第3話 未知に迷い探す声

 授業後の教室ではバタバタと帰り支度の音が響く。水曜日は皇后陛下がパーティーという名の勉強会を主催する日。先生方はほとんど準備に出かけてしまうので、午後は自習となる。空き教室で、庭園で、自宅で、それぞれの居場所に対して動いていく中で、私はちょっとした興奮を覚えていた。

「どうせ止めても行くんでしょ」

 肩を叩いてきた相手に私は頷いた。家格すら違う私は本来なら出会うはずもない。せいぜい一方的にちらりとでも顔を見られればいい方だろう。少なくとも突き放されはしなかったのだから、少し話すくらいはできるかもしれない。

「せっかく招待して頂いたのに?」

 間髪入れずに盛大な溜息が聞こえるあたり、よほど心配されているのか、もう諦められているのか。互いに違う足音を響かせて、二人は図書室へと足を踏み入れた。

「どこだろう」

 図書室は静かだ。あまり人気のないこの時間は、勉強するなら絶好の機会だろう。見渡す机にその姿はない。なら、書棚の向こうに違いない。おずおずと歩みを進める従者を引き連れて、私は未踏の森へ分け入った気分だった。

「いた」

 後ろから声がしたのと、私の視線がその姿を捉えたのは同時だった。ただ本を読んでいるだけの姿。それなのに、それは額縁を超えた絵画のようだ。ページをめくる手。腰から伸びあがった背。揃えられた足。窓向こうのポプラ並木が、聖画像の背景のような煌びやかな姿に見える。一歩進むたびに、この神聖な絵画を壊してしまうのではないか、そんな背徳感が胸に広がる。それでもなお、話を聞きたいという焦燥感が歩みを進めさせた。

「ごきげんようアレクサンドラさんアレクサンドラ=イヴァノヴァナ

 後ろからつばを飲み込む音を聞きながら、私は声を掛けた。彫刻のような姿は、やはり一切の無駄なく顔を上げ、私を見上げた。瞬きをするだけで、その顔立ちから凛々しさが溢れる。高貴とはこのことを言うのだろう。

「あら、朝の方々。ごめんなさい、私名前を覚えるのが苦手で」

 初めから名乗っていなかった私たちに対して、彼女はあくまでも非礼を詫びるように左手を差し出した。視界にないはずの右手は本に栞を挟む。それだけなのに、なぜだか見惚れるような所作と私の脳は感じている。

「いえ、申し遅れました。私はエカテリーナ=レナートヴナ=ツィオルコフスカヤと申します」

 ガチガチに固まりつつも、友人は私の横に並び、一礼する。

「イリーナ=ヴラジーミロヴァナ=スターリナと申します」

イリーナが顔を上げると、彼女は一度目を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。

エカテリーナさんエカテリーナ=レナートヴナイリーナさんイリーナ=ウラジーミロヴァナ。初めまして」

 右手を胸の前に持って来て、彼女は一礼した。私たちが知っている誰よりも綺麗で上品な動きに、私だけでなくイリーナも見入ってしまったようだ。

「どうぞ、お掛けになったら?」

 そのまま右手は机を指した。そうだ、私は挨拶をしに来たわけじゃない。一度深呼吸して、彼女の向かいの席へ座る。イリーナも私の隣へ座った。

「余程私に説教がしたいのね」

 聞き飽きた。もうたくさん。そんな表情の彼女に対して、私は率直に切り出す。説法ができるほど私は理解しているつもりはない。これは私の純粋な疑問だ。ゆえに、不敬だと怒鳴られても文句は言えない。

「なぜあなたは神を信じないと?」

 彼女は少し目を閉じ、考えたような風だ。一度首を振る。中庭で風を受けて揺れ動くムスカリの花に重なり、聞こえもしない嘆息の声がした気がする。

「この世界は神が造り給うた。それはそうでしょうね。作られなければ何も生まれない」

 語り口は真剣だった。そう、神学の先生が私たちに語り掛けるように。

「神は作っただけよ。この世界を管理なんてしていない。ただ私たちを見ているだけ」

「見ている……だけ?」

 イリーナの声に彼女は頷く。それがさも事実のように、彼女の言葉は続いた。

「もし管理していたなら、こんな世界すぐになくなってしまうわ」

 さらりと発せられた衝撃的な言葉に私もイリーナも固まった。まさかそんな簡単に終末の日なんか来るはずが。そんなことを考えている私たちを察してだろうか。一段階、彼女の言い方と口調が変わる。

「あなた方は、食事を終えたらどうするの?」

 私たちの常識を問うような聞き方だった。神は神の常識がある。私たちに理解できなくとも、神もまた自ら作り出したであろう常識に従って動く。彼女はそう主張する。それは普段の作法と何ら変わることはなく。

「食器を片付け……ます?」

 イリーナの語勢が弱まる。最後は消え入りそうなほどに小さく。神が管理していないから、この悪い世界はいつまでたっても無くならない。まるでそう言いたいような口調。

「片付けられてしまうのでしょうか」

 私の言葉に彼女は少しだけ笑う。冷たい笑い。全てを見下ろす月のような。

「全知全能の神なら、私たちと違って壊せないものは作らないでしょうよ」

 彼女の言葉には、神ですら欠点があると言っている。隠された言葉は私たちに突き刺さった。私の唇は、結ばれたまま解けようとはしなかった。

「その為に、祈りを捧げるのでは」

「あなたは、食器が片付けないでくれと祈ったらそのまま放って置くの?」

 あくまで諭すような優しい口調。だからこそ余計素直に入ってくる。言い返す言葉は次々に蒸発していった。私もイリーナも、出す手はすべて弾かれ、彼女の言葉は何の戸惑いもなく入ってくる。攻めに来たはずが、防戦すらできない。

