紙飛行機は空を越えたい

笹霧かもめ

1章 見上げる青空に想う風

第1話 幽門を潜り臨む声

 過去、はるか遠くへと思いを馳せる人々がいた。彼らは地平線の向こうへ、水平線の向こうへ、思いつく限りのありとあらゆる方法で挑み続けた。未だ見えぬ地の果てへ。幾世代も移動し続けた人々は、今日も果てなどない世界をひたすらに歩み続ける。私は彼らを見た。ひたすらに進む彼らを。そして彼らに尋ねた。

「世界に果てなどないのに、なぜ歩み続けるのか」

それを聞いた彼らの長は答えた。

「それは良いことだ。我々は果てることなく命を繋ぎ続けられるのだから」

 彼らの旅が終わるとき、彼らの命もまた終わるのだ。

「あなたが私達と出会ったのも、先祖があなたを呼んだからだろう」

 彼らはもう知っている。地の果て海の果てなど無い。それでも彼らは歩み続ける。過去から歩み続けた彼らは、数多くの知恵を得た。私は思う。彼らは知の果てを目指しているのだ。やがて世界を知ったなら、彼らは次に何を目指すのだろう?

***

 教壇で女性が朗々と歌うように読み上げるのは、とある吟遊詩人が残した一説だ。彼は口伝の歴史だと主張したが、今も文学の域を抜けていない。彼が彼らと一夜を共に語らった後、地平線へ見送って物語は終わる。幻のような景色を独特の声遣いとリズムで描き出す。遊牧民の声楽を思わせる情景は、私の目蓋に見知らぬ広大な世界を思い起こすのに十分だった。

「さて、今日はこの辺りにしましょうか」

 彼女、古典文学の教師が教壇から降りるのと鐘が鳴ったのは、ほぼ同時だった。甲高い三度の鐘。それは授業の終わりを意味し、しばらくの間は数多のたわいもない雑談が午前の麗らかな陽気に溶かされていく。そんな中でひと際大きな存在を放つ話題があった。

 学院に変わった子女がいる。そんな話を聞いたのは私が進部してすぐだった。高等部から編入してきたお嬢様は、日に日に分不相応な言動が目立ち始めた。一月経てば、もはや、分不相応という枠子も越えて奇行とでも言うべき言動に悪化した。そんな話だ。

 廊下に出て伸びをした私の耳にも、ひそひそと蔑むような話題が聞こえる。続けて教室を出た友人に同じ話題を振ってみると、よく知っているようだった。あまり触れたくない。そんな表情をしながら私に最近の噂を話して見せる。以前から少しずつ噂は聞こえていたが、ここまで大きくなるとは思っても見なかった。

「大公令嬢のご身分なのに、自らすら疑うことを言い始めたみたいよ」

 友人から聞けば、今度は皇帝陛下にお仕えする重臣の娘ながら、その権力基盤を疑い始めたというのだ。神とは何かを疑い、神から与えられた権力というものも疑い始めた。ゆくゆくは大公家すら滅ぼしかねない。多少大げさなこととはいえ、それはそれは。中々に飛び抜けたことを言う方のようだ。

「ご令嬢様が?」

 私が言うと、友人は肩をすくませる。

「編入成績はぶっちぎりで一位。しかも歴代でも最高だって。でも、その言動がね。って」

 高貴な身分の方はそういう人が多いのだろうか。にしても、神の存在を疑う、ね。私はそんなこと考えたこともなかった。神とは常にそこにあるのだと教わったのだから。

「あ、噂をすれば」

 ふーん、と私が小首をかしげた時、友人が私の後ろを差した。振り返ればそれとわかる、存在感はさすがというべきか。確かに高貴な身分らしい立ち振る舞いの女性が、ひと際目立っている。少し紺めいた腰まである黒髪は、首下でしっかりと結わえられている。身分からなのだろうか。目つきは少し厳しいが、威圧するほどではない。重圧のような威圧感はむしろ体全体から出ている、と言った方がよいだろうか。

 一歩ずつこちらへ近づいてくる。その足運びと足音。歩き方からして気品がある。厳しく育てられたのだろう。身にまとう雰囲気は、環境の裏返しなのだろうか。本物を前にして、以前から抱えていた好奇心が噴出するのを私は抑えきれていなかった。

「大公令嬢殿」

 その姿に見とれた私は、彼女が目の前を過ぎるとき口走っていた。横の友人が引き攣った声で私に声を上げようとした。帝国内で一二を争う地位を持つバルチック大公イヴァン=ヴェレヌォフスキーの娘。はるか上を見上げるようにしてようやく影が見える程に家格の違う私が、彼女を呼び止めたという事が何を意味するのか。私がそれに気づいたのは数秒した後。そして、その時には全てが動き始めていた。彼女の放つ重圧が私にのしかかり始めた時、遅すぎたのだと理解した私がそこにいた。

「何か?」

 足を止めた彼女は、左足を下げてこちらへ向き直った。視線が私を捉える。着こなされた制服は、首元のリボンに青いピンが刺されている。大公家の色だ。胸ポケットには大公家の紋章が刺繍されている。襟を抑えているのは、蛇を模したピン。杖に巻き付く黄金の蛇は永遠の知性を象っている。髪を結っているリボンは水色の長方形だろう。他の装飾に比べれば驚くほど地味だが、よく見れば、長辺を金糸の波で留めている。

「い、一度お話をしてみたいと思っておりまして」

 必死に絞り出した声は、彼女の圧で喉から逆流する。言いたい言葉がそのまま出てこない状態で、それだけが辛うじて飛び出した。彼女は答えない。無言で、続きを言えと言っている。もう一度大きく息を吸う。声が乗らない息が数秒口から放たれてはそのまま落ちていく。言葉が出ない。

