第7話 未知を見て未知を知らず

 月曜日はいつもより早く礼拝が始まり、全生徒が神への祈りを捧げる。私たちを見つめる慈しみ深き目。ティーホン主教様が壇上に立っている。生徒たちがベルを合図に顔を上げると、主教様は深く頷いた。

「皆様は、将来の国を左右する重責を担う身。ですが、それは一人の人間としての道徳と尊厳を備えた上で背負うべきものです。ですから、どうか皆様に人間としての優しさがありますように」

 忘れようもない昨日の事件の後、別れ際に主教様から同じ言葉をかけられた。真っ先にサーシャが跪き、十字を画いた。私たちも慌てて続く。主教様は、大変によろしい、と、私たちの頭を十字架で撫でた。立ち上がったサーシャは、主教様の前で、神は信じませんが、人間らしい立ち振る舞いに信仰心は必須でしょう、そう言ってのけたのだ。ぎょっとした私たち二人に反して、主教様は表情を崩さずに深く頷いた。人々の心には寄りかかるべき柱が必要なのだ、と。

「今日は月曜日です。聖キリルの勝利を祝い、もう一度祈りを捧げましょう」

 壇上の主教様は、昨日と変わらない慈愛に満ちた表情だ。たとえ異教徒が異なる神を崇めていても、それを制することはできない。我等が聖キリルを祀るように、彼らは固有の神に祈りを捧げる義務があるのだから。と言う。サーシャの言う人間らしさの根底に必要なのは信仰心、ということなのだろうか。

礼拝を終えて、昨日のことを思い出しながら教室へ向かっていると、後ろからトントンと肩を叩かれた。ずっと引っかかっている二人の会話を思い出していたせいか、周りの音が聞こえなくなっていたらしい。振り返ると、赤いリボンで後ろ髪を結んだイーニャ姿が目に入る。

「おはよう、カーチャ。考え事とは珍しいね」

 空を透き通るような青に染める太陽は、イーニャの髪留めを金色に輝かせる。昨日と変わらない、鷲の髪留めだ。聖キリルの武勇を表すのには鷲がよく用いられる。勇猛な大鷲が槍を届けたのだとも、大鷲が槍に姿を変えたのだとも言われている。そんな勇敢さの象徴にあやかって、男子には健やかな成長を願って、女子にはその加護で守られるよう願って鷲の装飾品を持たせることも多い。

「おはよう。主教様とサーシャのやり取りを思い出してたんだ」

 イーニャはあー、あれかー、と視線を遠くに向けた後、私の方へ向けなおす。

「難しいこと言ってたなぁ、あの二人」

 創造主としての神ではなく、傍観者としての神を信仰する、と言ったサーシャに、主教様は、それは不信心ではなくあなたの信仰なのです。と言った。私が、新しい信仰ですか?と聞けば、主教様は、神を自らの立ち位置から称えることが真に信者となるには必要なのですよ。と返された。一晩経っても、全く意味が分からないでいる。

「あたしもよく分かってないなぁ」

 まぁ、いいけど。イーニャは割り切った感じだった。私たちを指した言葉が聞こえたのはその直後だ。聞き耳を立てたところで、イーニャは無言で私の肩を掴む。にこやかなものではなく、力を込めた、本気の警告、といったところか。

「あの二人でしょう、無神論者などという愚か者に入信した異端者は」

 すれ違いざまに見れば、袖口が白。高等部の三年生だろう。制服の襟には白のレースでの飾り襟が追加されている。帝冠を模ったレース材を使えるのは侯爵以上の貴族の長女のみ。私とは歴然とした溝がそこには存在している。

「主教様もさぞかし心をお痛めでしょう。やはり野犬がここに来るべきではないのでは」

 サーシャの話に耳を塞ぎ続けて、そしてありもしないことを吹聴するなんて。私が右足を大きく踏んだ時、イーニャはより強く肩を掴んだ。とっさに彼女の方を見る。無言で首を振る。ため息一つの間をおいて彼女は口を開いた。諦観とはまた違う、戦い方を考えている表情だ。

「やめなよ、あんなの相手にして勝てるつもり?」

 イーニャの言う通り、私が策なしに飛び出して行ってタダで済む相手ではない。政治に組み込まれた高位貴族と問題を起こしたとなれば、責任を被るのは私の役目となる。巡り巡って、父の仕事に影響が出れば目も当てられない。

「それに、カーチャは昨日何て言った?」

 サーシャを手伝いたい。本心から出た言葉だろうが、そこにはサーシャと同じ侮蔑の目を向けられることに対する覚悟は無かったのだ。私が何か事を起こせば、サーシャにも無神論者の信者が問題を起こしたと、いらぬ中傷を生むに違いない。

「ごめん」

「いいよ。あんたが問題起こしたら、あたしまでとばっちり受けるのよ」

 自分のことを心配するように言っているが、イーニャは私を心配している。昔から無鉄砲だった私に対して、計算した立ち回りで守ってくれたのはいつも彼女だった。あくまで自分に被害が無い為に、とは言っているが、それ以外の算段もあるのだろう。彼女は財閥令嬢だ。いくら経済力を基盤とした力があるといっても、政治を司る貴族から見れば体の大きな飼い犬と変わらない。周りの事を考えて行動する。貴族は特権と共に義務を負うのだ。常に社会の規範たれ。学院で最初に教わる言葉は、そして一生ついて回る。

「一応、あんたの方が偉いのよ。そこを弁えなさいね」

 いかにもイーニャらしい言い方に私は頷く。序列的には上だけど、精神年齢は下だから上から目線で忠告してあげる。彼女の言葉に換えればそんな所だろうか。礼を言って渡り廊下を歩く。幸いと言うべきか、同級生からの視線は変わっていなかったように感じる。それも時間の問題となるのだろうか。一抹の不安だが、規範という言葉が、義務と共に私の行動を決めていくのだ。それなら、取るべき選択肢は一つだけだ。

「お昼どうしよっか」

「あんた話聞いてた?」

 全身から力が抜けるくらいのため息だ。呆れ声の中でも最大だろう。放り投げる様な調子で私に飛ばされた言葉は、しかし、受け止めたつもりだ。

「聞いてたよ。だから何言われても気にしないことにした」

「あー、そりゃよかったよ」

 分かってんだか分かってないんだか。零された声に、そのまま受け取ったつもりなんだけどなぁ、と心中で返事する。悪口は聞き流す。男爵令嬢の義務としよう。

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