第2話 たなびく風に未知を聞く


 鐘が鳴ってしばらく授業に身が入らない。なぜだろうか。抜けるように晴れ上がった空が窓向こうに広がる。教卓で朗々と神の教えの素晴らしさを説く教員を横目に、一欠浮かんだ雲を追いかける。もし神の意志が存在するなら、この気持ちは何という事だろうか。

「断じて違う」

 私の口から一言零れ落ちた否定。これまで散々私に向けられた奇異と嘲りを含んだ視線とはまるで違う、純粋無垢な目。彼女は赤子のように思いついた疑問を私にぶつけたに過ぎない。それに対して私はどうだったか。不愉快と思うより先に、彼女が何を思うのかが気になった。新緑の風に吹かれるポプラの木のように、彼女は自然だった。そんな彼女に興味が湧いた?否。断じて違う。

「それなのに」

 目蓋の裏にはこちらをまっすぐに見つめる彼女の視線が焼き付いている。一瞬でも羨ましいと思ったのだろうか。

「今日は神が祝福したのでしょう。とても良い天気ですね?」

 いい加減に飽き飽きする。良いことがあれば神のお導き。悪いことがあれば、神に救いを求めるように祈りましょう。ただその繰り返しだ。悪魔が我々の心から去りますように。その思いこそ幻想にすぎない。

「神の下にはみな平等です。神を信じることから学びを得るのです」

 即ち、私には学びを得る資格は無いのだろう。夢幻をただひたすらに追える理想郷などありはしない。そこに神はいるのか。そんな疑問すら許さぬ神にどう祈ればよいのか。

「この世界を造り給うた神はこの水曜日に、母なる海から陸を持ち上げ、大河を這わせたのです」

 人間すら神が造り上げたとするなら、それは随分と気分屋で放漫、粗略な存在であろう。自身の作品がこれ程争い力に溺れていってもなお気にも留めないなら、既に興味を失っているのであろうか。だとすれば、いかに高慢なのであろう。神に許しを乞う。それがいかに無意味であるか。自らの都合だけで神を頼る人々は口々に言うのだ。あなたは神の声が聞こえないのか。それこそ、神に対する冒涜ではないか。

「神は、我々の全てを見守り語り掛けているのです」

 神の声が聞こえる。それならば、私にも確かに聞こえているのだろう。しかし、私にはその言葉は理解できないでいる。もし、神の声があるのだとしたら。神の言葉があるのだとしたら。神と対話したいと思う私は思い上がっているのだろうか。私に対して神への冒涜だと口々に罵る人々の考えを私は未だに分からないでいる。

アレクサンドラ令嬢アレクサンドラ=イヴァノヴァナ

 教員が私の名を呼ぶ。そちらを見れば、教室の視線が一堂に私に集まる。見世物小屋の動物の気分とはこのことを言うのだろう。嘲るような小馬鹿にした視線と純粋な忌みの視線。教員の視線は何も語らないが、その奥底では何を考えているのだろう。

「祝福の叙述をお読みなさい。さぁ、神へ祈りましょう」

 全員が教員の掲げたイコンに注目し目を閉じる。私は立ち上がった。教本も何も持たない私に、彼女は一瞬困惑したような表情だったが、目蓋を閉じた後どうなったかなど興味もなかった。

「聖キリルが持つ槍は、闇夜を切り開き、天には再び朝日が昇り始めた。悪魔は槍の穂先に斃れ、また、悪魔の主はわずかに残った夜に逃げ帰ろうとした。聖キリルは、矢に火を灯し、闇夜への道筋を明るく照らし出した。逃げ道を失った悪魔たちは、神の与え給うた炎に斃れていく」

 私が言葉を繋ぐたびに教室はざわめく。神をも畏れぬ愚者が聖キリルの物語を暗唱していることに何を感じているのだろう。神と共に悪魔を払った聖キリルの物語を覚えているはずもない。そんな所だったのだろうか。

「神は聖キリルに言い聞かせた。我に守護されし指輪にて、汝らのゆく道を照らすよう。願わくは、人々がキリルを愛することを。そして、キリルが人々を愛することを。祈りこそ無限であり、無償の愛である。汝らが隣人を愛することを」