「私たちは道具と同じじゃ」

「同じよ。私たちが筆で絵を描くみたいに、神はこの世界を造り給うたのよ。その作品が気に入ったかどうかは分からない。それでも、私達は神に好かれることができたかしら?」

 イリーナの震える声は、まだ受け入れられない。その感情を物語っている。反論できないことは頭でわかっていても、感情は否定し続ける。感情的に納得できない。彼女はイリーナが言うような言葉を浴び続け、ついに学院一の変わり者という言葉すら受け入れてしまった。理性は感情に抗し得ない。彼女は反論することを止めたのだろう。

「信じられません。でも、否定できないです」

エカテリーナカーチャ?」

 そんな壮大な世界の話をされても、正直分からない。少なくとも、神学の先生がいう神の意志と全く違うことを言っていることは分かる。だからこそ、私は信じられない。でも、ここで私たちは一切の反論ができなかったことも事実なのだ。二人から同時に視線を浴びた。イリーナからは奇異を含んだ、アレクサンドラさんからは好奇を含んだ、どちらも驚きの目で。

「エカテリーナさんは珍しい人ね」

 まっすぐに私を見つめる目はさっきと違い、少し笑っている。

「えっ?」

「ここまで話して、あなた方は“そんなはずない”と全てを否定しなかった」

 孤独だったのだろうか。考え方自体をすべて否定され、挙句、自分という存在すら否定されかけた。そんな彼女は私たちも面倒な奴らとしか思っていなかったのだろう。

「アレクサンドラさん」

アレクサンドラサーシャで結構よ」

 サーシャがちらりと笑顔を見せた。一瞬ではあったが日が差すような感覚。私たちもまた略称を推した。

エカテリーナカーシャ、私はこの世界がもっと知りたい」

 サーシャが言うには、神が造り給うたならこの世界は神の言葉でできているはずだ、と言う。鳥が空を飛ぶことだって、大地が火を噴き、海が騒ぐことだって。

「すべて一つの言語で表せるはず」

 サーシャは力説した。彼女がノートに書いた説明は、先生が黒板に書くように理路整然と並んでいる。全く新しい、認められてすらないことが、ここでは世界を律するような存在感を放っている。

イリーナイーナは気にならないのでしょうか?」

 突然話題に上がったイリーナは目をしばたかせる。

「わ、私ですか?」

 人々が不思議とも思っていない事象。当たり前の中にこそ神の言葉がある。サーシャはその不思議を見つけ出したいのだ。そして、一つの理論として纏めるのだという。

「一つの理論こそ神の言語。神学者と科学者?二つじゃなく、一つになるべきよ」

 両者がもっと発展していけば。この世界は太陽を中心に回っているという地動説に教会は衝撃を受けた。その衝撃が何度も訪れるかもしれない。常識が常識でなくなる時、多くの人々は恐怖で受け容れまいと必死に否定するだろう。しかし、その先にまた別の常識があったとしたら?新たな常識を提言した人間は、更に進んだ常識を受け入れるだろうか?

「でも怖いですね」

イリーナイーニャ?」

 じっと話を聞いていたイーニャが首を振る。私の方も見たが、その言葉はサーシャに向かっていた。

「もっと社会が発展すれば、もっと便利になって。でも、もう後へは戻れない」

「そうね。私を含めて、人間には欲の底が無い。どんどんと便利なものを求める」

 家畜を飼い、船を走らせ。古代から続いた風習はどこかへ消えてしまった。荒れ狂う獣を剣で払い、より強力な武器が求められ、自然とのバランスは崩れ始めた。そして、帝国は運河を掘り山を貫いて、交通を拡充する。この先人間は一体何をするのだろう?

「行きつくところまでいけば、愚かな人間は神を使役しようして、世界は片付けられるでしょう。あってはならないこと。でも、それを行うのが人間ですから」

 あんなことができれば。そう言っていた私たちに、サーシャは考え物ですね。そう付け加えた。

「もう終わりにしましょうか」

 日はずいぶんと傾いている。校舎の鐘が鳴る前に帰ろう。三人でそう言って図書室を後にした。徐々に空が夕焼け色に染まっていく。窓ガラスが夕陽を反射して眩しい。

「私は先に」

 校門には二頭立ての馬車が待っていた。黒のコートで身を包んだ御者は、私たちの姿を見ると深々と頭を下げる。サーシャの前で開かれた扉からは、中の装飾が見て取れた。銀細工で飾られた天井、水晶がはめ込まれた柱。よく見れば、御者の襟に金色のバッチが付いている。踏み台を越えて馬車に乗り込んだサーシャは私たちに手を振った。

「では、イーナ、カーシャ。ごきげんよう」

 私たちが深々と頭を下げると、御者は何も言わずに馬車を走らせた。石畳を車輪が転がる音が、ずっと遠くまで響いていた。

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