陸西方遠征にてその成果を存分に発揮したのは既述のとおりである。

「我が父はロジェストヴェンスキー伯爵を改革の盟友として重視しているわ。それなら、私があなたの知見を活かしたいと距離を詰めるのも当然ではなくて?」

 二人の会話を眺めれば、珍しくサーシャからアプローチしているようだった。改革派の父の影響を受け、既存の常識に疑問を投げかけた人物とあれば、確かに興味深いのかもしれない。

「アレ……サーシャの噂についてよく聞くかもしれませんが、ほとんど根拠のない嘲りだと私は思いますよ」

 しばらくサーシャと話していたリーヤは一呼吸置いて私にそう言った。付き合いの長い二人だからこそ、分かる所があるのだろう。私が深く頷いてサーシャを見た。一所作ごとに気品が漂うその姿の裏に、燃え上がる探求心を持つ本来の姿が隠れている。

「多少型破りな所がありますが、不孝行なお方ではありません。むしろ、その逆です。誰よりも信心深いからこそ、他の追従を許さずに一人離れたように見えるのでしょう」

 私は地下牢でのサーシャを思い出す。誰よりも早く主教様に跪き、悪魔憑きと呼ばれた二人に対し、せめて魂は救われるよう教書の一文を読み捧げたではなかったか。

「ずいぶんな評価の仕方ね、リーヤ、カーシャ」

 少し不満げなその声に、今度は私達が笑う番だった。リーヤが言うには、サーシャは母のように好奇心の強い人だという。その人柄を聞けば、やはりその才覚は母親譲りなのかもしれない。私たちはそのお眼鏡にかなったのだろう。そうした相手には、こうして遠慮なく話をする事すら許可するのだ。

「それで、リーヤはカーシャと知り合いだったのね」

 私と同じく、意外な交友関係に驚いた様子だ。とはいえ、私とリーヤは今日出会ったばかりというのもある。そのことを言えば、彼女は呆れたように笑った。しかし、その表情には羨望が見て取れる。

「お昼にご挨拶をして、そうしたら先程バッタリと再会しまして」

 サーシャは持っていた民話集を横に退けると、リーヤの本に注目した。納得したように頷くと、今度は私の本に目を向ける。

「共和国は海軍が強いものね」

 造作もないという風に、ページに書かれたフェラーラの詩を逆さ読みで歌い上げ始めると、その勢いでリーヤに顔を向ける。器用というよりも、暗唱した詩を曲に乗せるような感じだ。

「わぁ、さっすが」

 関心を通り越して呆然とした私を横目に、サーシャは続けて演劇のような口調でリーヤに訳の詩を向けた。

「君は何を欲するか。私は何を為すべきか。君は何を求めるべきか。そして、私は何を与えるべきか。しかるべき後に君が受け取ったのならば、もう何も求めてはならないのだ。……フェラーラの詩よ」

 真に人が求めるのはただ一つだけだと信じた彼は、数多く残した詩でもその信念を歌い上げている。どこかサーシャと重なるものがあるのは気のせいではあるまい。

「自らの教訓なのでしょうか?」

 数多の戦闘と経済活動での衝突を経験した彼は、なぜ人は争うのか、その根本を探った。自らにもある支配欲こそ、人を突き動かす原動力なのだと断じたのだ。しかし彼の最期は、皮肉にも自身の支配欲から大陸へ進出したことだった。

「そんな彼が生涯愛した詩があるわ」

 サーシャは、相変わらず逆読みでページをめくっていく。よく読めるものだと感動すら覚えたところで、彼女の手が止まった。銀色のプレートアーマーを纏った地味な姿。手に持つ槍には赤い布が巻かれているが、そこに黒旗の雄将の面影はない。初陣のフェラーラを描いた珍しい絵だという。

「汝、平和を欲するならば戦いに備えるべし。平和なき備えは飽くなき戦いを招き、備えなき平和は他者の飢えを招く」

 技術が急速に進歩する中で、危うい平和を保っている大陸においてどのように平和を維持するのか。その答えの断片を、この詩は持っているのかもしれない。

「備えるべし、ですか」

「えぇ、戦わずとも勝てないと見れば誰も挑んでは来ないわ」

 これまでの陸軍を見れば、その内容も分からずではない。挑んで来た者を尽く跳ね返した陸軍の精強さを見れば、守りを固めて対抗しようとする他あるまい。

「そして、これからはあなた達が言うように海軍の時代になるでしょうね。それも、遠からぬうちに」

 私たちが話していた内容をおおよそ察したのか、落ち着いた口調でサーシャが言う。動員できる兵隊が増えていく中で、彼らを養うために運ぶ物資は、陸路では限界を迎えるだろう。

「先の大陸西方遠征で学ぶべきはそこだったのでしょうが、陸軍のご老人方には些か難しい課題だったのでしょうね」

 港町を押えることの意味。それこそ、陸軍が次の時代へと羽ばたくのに必要な教訓なのだろう。そしてそれを得ているにも拘らず。

「常勝の老人方は、負けねば時代を理解できないでしょう」

皮肉交じりのサーシャの言葉は、しかし私たちに突き刺さる。私たちは常識というものを信じ切ってはいないか。正しいと思い込んではいまいか?

「それは、私達も含めて、ですよね」

 おずおずと切り出したリーヤに、サーシャは鼻を鳴らして当然だと答えた。目に見える世界をそのまま受け取れない。私たちはどうあっても正しい見方でものを見ようとするのだ。

「そこにあるものを、こうでなくてはならないと決めてしまう。故に人は迷うのでしょうね」

 部屋に夕陽が落ちる。赤銅色に染め上げられた本棚が辺りに居並び始める。ひとしきり議論した私たちは、ほの暗くなった室内に気付くと誰ともなく目配せして本を閉じた。

「そろそろ閉館の時間よ。返した方がいいわ」

 サーシャが持ってきた本を抱えて立てば、私達も後に続く。あれほど鮮やかだった本棚の木目は既になりを潜め、書庫の奥からインクで塗りつぶしたような影が落ち始める。窓にはめ込まれたような空に浮かぶ雲は、燃えるような鮮やかさで徐々に色を取り戻し始めた月を抱擁している。向かいの校舎には、図書館の影が伸び始め、間の花壇は、既に眠る準備ができたように静かだ。

「カーチャ、今日はありがとうございました」

「ううん、私も勉強になったから」

 一瞬の風が、校舎屋上の旗を揺らす。書棚の影は深さを増し、いよいよ夜の訪れを知らせるようだった。そんな中で、振り返ったサーシャの視線が私達を捉えたが、夕陽の陰になったその表情を読み取ることはできなかった。

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