「神を信じますか」

「ちょっと!」

 友人が私の肩をつかんだ。裏返った声がその気持ちを私に伝える。正気ではない。そう言いたいのだろう。彼女は数秒目蓋を閉じた。再び姿を現した瞳には、相変わらず感情はない。ただ、こちらを見透かそうという意志だけがそこにはあった。

「いいえ」

  はっきりと言い切った彼女に、二人して呆然となっていた。私だけでなく、周囲からも驚愕の声。ひそひそ話があちこちから聞こえる。それでも、彼女は聞こえていないような感じだ。どこ吹く風と言いたそうに、彼女は続けた。

 「あなたの言う神とは何でしょうね」

 「えっ?」

  瞳孔が開いているのが自分でも分かった。眩しい。その視界の中で、彼女の口元が一瞬笑った。言われ慣れて、もうおかしくも何ともない。そう思っているのが逆におかしい。そんな表情だろうか。笑わないその視線が、私を捉えて離さない。

「我が神が、我が主が、聖星が、聖痕が、聖杖が、聖剣が、だなんて。そこに神はいません」

 きっぱりと言い切ったその声が、私の脳に突き刺さる。ちらりと横を見れば、絶句した友人が立ち尽くしている。彼女が一つため息をついた。

「それだけですか?」

 思わず背筋が伸びた。彼女は話を切り上げることを望んでいる。それを遮ってはならない。私の意志に反して、脊髄は謝罪しようとしていた。

「申し訳ございませんでした」

「謝る必要はありません」

 私の前を彼女の肩が横切る。

「立ち話は次からおやめになったら?」

 歩みを進める前に彼女はそう言い残した。再び私が謝罪し、頭を深々と下げると、彼女は一歩踏み出す。数歩進んだところで、右足が止まる。

「御用があるなら、午後の図書館にいらっしゃい」

 そう言い残すと、束ねられた髪を揺らして背中は過ぎ去っていく。午後の図書館。その単語が私の脳内をふわふわ漂っている。その背中を見守ることしかできない。さながら時が止まったかのように、辺りは静かで私は身動きが取れなかった。

「いきなり何てこと言うの!」

 友人が私を強く揺さぶる。まぁ、当然だろう。左右に強烈に揺れる視界の中で、ついさっきの事が脳内に鮮明に浮かび上がる。急に血圧が上がってきたのが分かる。心拍数が上がる。揺れが収まった時、ついさっきまで視線に捉われていた目が、急に熱くなってきた。

「寿命が縮むかと思った」

 ため息とともに漏れた言葉に、友人が勢い良く頭をはたく。

「あたしは死ぬかと思ったよ!」

 ほぼ涙目になりながら手をばたつかせて叫ぶ。うん、確かに。私も少し想像が足りていなかった。ともかく、どんな人物なのか接触することには成功した。そうすれば、私の興味はもう彼女の考えに向けられている。人前で公然と神を信じないと言い切ったその姿勢はどこから来るのだろうか。容易には分からないとは思うが、少なくとも突き放されることはなかったのだ。

「まさかとは思うけど」

「図書室へ行く」

 若干潤みながらも、訝しんだ目でこちらに自重するように視線を向けてきた友人に即座に言い返す。しばらく口をパクパクさせた後、諦めたように長いため息をついた。

「ほんと、あんたの積極性には負けるよ」

 頭に手を当ててため息をつかれる。一人で行くよ。私はそう言ったが、何をしでかすか分からないから付いて行くと言う。どうにも信用されてないらしい。

「廊下の諸君は教室へ入りなさい」

 つかつかと、革靴の音を響かせながら教師が廊下を歩いて来る。慌てて教室に入ると、眼鏡のチェーンを金色に輝かせながら、教師が入ってきた。

 聖キリログラード女学院。皇后陛下により宮廷女性の教養向上を目的に設置されたのが始まりだった。その後、皇帝陛下が外交の場で有効性を確認すると、入学試験を設けて貴族、官僚の子女まで門戸が広げられた。古典文学から歴史、外国語、科学、社交マナーまで。二部制の学院では初等部、高等部の計一二年を通してこれらが徹底して教え込まれる。帝国の威信をかけた、というのは少し言い過ぎであろうか。それでも皇后陛下はかなりの期待を寄せている。そんな話だ。

「では、エカテリーナさんエカテリーナ=レナートヴナ。読み上げて」

 帝国史は私の好きな教科の一つだ。過去に生きた英雄はどこで何をしたのか。その場所は今どうなっているのか。もはや見ることは叶わない景色が、目前に広がる文字列に乗って生き生きと展開されていく。資料に裏付けられた物語が現代まで続いていくことを想像するのは私にとっては夢のようなひと時だ。

「はい。皇帝ロマノフⅢ世は、自ら近衛兵を率い、攻め寄せた遊牧民族を迎え撃ちました。それだけでなく、遊牧民族の支配下にあった鉱山を取り戻し、優れた金属加工技術が花開く礎を築きました」

  黒板に地図と展開が書かれていく。帝国史は神話に遡りこの国がいかに始まったか、そして、どのように版図を広げたか。誰が味方で誰が敵だったか。他国との関係はどのように変化したか。それらを三年かけて学ぶ。とはいえ、大まかな流れはほぼ半年で終わり、後は、決定的に重要な転換点において誰がどうしたかを学んでいく。

 「えぇ、ありがとう」 

 私が読み終わると、先生は教卓前で制した。過去の戦争の記録。それは、この先の帝国の足元を照らす灯になるのですよ。先生はそう締めて、教室を後にした。


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