第5話 朝風に乗る手紙

 サーシャとの出会いから数日後。安息日たる日曜日は朝から晴れ渡り、窓からは雪を頂いた山波が遠くに見える。透き通る青を抱いた大空は、隣家の屋根から向こう、船で賑わうゴルドスチ河で、深い青と行き交う船のたてる波間と共に揺れ動いている。私は窓からの景色を眺めてから伸びをして部屋着に着替える。

「おはようございます。お母様」

「おはよう、カーシャ」

 一階に下りれば、家政婦のミラナがせっせと食事の準備をしている。食器を眺めるといくつか足りない皿があることに気付いた。母様も今日は椅子に座ってコーヒーを飲み始めている。

「あれ、お父様は?」

 そう、今日は父様用の新聞も食事も並んでいないのだ。また庁舎で缶詰になっているのだろうか。父様の椅子を飛ばして自分の椅子を引くと、カップを置いた母様が答えた。

「お父様は出張に出られましたよ。それも南部首長連邦へ。当分帰ってこないでしょうね」

「早くとも三か月くらいは帰ってこないのかぁ」

 南部首長連邦は、大陸の背骨と呼ばれる山脈を超えてずっと南へ下った先にある。大陸の背骨と言えば、踏み入れた人間は誰一人帰ってこないと言う伝説の山々であった。無謀にも挑んだ冒険者は、翌年の雪解け水と共に戻ってくる。そんな謂れもある。実際に、雪解け水に交じって数年前に発ったはずの冒険者のボタンが川岸で発見されたこともあった。そんな場所を帝国の官僚が横切れるはずもなく、ほとんどはスラヴァ河から河口へ下り、海沿いに向かう。その為に船旅だけで片道に一か月以上かかる。出かけてしまったというのだから、次に会えるのは夏過ぎになってしまうだろうか。寄港地にいくつも入り、船を乗り換えながらの長旅。急ぎの要件とはいえ、経由地の他国を無視するわけにはいかない。

「第二皇子殿下のお気に入りになったそうよ」

 聞けば、第二皇子殿下よりも先に、通訳を介さずレナートさんレナート=イワノヴィーチと呼ばれたようだ。殿下はそれを大層気に入って、次の訪問に同行するように言っていたのだという。でも、連絡もなく急に出発されるなんて。私がそう言おうとするのを見越したように、母様が答えた。

「雪解け水で川の流れが速くなっているうちに出発したいと言われたんですって。あなたが寝てから急に帰ってきて、荷物をまとめて今朝早くに出ていきましたよ」

 さっき新聞が無かったのは、新聞配達を待ってから出発したからだと言う。そこまで急ぎの出立なんて。よほど南部首長連合で何かがあるのだろうか。

「エカテリーナ様。お待たせしました」

「ありがとう、ミラナラーラ

 母様と他愛もない会話をしながら、午後は何をしようか。そんなことを考えていた時、玄関のベルが鳴った。私と母様が不思議そうに互いを見つめていれば、ラーラは玄関へと向かっていた。

「エカテリーナ様、イリーナ様がお見えです」

 戻ってきたラーラの言葉に思わず飛び上がるような感覚だった。お約束だったの?と聞く母様に、何も聞いていないと答えて、部屋着のまま玄関へと向かう。玄関に座る人影を認めて私の足は少し早まった。

「おはよう、イーニャ。どうしたの」

 玄関のイーニャは白地に赤ラインのスカートに水色の上着で外出の姿だ。鷲の髪留めで前髪を留めて、後ろ髪を白のリボンで結んでいる。私の質問に少し息の上がったイーニャは新聞を見せた。少し走ってきたのだろう。

「カーチャは今日の新聞は見てないの?」

「ごめん、今日はお父さん出張だから」

 なるほど、と新聞を開いたイーニャは、下の方に小さく書かれた記事を指した。見ていたとしても私なら見逃してしまうだろう。それでも、一瞥した私は眉をひそめた。見出しに書かれている内容はといえば、物騒なものだった。

「これ、凄く気になってね」

 本日、神に刃向かう悪魔の遣いを処刑する。刑の執行場所はインペラトール広場……。

「インペラトール広場で公開処刑?」

 重罪人を見せしめに処刑することはめったに無いとはいえ、行われることは行われる。ただ、その残酷な場をイーニャが誘うようには思えなかったのだが。そんな考えは表情に出ていたのだろう、イーニャは両手を振って否定する。

「違う違う、悪魔の遣いよ? 何だか、サーシャがいそうな気がして」

 あそこまで神とは何かに拘っていたサーシャのことだ。神の敵である悪魔が遣わせた人となれば、興味深げに来るような気もする。サーシャの話を聞いた手前、その正体について気になっている私という存在がある。以前なら気にも留めなかっただろうに。幸いにも執行時間まではまだ時間がある。私は、イーニャを応接室に待たせて、着替えるために自室へと向かった。

「お母様、イーニャと出掛けてまいります」

「あら、ずいぶんと急ね」

 母様は驚いた様子だったが、あのしっかりしたイリーナと一緒ならと快諾した。

「イーニャ、行こう」

 私とイーニャは、玄関からラーラに見送られ、スターリン家の馬車に乗った。イーニャがインペラトール広場を指示すると、御者はそのまま馬車を動かし始める。石畳を車輪が転がり、蹄鉄の甲高い音が辺りに響く。時を刻むようなこの音に、私はしばらく耳を傾けていた。

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