 暗唱は終始無心であった。幼少の頃からただそこにある文字たち。見慣れたそれらを思い出すのに特筆して苦心することなど無い。言ってしまえば、何も思うところなどない。争いの元は聖キリルが打ち払ったのだから、隣人を愛することだけが必要だ。要約すればそのようなことだろうか。

「えぇ、ありがとう。アレクサンドラ令嬢」

 相変わらず何も語らぬ目は、神の言葉に酔いしれているようだ。両手を組み、もう一度祈りを捧げた彼女は、教本を手に取る。

「では貴姉方に神の祝福がありますよう」

 指輪とイコンに口づけした彼女は、丁寧にそれを包むと、夢心地のような足取りで教室を出ていく。私がその姿を視界の端に捉えていたのは、何か不思議なものを追いかける様な仕草だったろう。

「ご令嬢様はついに野犬にまで説教をされたそうよ」

 誰とは言わないが、嘲るような声は私にまっすぐ向かってくる。私は聞こえないふりをしながら、鞄から手帳を取り出した。

「さっきの暗唱は何でしょう。悪魔のまやかしでは?」

 小声で言っているようだが、その方が聞き取りやすい。いっそ大声で言ってくれた方が耳障りでなくていいのだが。

「勉学はできるようですもの。暗記くらい訳ないのでしょう」

 嫌味と言うには些か幼稚すぎる。ここまでくれば、不愉快と言うよりもはや滑稽だ。首都で新たなことを学ぶのも一興であろう。父はそう言ったが、目下、目にするのは神の名の下に考えることすら放棄した人々。権威主義のなれの果てと言うのだろうか。疑い事も何もなく、ただそこで生きるのみ。学べることはと言えば、自らの家格と教会の権威にただ従うだけの生き方。これを学ぼうとは思えなかった。

 思い返すのは転入した当初。一月余り前の話だが、ずいぶんと昔に感じるのは、期待外れだったからだろうか。大公という家系に取り入ろうと、周りは色声を使い分けた。幾ばかりか年上だったこともあって、羨望も罵りも直接は聞こえてこなかったが、それらはすぐに嘲笑へと姿を変えた。親の顔に泥を塗り、弟妹に毒を盛る悪女。私はそのように見られていたのだろう。弟妹らが聞いたらどんなに怒ることやら。

「図書館……ね」

 私は心の中で呆れ返りながら、なお、目蓋に焼き付いた彼女の視線を見つめていた。野犬、番犬、野良猫。爵位の低い家柄や爵位を持たぬ家からこの学院に通う女子を嘲る言葉。特に、外交官としての功績から父が叙勲された彼女には外国産の子犬というあだ名が付いた。だからどうしたという訳ではない。

「あの子犬など放って置けばよいものを」

 わざと聞こえるように言っているのだろう。そう一言吐き捨てて、彼女らは教室を出ていく。高位の子女と取り巻きが出ていくと、教室には静けさが戻ってきた。

「つまらない」

 狼を飼い犬にできずに、一体何が従うのか。人々が爵位のみに跪くなら、そもそも学ぶことも必要あるまい。私には、高位貴族の保護を要せずとも着実に前に歩んでいく商人の逞しさこそ敬服すべきだろうと思う。同時に、何にも縛られずに自由に人々を相手にする商人たちが羨ましいと思ったこともある。それは、自分が縛られる存在だからであろうか。バルチック大公国の長女として何不自由なく育てられたが故に、自由とは何かを学ばずにきた。港に市を広げる外国人たちを見て、異なる神を崇める彼らを見て、私は不思議と自由になったような気がしていた。

「羨ましい」

 野犬たちが逞しく生きる姿。重ねられた彼女の目は濁っていなかった。あるがままに世界を見ているのだろうか。その世界には何が映っているのだろう。

「さて」

 招待した以上は、主がいなければ話にならない。男爵の令嬢が。そう突き放すこともできたが、私の直感はそうするなと言っていた。案外と悪い選択肢ではなかったのではないか。私は鞄を片手に立ち上がった。いつか、父と見た牧羊犬を思い出す。野性味が残るあの瞳。自由を知った上で、主に従う選択をしたのだろう。なら、野犬を手懐けるのも悪くない。

「教えてもらおうかしら」

 わずかに生き残った冬の残滓が、日陰となった廊下で消え去ろうとしている。私の期待がそのようにならないことを願いつつ、私の足は図書館に向かって歩んでいく。

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